Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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バチあたりな3人
久しぶりに、朝の目覚めが良かった。

5時間に足りない睡眠だったが、もう常連さんになった感のある「立ちくらみ」もなく、朝の清々しさが体中を満たしていた。
朝食の野菜たっぷりのタン麺もうまかったし、そのあとのトイレもキレのあるでっかいのが出た。

オンボロアパートの庭のダンボールに住み着いたセキトリ(猫)に、薄味の牛丼を振舞ったら、18秒で間食したあとで、感謝の眼差しで見上げられた。
「うまかったぜ。ありがとうよ」

どういたしまして。

すべてが、心地よかった。

だが、人生というのは、こんなときこそ不幸が忍び寄ってくるという真理もある。

昔の人は、味のあることを言った。
禍福はあざなえる縄のごとし(これは来年の入試に出るので、受験生の方たちは予習をしておいてください)。

災いと幸せは、背中合わせ。
人の一生は、すべて同じバランスで移ろい過ぎていくものだ。

iPhoneが震えたとき、私は、その人生のバランスを痛感した。
ディスプレイに表示されたのは、「ススキダ」という、おぞましい文字だった。

この瞬間、朝の清々しい時間は飛び去り、災いが私の頭に降りかかってきた。

極道コピーライターのススキダが言った。
「兄貴が死んだ。くも膜下出血だ。いま俺は病院にいる」

わかった。
通夜は無理だが、葬儀には参列させてもらう。

「悪いな。疲れているのにな」

気にするな。

ススキダの兄貴は、今年還暦(60歳)になるはずだ。
60歳になったのか、59のまま人生を終えたのか。
それはわからない。

ススキダの兄貴とは、10数回しか会ったことがない。
すべてが、ススキダの横浜の事務所でだった。

ススキダの兄貴は、日本人の父親と中国人の母親の間に生まれた。
だから、もちろんススキダも日中の混血である。

ススキダの場合は、日本人として、ごく普通の名前を親から与えられたが、兄貴の方は、なぜか中国人を連想させるような名前を親に授かった。
おそらく、それが兄貴の人生を少し捻じ曲げたのだと思う。

小学校、中学校で、そのことで兄貴はイジメにあった。

人は、異質なものを排除する傾向にある。
善悪のわからない子どもなら尚更だ。

この社会では、たとえ異質なものであっても強いものは排除しないが、弱い者は徹底的に排除することが力学的な法則になっていた。
ススキダの兄貴は弱かった。
だから、いじめられた。

高校生になって、環境が変わればイジメはなくなるかと思われたが、それなりに偏差値の高い私立高校でも彼は排除された。
いつの時代もそうだが、教師は何の力にもならなかった。
だから、高校一年の夏に、彼は退学した。

彼に、わずかでも幸運があったと思うのは、親が少しだけ裕福だったことだ。
彼の父親は、本職は普通の会社員だったが、新宿歌舞伎町にビルを持っていた。
父親が、そのビルの管理をする会社を子どものために立ち上げ、16歳の彼が、そのビル管理会社を取り仕切ることになった。

もちろん、社長はススキダたちの父親だったが、実質的に運営をしていたのはススキダの兄貴だった。
それからずっと、ススキダの兄貴は、そのビル管理会社の責任者であり続けた。

そして、責任者のまま、死んだ。

人付き合いが下手なススキダの兄貴は、結婚はせず子どももいなかった。
ビル管理会社の責任者だから、報酬はかなりのものだったと思うが、彼の暮らしは質素で、住まいは東京府中の古い賃貸アパートだった。
車も持っていなかった。

ススキダの兄貴の趣味といえば、種々の資格を取得することとランニングだった。
資格は、大検や不動産鑑定士、司法書士など50種類以上を持っていたという。
しかし、それを活用することは生涯なかった。

ランニングが趣味だということだけで、私との小さな接点が生まれた。

「今度、東京マラソンを一緒に走りましょうよ」とススキダの兄貴から何回か誘われたことがあった。
結局それは叶わなかったが、ススキダに、「兄貴が自分からそんなことを言うのを初めて聞いたよ。おまえのことを気に入ったのかもな」と言われた。

日陰者。
おそらく、ススキダの兄貴は、私に同じ日陰者の匂いを感じたのだと思う。

そして、実は私も同じことを感じていたのである。
私はいじめられたことはなかったが、絶えず多数派から距離を置いて、強いものに反発し楯突くことを繰り返していた。

俺は異質なんだ、とずっと思っていた。
いまも思っている。

ススキダの兄貴は、そんな私の日陰の部分を感知して、心を開いたのだと思う。
今更、確かめようがないが。


葬儀は、友だちのいない兄貴にしては参列者が多かった。
多いといっても20人弱だったが、それなりに形にはなったと思う。
ススキダの同業者と歌舞伎町のビルのテナントの人がほとんどだった。

