Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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酔わない体質
年とともに酒が弱くなってきた、という人がいる。

だが、その法則は、私には当てはまらないということが最近わかった。

年末もギリギリになって、同業者が「忘年会、やりましょうよ」というので、気は進まなかったが29日の夜、行ってきた。
(俺は、おせちのレシピを考えるのに忙しいんだけどね)
場所は、吉祥寺の居酒屋だ。

私は、馴染みの店を作ることに臆病な性質をしているから、店はなるべくなら毎回代えたい。
しかし、同業者が、「めんどくさーい!」というので、ここ5、6回は同じ居酒屋にしている。

顔なじみになった店の従業員の女の子が、片エクボで笑いながら、「まいどー、7名様ですねえ!」と言った。
その状態を居心地悪く感じるから、私は馴染みの店を作らないのである。

しかし、片エクボのお姉さんは、お構いなしに言うのだ。
「あれ、お客さん、髪染めましたぁ?」

いや、毛が生え変わったんだよ、と私が言うと、片エクボに「ハムスターかっ!」とツッコまれた。

そうか、ハムスターって、毛が生え変わるのか、とまた一つ賢くなった私だった。


同業者との飲み会とは言うが、正確に言うとジャイアンツ・ファンのオッサンたちの集い、と言った方がいいかもしれない。
ようするに、アホの集まり。

だから、私には関係がない。


アホどもが盛り上がるのを横目の端の端に入れながら、私は生ジョッキを飲み、イカの丸焼きを食った。

私とは関係のない紅白歌合戦の話題になると、私は生ジョッキを飲み、天ぷら盛り合わせを食った。

私とは関係のない「半沢直樹」の話題に変わると、私は生ジョッキを飲み、天ぷら盛り合わせの残りを食った。

私とは関係のない「じぇじぇじぇ」や「相棒」の話になると、私はカティ・サークのストレートを頼み、塩キャベツを食った。

私とは関係のない「箱根駅伝」の話題が出ると、私は生ジョッキを飲み、漬け物をかじった。

私とは関係のない、「今年流行った曲」の話になると、私はカティ・サークのストレートをお代わりした。

私とは関係のないアベノミクスの話に変わると、私はカティ・サークのストレートのお代わりをお願いした。

私とは関係のない「来年の抱負」の話では、私は泡盛のロックを飲んだ。

私とは関係のない「昔は良かったね」の話題になると、私は泡盛のロックのお代わりをした。

アホどもが、チューハイたった2杯で、汚く酔っぱらったのを冷静に観察しながら、私は最後に片エクボに生ジョッキをお願いした。


結果、生ジョッキ5杯、カティ・サークのストレート3杯、泡盛のロック2杯を飲んだ。
ほとんど、酔わなかった。

話がつまらなかったから酔わなかったのか、あるいは、酒が美味すぎて、酔うのを忘れたのか。
頭がスッキリし過ぎて、酒の追加を頼んだとき、片エクボのお姉さんが、毎回何歩の歩数で持ってきてくれるかまで把握できるほどだった。

「飲み過ぎですよ、お客さん」と片エクボに言われたとき、俺は君のエクボの深さを想像で計ることができるくらい冷静だ。だから酔っていない。俺を酔わせたいなら、もう片方にもエクボを作ってごらん、と答えた。

すると、片エクボは、「酔っぱらいよりも厄介かもね」と、片エクボを強調するように、私の顔にエクボを近づけ、ウインクをした。
そのときだけ心拍数が上がったが、酔うほどではなかった。

和装のコスチュームだったので、太ももが見えない。
太ももの見えるコスチュームだったら、私はKOされていたかもしれない。


最後、会計のときになって、幹事のオオサワさんが金を集めにきた。
そのとき、私には関係のない、と言ったら、「あんだけ飲んどいて、関係ないはないでしょう!」とマジで怒られた。

も、申し訳ござらぬ。

酔っぱらっていても、私が酒をたくさん飲んだことは、覚えているらしい。
酔っぱらい、恐るべし。

オオサワさんに、「ああ、そう言えば、Mさんに来年の抱負を聞いていませんでしたね」と聞かれた。

世界平和と国家安康、そして、皆様方のご健康を祈ることでございます、と答えた。

「なんだ、Mさん、酔っぱらってるんじゃないですか」
肩を叩かれた。
(酔っぱらいの肩たたきは、加減を知らないから痛かった)


