Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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72億8千万番目
木曜日、神奈川横浜に行くため、朝8時前に武蔵境駅のホームに並んでいた。

首都圏のどの路線もそうだと思うが、8時前後はかなり混む。
この日は、吉祥寺〜三鷹間で車両点検をした影響で、少し遅れが出ていたから余計混んだ。
電車を2本乗り過ごし、最前列に並ぶことができた私の後ろには10以上の列ができていた。

上り東京行は、定刻より5分遅れてオレンジの姿を現した。
降りる人はいない。
乗る人だけだ。

乗る前から、ほぼ満員の状態だったが、頑張ればまだ10人程度は隙間に入り込めるだろう。
まだ着膨れの季節ではない。
そう思って、一歩踏み出そうとしたとき、私の後ろの男が私を強い力で押しのけて真っ先に乗ろうとした。

私がよろけるのも構わずに、男は満員電車にぐいぐいと突進していった。
右手には弓、背中には大きなリュックを背負っていた。
背は低くて150センチを超えたくらいだった。

もしかしたら、弓道大会でもあって、開始時刻に間に合わなくて焦っていたのかもしれない。
70歳は超えているように見えた。
2メートル以上ある弓とでかいリュックが、満員電車ではかなり迷惑だという想像は働かないようだ。

しかも、「すみません」という、この場合、当然発すべき言葉もない。
見事な仏頂面だった。

弓道というのは剣道と同じように、礼に始まり礼に終わる、礼儀を重んじるスポーツという印象があるのだが、それは私の間違いだったか。

満員電車の中で、長い弓の存在は明らかに異質で、多くの人がその弓とでかいリュックを見て眉をひそめていた。

電車は混んだまま新宿駅に到着した。
私は、そこで降りたのだが、弓道老人は車内の半分近くの人が降りようとする流れに抵抗して、ずっと同じ位置に立ち止まったままだった。
弓道老人の周りにいた人たちが「降ります」と告げても、「う〜ん」と踏ん張って、譲ることもしない。

私は、痩せているというメリットがあるので、この種の混雑でも平気でくぐり抜けることができたから、簡単に新宿駅のホームに降り立つことができた。
降り立つ寸前に、「おい、ジジイ、突っ立ってないでどけよ! みんなが降りられないだろが!」という男の怒声を聞いた。
それに続いて、「降ろせよ、閉まるだろうが!」の叫び声。
さらに、「どけ、どけ!」のいくつかの声が続いた。

そのあと車内とホームで、どのような修羅場が演じられたのか私は知らない。
先を急いでいたからだ。

皆さま方が、平和な状態のまま、新宿駅に降りたてたことを願います。
(無理かもしれない)


……というような話を、体はミニチュアだが、世界で72番目に心が広いクロサワにしたら、小さく首をかしげながら、困ったような顔で語り始めた。

「キリンおやじさん。どんな事情があったにしても、お年寄りには優しくすべきです。そのお年寄りは頑固に足を踏ん張っていたわけではなく、身動きができなくてパニックになっていたのかもしれません。年をとると咄嗟の判断が鈍るものです。それをフォローするのが、若い者の役目ではないでしょうか。満員電車で長い弓が邪魔なら、邪魔にならない場所にお年寄りを誘導すればよかったのでは」

しかし、現実問題として、ほぼ身動きの取れない満員電車で、そんなメルヘンのような光景が期待できるだろうか。

「それをメルヘンと言ってしまったら、日本は若者の事情だけが優先される国になって、老人の事情を考えない弱者置き去りの国になってしまいます」

その老人擁護論は、私を強い力で突き飛ばして、満員電車に長い弓とでかいリュックを背負って乗車するというマナー無視を考慮していないと思ったが、今回の訪問の目的は違うところにあったので、その話はここで打ち切った。


「ありがとね、キリンおやじ。わざわざ朝早くから来てくれて」と言ったのは、ポニーテールさんだ。
キリンおやじ、という愛すべきなまえは、ポニーテールさんが、私の首がキリンばなれ(?)して異常に長いことから付けた呼び名だ。

ポニーテールさんは、無謀にも誰も知り合いがいないのに、高校卒業後に奄美大島から東京に出てきて、都会や職場で何となく居場所をなくしていたころ、不運にも横浜根岸森林公園をランニング中にガイコツと出会った。

そして、理由は定かではないのだが、なぜか武蔵野のガイコツに懐いて、ガイコツを東京での親代わりに仕立て上げ、その後、体はミニチュアだが世界で71番目に心が広いクロサワと昨年結婚した。

そのポニーテールさんは、今年の8月末にめでたく子どもを出産。
だが、古い言い方になるが「産後の肥立ち」が悪く、一度家に帰ってみたものの、立ち上がるのもやっとの状態だったので、再入院した。
(出産時の大量出血の後遺症らしい)

入院期間は2週間で、その後退院。

ポニーテールさんの病名は貧血(私と同じだが、私は『命にかかわる貧血』だから、私のほうが偉い)。
最初は、ポニーテールさんの負担を軽くするため、クロサワの母上が赤ん坊の面倒を見た。
そして、次に奄美大島からポニーテールさんの母君が横浜にやってきて、交代でサポートをした。

だが、この日だけは、皆のスケジュールが調整できずに、クロサワから私あてにラブコールが来たのだ。
「申し訳ありませんが、キリンおやじさん、半日だけ、妻と赤ん坊の面倒を見ていただけないでしょうか」

私は、人の窮地を積極的に救うほどの良い性格を持ち合わせていないので、「面倒を見ることにやぶさかでない」と性格の悪い答えを返した。
「ありがとうございます。やぶさかでお願いします」