「家まで送ろう」
東京府中の斎場から武蔵野のおんぼろアパートは、車なら15分程度だ。
だから、送らせてやる、と答えた。

だが、その前に湿っぽい空気は飛ばそうぜ。
吉祥寺のカフェでランチしようか。

私の提案を聞いて、ススキダが無言で方向を変えた。
助手席にいたのは、ススキダの奥さんだった。
兄貴のお骨は、奥さんが持っていた。

吉祥寺のカフエに入った。
白い壁、白い調度品。
普段なら、唾をかけたかもしれないが、葬儀帰りには、その白づくしは悪くなかった。

メニューを見ていたススキダがメニューの一点を見つめていた。
そして、目から水が溢れた。

店のBGMには、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」が流れていた。

私は、人を慰めることができない人格破壊者なので、放っておいた。
ススキダの涙は、次の「マイ・ライフ」で突然止まった。
時間にしたら4分程度かも知れない。

「悪いな。兄貴の思い出をたどるのに3分もかからないことに気づいて、哀しくなってな。兄弟なのに薄情なもんだな」
ススキダが涙で腫れた目に老眼鏡をかけてメニューを確かめたが、メニューで悩むのが嫌いな私は、ウエイターを呼んで勝手に注文した。

ススキダ夫妻は、ボンゴレ・ビアンコとアイスミルクティー。
私はツナサンドとホットコーヒーだ。

ススキダの苦笑い。

いつもは、ススキダの13倍は喋る奥さんが、今日は静かだった。
だが、ススキダの笑いを見て安心したのか、水を一気に飲んだあとで口を開いた。

「ボンゴレ・ビアンコと言えば、今年の春に、横浜の事務所で作ってくれましたよね。あれは、ニンニクが適度に効いていて美味しかったです。ここのは、どうでしょうかね?」

まあ、俺が食うわけじゃないから、美味くてもまずくても関係ないですけどね。

「その言い方。Mさんにしては、ひねくれ度が足りませんね。
普段は、もっとねじ曲がったお答えが返ってくるのに、お疲れなんじゃないですか?」

苦笑するしかなかった。
ススキダと10歳離れた奥さんは、顔の表情と声で判断すると30代といっても通用するほど若々しかった。
そして、頭の回転が早かった。

「美女とゴキブリ」

これも目に見えない誰かが、バランスを取っているのかもしれない。
そうでなければ、ススキダにこんな幸運が巡ってくるわけがない。

喪服に似合わない笑顔で、ススキダの奥さんが言った。
「でも、忙しいのに、なんで料理なんかしようと思ったんですか。睡眠時間を削ってまで、ご家族のお弁当を作ったりして」
無邪気な笑顔だった。

負い目ですかね。

「負い目?」

妻には、俺なんかが夫で申し訳ない、という負い目。
子どもには、俺なんかが父親で申し訳ない、という負い目。
母には、俺なんかが息子で申し訳ない、という負い目。

だから、俺の妻になってくれてありがとう、俺の子どもに生まれて来てくれてありがとう、俺の母になってくれてありがとう、という感謝の気持ちを忘れないために料理を始めたんですよ。
そうしたら、料理は科学だということに気づいて、ハマってしまったというところですか。

ボンゴレ・ビアンコとサンドイッチが同時に運ばれてきた。

話を中断して、食うことに専念した。
ツナサンドは、塩加減が絶妙でオイル臭さを感じさせない完璧なサンドイッチだった。
プロフェッショナルを感じさせる味と言って良かった。

ボンゴレ・ビアンコは?
「不味くはないですけど、平均的な味ですね。もしかしたら、人に対する『負い目』が足りないのかもしれませんね」
ススキダの奥さんが、片頬にスパゲッティを含んで首をかしげた。

「いや、これは『負い目』よりも『感謝』が足りないのかもな」
ゴキブリが得意げに鼻を膨らませた。
そして、話を続けた。

「さっきの話が本当なら、俺が友だちだということにも、おまえは感謝しなきゃいけないってことだよな。つまり、俺にも負い目を感じているってことか?」

確かにな。
昔はゴキブリが大っ嫌いだったが、今では冷静に彼らの生き様を観察することができる。
そのことに関しては、感謝しているよ。


それを聞いて、手を叩いて喜ぶ喪服の美女。


おそらく、これでススキダの兄貴の供養はできたはずだ(と思う)。



エステマに取り残されたススキダの兄貴。

バチあたりで申し訳ない。



2015/09/19 AM 06:28:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]



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