痛さを感じながら思った。

ああ、そうか。
私は、いつも気持ちが酔っぱらっているから、酒を飲んだからと言って、特別酔うことがないのか。

酒は、俺を酔わせるアイテムとしては、力不足なんだな。

それも、なかなか、つらいものだな。

重い十字架を背負ってしまったものだ。


来年こそは、酒を飲んだら、酔える体質になりたいな。




ということで、皆様方、よいお年を。





2013/12/31 AM 08:18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

クリスマスイブにナンテヒダ
極道コピーライター・ススキダから「俺のおごりで忘年会をしようぜ」と言われたとき、寝不足から来る幻聴かと思った。

だから、悪いな、もう一度言ってくれ、と言った。

「忘年会をやる、俺のおごりだ」

おまえ、精神科にでも行ったか?
心がイケメンになったじゃないか。

「俺は、おまえに世話になったつもりはないんだが、レイコ(ススキダの奥さん)が、おまえにお世話になったから、ぜひ、と言うんだ。俺は、女房の希望はすべて叶えるようにしているんだ。紳士だからな」

今年ススキダから入ってきた輸入雑貨店のPOPの仕事のとき、間に入ったのがススキダの奥さんだった。
彼女が、仕事の段取りをするのは初めてだったから、初歩的なことから教えた。
そのことを、世話になった、と言っているのだと思う。

いつも思うんだが、おまえと奥さんは、本当に同一生物なのか。
おまえの血液は、何色をしている?

「綺麗な透明だ。俺の心と同じように」

じゃあ、透明人間と忘年会はできない。
断る。

「本当か」

嘘だ。

だが、知っているように、俺は高級なものを食うと下痢をする上品な体質をしている。
だから、場所は庶民的な居酒屋にしてくれ。

「わかった。庶民的な店で、個室のあるところを探そう」

個室?
個室に連れ込んで、俺に何をするつもりだ。
俺は、怖い顔の生物が、宇宙で一番嫌いなんだ。

「なあ、このコントは、いつまで続くんだ?」とススキダ。

俺の人生の残りの台本は、あと37ページだ。
少なくとも、それまではコントが続く。


なぜなら、俺の人生が、コントだからだ!


電話を切られた。

まだ、日時も場所も、決めてないんですけど………。

と思っていたら、夜ススキダから、日時と場所を知らせるメールが来た。
メールの最後には、「宇宙一面倒くさい男へ」と書いてあった。

私の称号が、また一つ増えた。


高校3年の娘とヨメが、K−POPアーティスト、SHINEEのコンサートに行き、息子が苦情応対のアルバイトをしていたクリスマスイブ。

場所は、新宿歌舞伎町の海鮮居酒屋。
一見したところ、結構高級そうな店ですぞ。

お腹が痛くなってきた。

お腹を押さえながら、案内された個室に入ると、ススキダと奥さんだけだと思っていたのに、他に3人いた。
一人は、20代半ばの女性。
それに、30歳くらいの筋肉質のガイジン。
そして、1歳半くらいのハーフの可愛いガキ。

予期せぬ状況に、本当にお腹が痛くなって、挨拶もせずに、トイレに駆け込んだ。

スッキリしたら、気持ちが落ち着いて、ガイジンでも宇宙人でも何でも来やがれという気分になって、大胆に個室の戸を開けた。

ドン!

あまりの音の大きさに、ガキが泣き出した。

ソーリー、ソーリー、アベソーリ、と言っても泣き止んでくれなかった。

ガイジンに、ガキをひったくられた。
怒っているものと思われる。

もう無理! と思って帰ろうと思ったら、ススキダに心を見透かされて、「逃げるなよ!」と命令された。

この野郎、俺は、おまえより二つ年上だぞ、もっと年上を尊敬しろ。
逮捕するぞ。

「逮捕されるのは、おまえだ。
ブライアンは、カナダで警察関係の仕事をしている。
今日は、歌舞伎町のブタ箱に泊まって、明日はバンクーバーの刑務所だな。
ああ、パスポートはいらないからな」