ということで、朝早くポニーテールさんと赤ん坊の面倒を見にいったのである。

クロサワ、朝メシは食ったのか?
「はい、ツマが作ってくれました」

そうか、それはツマらないな。

私の今世紀最低のダジャレに、盛大にズッコケてくれたクロサワ。
これほど気持ちよくズッコケてくれるのは、世界で70番目に心の広いクロサワだけだ。
ポニーテールさんは、いいやつと結婚したと思う。

その世界で69番目に心の広いクロサワは、横浜の介護用品販売会社に出勤するため、9時22分に横浜大倉山のアパートを出て行った。

出かけるとき、思春期の私の目の前で、ポニーテールさんと赤ん坊の頬にキスをするという暴挙に出た。

私が頬っぺたを突き出したら、クロサワはキスをしてくれただろうか。
やってみる価値はありそうだ。
次回を期待しよう。


「キリンおやじ、悪いね」

悪いって、俺の頭のことか?

「たまには、真面目に話そうよ。そうじゃないと、感謝の言葉が正確に伝わらないよ」

まさか35歳離れた子に説教されるとは思わなかった。
長生きはするものだ。

では、役割分担を決めようか。
俺は、君と旦那のメシを作る。
そして、キッチンまわりと風呂、部屋の掃除を受け持とう。
奥様は、赤ん坊の世話をしていてくだされ。

「え? でも、それってキリンおやじの方が負担が大きくない? 貧血、まだ治ってないんでしょ。それは悪いよ」

ヘモグロビンの数値は、医者からいくつって言われた?

「8前後だったかな。9を超えることもあるよ」
(ヘモグロビンの数値より、ジャニーズの方に興味がある、あるいは『バクマン。』の方が面白いという人には、意味不明の会話でしょうが)

俺は、5.9まで下がったことがある。
(今はありがたいことに10を超えることもある)
でも、俺は強いから、普通に生きている。
俺に任せろ。

「5.9って!(絶句した?)」

俺は7や8でも動いているし、歩いているし、働いている。
今は絶対、赤ん坊を産んだ君のダメージの方が大きいと思う。

俺は、残念ながら子どもが産めない体質だから、産んだ人の辛さはわからない。
ただ、貧血の辛さはわかる。

だから、俺に任せろ。

「任せろって言ったって」
ポニーテールさんが泣き出してしまった。
つられて赤ん坊も泣き出してしまった。

余計なことを言うんじゃなかった。
赤ん坊を産んだあとは、肉体的にも精神的にも不安定だから、迂闊なことを言ってしまった私が悪い。

だから、嘘だよ、もう治った。せっかく来たんだから、働かせてくだされ、とお願いした。

そんな見え透いた嘘に騙されるほど、ポニーテールさんは愚かではない。
私は、愚かではない人に適した説明方式に変えた。

俺は、さっきも言ったが、普通に働いている。
家族のメシも作っている。
武蔵野から杉並まで自転車で往復することもある。
そんなことをしても、嬉しいことに生きている。

しかし、君はいま人のサポートを受けなければいけない状態だ。
君がサポートを受けなければ、赤ん坊に影響がでる。

俺は、サポートがいらない。
君は、サポートがいる。

つまり、サポートのいらない俺が、君をサポートをするのは当たり前のことではないだろうか。

変顔で赤ん坊をあやしながらの話だったから、説得力はなかったかもしれない。
だが、赤ん坊が泣きやむと同時に、ポニーテールさんが小さく頷いた。

そして、私を罵倒した。
「この強がりキリン!」

強がりキリンは、不得意な掃除をマイペースでこなし、たまにキッチンのダイニング・テーブルの上でMac Bookを開いて仕事をした。
そして、昼メシ時になると、チャチャッと親子丼をつくり、ポニーテールさんと食った。

そして、食い終わるとまたMacでお仕事?(宣伝)

3時を過ぎたので、晩メシの仕込みをはじめた。
7時前にクロサワが帰ってくるらしいが、私の役目は5時までだ。
なぜなら、私は9時から5時までのパートタイム・キリンだからだ。

晩メシは、イカと大根と絹さやの煮物。
サバの照り焼き。
そして、タケノコとアサリの炊き込みご飯。
それに、シメジとひきわり納豆の味噌汁がつく。

そんな超絶なご馳走を仕込んでいた3時半過ぎに、クロサワが帰ってきた。
奥様の様子を見に帰ってきたのかと思ったら、早退したのだという。

クロサワは、仕事が思いの外はかどったので帰ってきたというが、ポニーテールさんから密かに連絡を受けて、急遽帰ってきたに違いない。
私が無神経なことを言ったせいで、二人に余計な気を使わせてしまったようだ。

その自分勝手ぶりは、朝の弓道老人と同じではないか、と私は阿蘇山のカルデラ並みに凹んだ。
そして、秋保大滝並みに落ち込んだ。

凹んで落ち込んだ思春期の私の目に、クロサワがポニーテールさんと赤ん坊の頬にキスをする姿が映った。

そうだ!
ほっぺにキスをしてもらえば、立ち直れるかもしれない。
そこで、私はクロサワに右の頬を突き出し、右の人差し指で「ここでキスして(作詞作曲・椎名林檎様)」と、我ながら気持ち悪い仕草でアピールした。

しかし、「ああ、剃り残しがありますねえ。シェーバーをお貸ししましょうか」と、いなされた。


クロサワは、世界で72億8千万番目に優しくない男だった。


2015/10/17 AM 06:29:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]



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