また、腹が痛くなってきた。

しかし、どんな状況でも、悲劇を喜劇に変えるのが私の台本だ。

「シェー」をした(若い人はご存じないかもしれないが、赤塚不二夫先生のマンガのギャグです)。

その結果、ガキが泣き止んだ。

そして、忘年会の間、なぜか私にベッタリだった。
「シェー」が好きなガキのようだ。

20歳半ばの女性は、ススキダの娘さん(奥さん似で良かった、ススキダに似ていたら……)。
ボストンの大学を経て、カナダの企業に入社。
バンクーバーでブライアンと知り合って、2年前に結婚したという。

ススキダの娘が結婚したのは聞いていたが、まさか、ここにいるとは思わなかった。
まだ、心の整理ができないんですけど………。

ちなみに、ススキダ夫妻は、今の国籍は日本だが、ススキダは日中の混血。
奥さんのご両親は、二人とも香港在住の中国人だ。

だから、二人とも、日本語、広東語を話すし、英語も話せる。
つまり、トリリンガル!

ススキダの娘さんは、日本語と英語のバイリンガル。

で、ブライアンは?

英語の他に、フランス語少しと日本語チョット……らしい。

インターナショナルなご家庭である。


無駄だと思ったが、私は、どことどこのハーフだ、と考えてみた。

おそらく、ガイコツとキリンのハーフだ。
だから、ガイコツ語とキリン語、日本語が話せるトリリンガル!
我ながら、たいしたものだ。

これも無駄だとは思ったが、俺はガイコツ語とキリン語が話せる、と一応言ってみたら、みんなの顔が一瞬で引きつった。
ガキだけが、意味もわからずに「シェー」と言って笑ってくれた。

俺は、子どもに好かれるのだ、とポジティブに考えることにした。

料理は、「海鮮盛り付け飲み放題コース」というのを頼むことにした。
金額を確かめたら、3980円と言うではないか。

どこが、庶民的なんだ、ススキダ!
高級割烹ではないか。
俺が、下痢したら、どうしてくれるんだ!

そう言ったら、ブライアンが、「ゲーリー?」と聞いたので、イエス、ゲーリー・イズ・マイ・ベスト・フレンド、と答えた。
青い目のブライアンが、真面目に頷いていた。

「おまえのコントの台本は尽きねえなあ」と、ススキダが褒めてくれた。

生ジョッキを飲み放題しながら、たまに刺身をつまみ、談笑しているうちに、私の膝の上のクリス(紅梨栖)がオネムになった。
だから、ススキダの娘にクリスを渡した。

そのとき、ススキダの娘に、「Mさん、髪の毛、黒いじゃないですか(髪染めました)。10年前にお会いしたときは、半分白かったですよね」と言われた。

ん?

つまり、10年前に、会っているということ?

申し訳ござらん。
記憶にありませぬ。

正直に言った。

「あのときは、横須賀の父の事務所でした。でも、Mさんは、缶ビールとスルメと仕事の話に夢中で、あまり私の相手をしてくれませんでした。息が、酒とスルメ臭かったのは、覚えています」

それは、失礼をいたしました。
このように美しき女性を無視するなど、愚かとしか思われませぬ。
お詫びいたします。

しかし、10年前も私は白髪が目立っていたのか。
それは、ショックだ。

なんて日だ!

私がそう言うと、ブライアンが「ホワット?」。

In Japan, say when happy.(日本で、嬉しいときに言うコトバだ)

レッツ・セイ・トゥゲザー!
ナンテヒダ!

オー、ナンテヒダ!

グーッド!

そうやって、ブライアンに親指を立てたら、いつもは必ず私の味方をしてくれるススキダの奥さんが、毛虫を見るような目で私を見ていた。
奥さんは、毛虫が嫌いなようだ。


なんて日だ!
シェーッ!


ブライアンも立ち上がって、ナンテヒダ! シェーッ!

ガイジンがやると、カッコいいな。





バンクーバーで、流行ったら嬉しいな。
(私のギャグではないが)




2013/12/26 AM 08:11:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]

シズカちゃんレナちゃん
クレーマー、と言っては失礼かもしれない。

だが、どう考えても、余計なお世話としか思えないことを、まず書こうと思う。

11月初旬、高齢の母を武蔵野のオンボロアパート近くのワンルーム・マンションに連れてきて、面倒を見ることにした。
バリアフリーの高齢者に優しいワンルーム・マンションだ。

「綺麗だし、環境もいいわねえ」と、母が喜んでくれた。

それは、私にとって、とても嬉しいことだった。


今まで母が住んでいた川崎のマンションは、とりあえず、そのまま置いてあった。
だから、形の上では、二重生活のようになる。

転居の手続きをしても、郵便物は川崎の家に送られてくることがある。
それを私は多忙の中、東京武蔵野から2週間に1回、原付バイクで回収に行く。

2週間でせいぜい10通に満たない程度の郵便だから、しばらく放っておいてもいいのだが、ここでクレーマーが登場する。

マンションの自治会長が、「防犯上、郵便物がたまっていると物騒ですから、ちゃんとしてくださいよ」と、電話で抗議するのである。

さらにご丁寧に、1階のポストではなく、家のドアに、「郵便物を溜めないで」の貼り紙まで貼ってあった。
そんなものが、ドアに貼ってあったら、住んでいないことがバレて余計「防犯上物騒」ではないのか。
神経を疑う。

10通程度では、ポストに溢れているというほどではない。
中を覗き込まなければ、郵便物が溜まっているかは判断できない。
1階のポストの場合、怪しいポスティングチラシなどは管理会社が排除してくれているので、チラシが溜まっているということはない。

防犯上、と力むほどポストが郵便物で溢れているというわけではないのだ。

だから、いつも上から目線の物言いをする公認会計士の自治会長の態度に、腹をすねかねていた私は、溜まっていた感情を制御できなくなって、いい加減にしろ、と言ってしまったのである。

嫌がらせも、いい加減にしろ!
郵便物は、ちっとも溜まっていないでしょうが!
何ですか、あの貼り紙は!
もっと気を使えないのか!

あなたは、うちの郵便物を、いちいちチェックしているんですか!
それは、明らかに越権行為でしょうがぁ!
プライバシー侵害で訴えますよ!

そんな私の抗議に、自治会長は、ドアを高速で閉めることで対抗した。

結果、私の目の前には木目調のドアだけが残った。

家のロケットランチャーを持ってこなかったことが、悔やまれた。
持っていたら、確実に乱射していたのに。

年末になんで、こんな嫌な思いをしなきゃいけないんだ!


イライラを募らせたまま、部屋に戻ろうとしたとき、家のドアの前に、10歳くらいの少年が猫を抱えて立っているのが見えた。
私の顔を認めると、笑顔で近づいてきて、「おばあちゃん先生の子ども?」と聞いてきた。
声変わり前の中性的な声だ。

おばあちゃん先生?

おそらく、母が3年前まで、部屋で簡単な書道教室(ボランティア)のようなものをしていたとき、教えていた子だろう。

母は、国語の教師をしていたこともあって、書道が得意だった。
段位も持っていたと思う。
さらに、ペン字も綺麗だ。

ここ2〜3年は、右手の握力が落ちて、手が震えるようになったので、教えることはできなくなった。
とは言っても、今でも、悪筆の私よりはるかに上手だが。

猫がニャンと言った。
小柄な猫だ。
雑種だと思うが、我がオンボロアパートの庭に住み着いた猫(通称セキトリ)より、キリッとしたイケメンだった。

耳の後ろを撫でたら、目を細めて、また小さくニャンと鳴いた。

君の猫? と聞いたら、「そうだよ」と大きく頷いた。
そして、「おばあちゃん先生、死んじゃったの?」と、泣きそうな顔で言った。

そうか、突然挨拶もなしにいなくなったから、死んだと思ったのか。
私は、彼の存在を知らなかったから、両隣にしか引っ越しの挨拶をしなかった。

クレーマーの自治会長が気を利かせて、マンション全体に告知してくれるのを期待するのは、中国が防空識別権を取り下げるのと同じくらい期待できないことだ。

母が、引っ越したのを知らない人の方が、多いのかもしれない。

少年は、よく母の元に猫を連れて遊びにきて、母の話し相手になってくれていたらしい。
二人で出前のソバを食べることもあったという。
遠く離れていると、知らないことは多い。


少年に、大丈夫だよ、と言った。
おばあちゃん先生は、死んでいないよ。
おじさんちの近くの東京武蔵野に引っ越しただけだ。

そう言ったら、少年がフナッシーのようにピョンと飛び上がって、「本当!」と叫んだ。

突然のことだったので、猫の目が、点になっていた。

だから、少年の腕の中で、猫が暴れた。
落ちないように、私が受け止めた。

セキトリよりも軽かったので、制御するのは楽だった。
猫は、私の腕の中で安定を保って、私を見上げてニャンと言った。

「そうかぁ! おばあちゃん先生、生きてるのかぁ! 良かったぁ〜〜〜!」
よほど嬉しかったのか、少年は、両手でガッツポーズを作った。

その予期しない喜びの爆発に、私はクレーマーのことは忘れた。

母が、川崎で生きてきた証のようなものが、目の前にあった。
声に出して叫びたいくらい、その喜びは大きかった。

猫を少年の腕に返しながら、私は少年を猫ごと抱きしめた。

嬉しかった。

私がフナッシーだったら、70センチの跳躍を10回は繰り返していただろう。
しかし、少年と猫を抱きしめていたので、私は跳躍を諦めた。

心だけフナッシーになって、70センチ跳んだ。


iPhone5sで、少年と猫を激写した私は、それをA4の大きさにプリントアウトし、額に入れて母に見せた。

それを見た母が言った。
「あら、シズカちゃんとレナちゃんじゃない? 元気そうだわねえ。また会いたいな」

ん? シズカちゃん? レナちゃん?

あれは、少年ではなく少女だったのか。
猫もメス?



少女がシズカちゃんで、猫がレナちゃん?




嬉しくなって、つい抱きしめてしまったが、あれはセクハラではなかっただろうか。

訴えられないことを祈るばかりだ。




2013/12/21 AM 08:24:03 | Comment(1) | TrackBack(0) | [日記]

16年後のハンバーグ
庭の木は、ほとんど葉が落ちてしまったが、大きな松だけは、生きてきた年月を誇示するかのように、威風堂々とした姿で庭の片隅に立っていた。


2年ぶりの伯母の家。
2百坪の広い家だ。

伯母と同居の次女から「熱を出して、私がご飯を作ることができないの。サトルちゃんが作ってくれたら、お母さん、喜ぶんだけどね」という電話がかかってきた。

急ぎの仕事は、なかった。
だから、昼ご飯、晩ご飯を作るために、東京世田谷区下馬の伯母の家に行った。

しかし、次女の病気は嘘だった。

「だって、そうでも言わないと、サトルちゃん、来てくれないでしょ」

私を「サトルちゃん」と呼ぶのは、この世界で、下馬の伯母と次女だけだ。
いい年をした男が「サトルちゃん」もないものだが、そう呼ばれても不快感はない。

それは、伯母と次女が、私にとって大事な人だからだろう。


伯母は、私の父の兄の奥さんだ。
父は四男。
伯父は、次男。

漫画家だった伯父は、30年以上前に、50代の若さで死んでいた。

その伯父は、自堕落な自分の弟(私の父)のことを恥じていた。
だから、「俺がおまえの親父代わりになるから、遠慮するなよ」と言ってくれた。

しかし、私は基本的に非常識な男だが、「遠慮するなよ」と言われて、遠慮しない振る舞いをする、という勇気はない。
月に一度か二度、伯母の手料理を食いに行くだけの、常識的な対応をした。

伯母は、料理が上手だった。
洋食ばかりだったが、初めて食うハヤシライスは、体が震えるほど美味かったし、ハンバーグの美味さは、私が理解している食い物の概念を遥かに超える大気圏を突き抜けた美味さだった。

ひところ、スープカレーが流行ったが、伯母は、40年前からスープカレーを作っていて、その美味さも想像を絶していた。
料理の天才だと思った。

逆に、私の母は、全く料理をしない人だった。
フルタイムで働いていた母は、料理をする暇がなかった。
だから私は、おふくろの味を知らない。

母がたまに作る味噌汁は、ダシをとっていないから、味噌の味しかしない。
カレーは、牛肉、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、カレールーを同時にぶち込んで作るから、臭みの強い味になった。

だが、まずい、などと言えるわけがない。
帰ってこない夫、引きこもりの長女を、その細い背中に抱えながら、懸命に働いてくれたのだ。

偉大な母、そして、料理の天才の伯母。
おそらく私は、幸せな子ども時代を過ごしたのだと思う。


昼ご飯は、84歳になる伯母の負担にならないように、牡蠣の豆乳リゾットとニンジンのポタージュを作った。

「お肉じゃないの?」と言われた。

伯母は、肉が大好きだった。
3食、肉でもいい人だ。

私が子どもの頃、伯母が作ってくれた料理は、ビーフストロガノフ、ビーフシチュー、タンドリーチキン、ラムの香草焼き、スペアリブなど、肉ばっかりだった。

しかし、糖尿病の伯母に、カロリーの高い食事を出すわけにいかない。
そこだけは、気を使った。

でも、晩ご飯は、ハンバーグにするからね、と言ったら、車椅子の伯母は、嬉しそうに頷いた。
84歳とは思えないほど、生き生きとした肌が、窓から入る日の光に照らされて、輝いていた。

美しい老人だと思う。

しかし、昔はもっと美しかった。

その美しさが、年月とともに、残酷に変化していくのを見た私は、少しずつ伯母の家に通う足が遠のくようになった。
美しいが、残酷に老いていく伯母の姿を見るのが、つらかったのだ。

子どもの頃、あれほど世話になったのに、俺はなんて薄情な男なんだ、という引け目が絶えず私の心の中にあった。
伯父が死んだとき、伯母を守るのは俺だ、’と決意した心が、時とともにしぼんだことが、私の引け目をさらに大きくした。
下馬の伯母の家が、遠くに感じられた。

しかし、伯母は、いつでも私を「母親・父親の目線」で見てくれていたようだ。

絶えず「サトルちゃんは、大丈夫なのかねえ。元気かねえ」と、同居の次女に聞いて、気にかけてくれたようだ。


そんな伯母に作る晩ご飯は、ハンバーグ。

私は、直接伯母に料理を習ったことはない。
伯母の料理が、どんな手順を踏んで出てくるのかを知らない。

だが、私が自分で料理をするようになって、基本になった味は「伯母の味」だった。
私が作る料理も、ほとんどが洋食だ。
それは、確実に、伯母の影響を受けていると思う。

伯母が作ってくれたハンバーグやスープカレーの味が再現できたときの感動は、言葉では表現できない。
時に、私は晩メシのとき、ウルウルしてしまうことがある。

それを見た高校3年の娘は、「またかよ! このマザコン野郎が!」と笑いながら罵るのだが、ウルウルは止まらない。
だって、俺の原点が、ここにあるのだから。


鶏・豚ひき肉をこね、形を作る。
フライパンで両面を焼いたあとで、オーブンで焼く。

付け合わせは、コンソメスープで煮込んだジャガイモ。
そして、バターをジャガイモの頭に乗せる。

他に、野菜嫌いの伯母が何とか食べられるというインゲンとアスパラを茹でたもの。
それに家から持ってきた手作りのタルタルソースを添える。

スープは、カボチャのポタージュに、かりかりのフランスパンとチーズを乗せ、オーブンで焼いたもの。
パンプキン・グラタンスープだ。
それに、ガーリックトーストを付けて完成。

その工程を、伯母は車椅子に座ったまま、ずっと見ていた。
たまに目が合うと、伯母は小さく頷いていた。

そして、指でOKサインを作った。
それで合ってるよ、ということだろうか。


次女の夫が帰ってきて、4人の夕食。

最初にナイフを入れたのは、もちろん伯母だった。
ひとかけらを口に入れた。

ソースは、潰したトマトとタマネギのみじん切り、赤ワイン、中濃ソース、醤油、ローレルを煮込んで、ドライニンニク、バジルをふりかけ、最後に少量のオリーブオイルを垂らしたもの。

「お〜い〜し〜い」と一言。

そう言った目が、40年前の伯母とシンクロした。


美しいな、と思った。


食べながら、次女が涙をこぼした。

最近は、料理をすることがない伯母だったが、「これ、お母さんのハンバーグだよ!」と、次女が声を震わせながら、ハンバーグを食べ、ジャガイモを食べアスパラを食べた。

次女の夫も、「これだよね、これがM家のハンバーグだよね。間違いないよ!」と頷いていた。


伯母も伯母の次女も次女の夫も、驚くほど速いスピードで完食をした。


だが、私は完食するまでに、30分以上の時間を要した。

「伯母のハンバーグ」を堪能したかったからだと思う。


「サトルちゃんが来るのは、また2年後かねえ」と伯母に言われた。
そして、「その頃には、私は死んでるわよね」とも言われた。


死ぬなよ、と言った。
百歳まで生きてくれよ、と言った。

16年後の誕生日に作る俺のハンバーグは、もっと美味しいから、と言った。


伯母は、笑って頷いてくれた。



2013/12/17 AM 06:10:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | [料理]

ギョーザ岳を征服
皆さんは、餃子がお好きだろうか。

お好きだとしたら、最高いくつ食べたことがおありだろうか。

私は、72個食った。


我が家では、高校3年の娘の友だちの女子高生が押し掛けてきたとき、餃子パーティをすることが多い。
だから、餃子の皮を作って冷凍してある。

市販の餃子の皮を使おうよ?
市販の皮を使ってしまったら、それは「自家製」とは言えないだろう。

「自家製」というのは、豚を育てるところから初め、キャベツ、ニラ、小麦を育て収穫してこそ、そう言えるのである。
よって、私の作る餃子は「半自家製」である。

「虚偽表示」には、気をつけなければいけない。

ということで、「半自家製餃子」パーティの開催を娘から命令された私は、50枚単位で冷凍しておいた「半自家製」餃子の皮を2パック分、昼前に自然解凍し始めた。

しかし、これだけでは足りない。
我が家4人、女子高生5人の9人で180個は食うからである。

特に、我が家に一年間居候していた「居候さん」の場合、山盛りの丼メシを4杯食い、味噌汁を無限にお代わりしながら、60個の餃子を消費する。
そして、涼しい顔で言うのだ。

「まだ腹6分目かな。ダイエット中だから、これくらいにしておこうか」

155センチ、50キロのフードファイター。
恐ろしい女子高生がいたものだ。

最低、あと80個は皮を作らなければいけない。
小麦粉をこね、めん棒で伸ばして、自家製のブリキの型で丸くくり抜く。
その作業を午後5時前から繰り返していた。

しかし、娘から冷酷な電話があった。
「ゴメン、シューヘイ(同級生)のライブが渋谷であるんで、そっちに行くことにした」

解凍中の餃子の皮を、どうしてくれる?
解凍したものをまた冷凍すると確実に風味が落ちる。
それは避けたい。

「3人で食べましょうよ。私は餃子大好きだから、40個は保証するわ」とヨメが言った。

しかし、そのあとすぐ、息子から電話で「急にバイトのシフトが夜になった。今日は晩ご飯はいらない」と言われた。

二人で百個。

「いけるんじゃない?」とヨメ。

いくしかないか。

二つのホットプレートを使って、50個ずつ一気に焼きはじめた。
蒸気がジョワジョワ沸き上がって壮観だ。


焼き上がる前に、「餃子の王将」は本当に美味しいか、という喧嘩を売りたいと思う。

私は、2回「餃子の王将」に入ったことがある。
武蔵境(中央線)と武蔵中原(南武線)だ。

しかし、2回ともガッカリした。
皮が焦げてパリパリだったから、噛むとすぐに皮がバラけて、中のアンが皿に落ちて食いづらかった。
2軒ともそうだった。
焼きすぎるのか、水分が不足しているかのどちらかだろう。

名指しで批判するのは失礼かと思ったが、あまりにもひどかったので書かせていただいた。

もう「餃子の王将」には行かない、とここで宣言いたします。
(ただ、口直しに、武蔵境店で食った炒飯は美味かった)


ところで、餃子のアンであるが、我が家では、春キャベツのときは、そのままニラ、豚ひき肉と合わせて使う。
春キャベツは甘くて水分があるので、これでバランスが取れる。

しかし、冬キャベツの場合は、春に比べて甘みが少なくなるので、タマネギか白菜のみじん切りを少量加える。
加えることによって、甘み成分が出る。

「甘み」と言うのは「旨味」のことだ。
餃子のアンに甘みがないのは、致命的だ、と私は思っている。

安い豚ひき肉を使ったときは、鶏ガラスープで戻した春雨のみじん切りを加える。
これで、コクが出る。
誰も、春雨が入っていることに気づかない。

餃子のタレも工夫しているのだが、これは長くなるので書かない(企業秘密?)。
普通に、テーブルの上に市販の醤油と酢、ラー油を置いている店と、我が家ではこだわりが違うのですよ。

だから、女子高生が近づいてくる。
偉そうに言って、申し訳ありませんが……………。


さて、焼き上がった。
餃子バトルの始まりだ。

ヨメも私も最初は調子が良かった。
ペースも早かった。

だが、最初に脱落したのは、もちろんヨメだった。
28個でリタイアしたのである。

「ご飯を食べるんじゃなかった。餃子だけにしておけば、もっと食べられたのに」

そう。
間違いなく敗因は、それだ。

だから、私はメシは食わず、餃子だけを食うことに専念したのだ。
大好物のクリアアサヒも、腹にたまらないように、控えめに飲むことにした。

40個までは調子良くいった。
しかし、そこから先の未知のゾーンが来たら、突然箸が重くなった。
ただ、腹はまだパンパンというほどではなかった。

槍ヶ岳登山だったら、新穂高温泉から出発して鏡平小屋に着いたあたりだろうか。
しかし、ここからが遠い。
槍ヶ岳山荘は、まだ遥かに先だし、目指す槍ヶ岳は、さらにその先だ。

そして、この「ギョーザ岳」に悪天候はない。
前に進むしかないのである。
だから、少しずつ食っていくしかない。

そんなとき、リタイアしたヨメがテレビを見始めた。
我が家では、食事中はテレビを見ない習慣だが、ヨメは食い終わったので「お腹がきつい」と言いながら見ていた。

見たのは、だいぶ前に放送された「世界の果てまでイッテQ」の特番で、イモトさんがマナスル登山に挑戦したものだった。
我が家では、テレビは録画して見るべし、という家訓があるので、見たい番組は録画して見ることにしている。

「答えを早く知りたい病」のヨメは、前半を一気にすっ飛ばして、後半を見ていた。

登山家でもない小柄な女性タレントが、大自然に挑む勇気は、たとえテレビ局側から押しつけられたものだとしても、誰もができることではない。
(そのことに対して批判している人がいるが、高所登山を経験していない人が己の無知を根拠に非難するのは、みっともない。そして、経験者が『ねたみ』だけで非難するのは、同じように、みっともない)

その強靭な精神力と体力には、頭が下がる。

イモトさんを見ていて思った。
彼女の挑戦から比べたら、餃子72個など、タクシーで富士山の5合目に行くようなものではないか。

よし、頑張ろう!

一気に、やる気スイッチが入った。

そして、72個完食。

半自家製餃子は、美味かった。
火加減、水加減が最適だった。



最後に、偉そうに言いますが、焼餃子は「火加減と水加減が命」です。

お忘れなく。






ところで、実は私のやる気スイッチが突然入ったのは、番組のサブMCであるベッキーさんの美脚を見たからだ、と言ったら、皆さんは私のことを軽蔑するだろうか。


(ああ・・・やっぱり!)




2013/12/12 AM 06:12:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | [料理]

40万踏み倒し野郎
東京に戻ってきて、一番変わったことは、生活が安定したことだろうか。

埼玉で仕事をしていたときは、仕事はそれなりにあったが、生活が安定しなかった。

それは、もちろん私の仕事の取り組み方が下手だったからだろう。
家族には、そのことで迷惑をかけた。

最低限の生活は確保したが、本当に「最低限」だった。

この仕事を請けて、果たして支払いは大丈夫だろうか、という客からも仕事を請け負い、運が悪いと踏み倒された。
多いときで、請け負い代金の一年間の未回収額が百万円を超えたこともあった。

それを取り返そうと、また何でも仕事を請けたが、消耗するだけで終わった。
要するに、無能なのだ。

3年半前、理由あって、東京に引っ越してくるとき、埼玉の得意先のほとんどを切った。
半分やけくそだった。
そうでもしないと、吹っ切れなかったからだ。

残ったのは、浦和のドラッグストア、桶川、横浜元町の企画会社、静岡、神田の広告代理店、北区の不動産会社だけだった。
私にとって優良だったのは、この6社だけ。
あとは、たまに、埼玉の同業者の仕事を手伝うだけの細々としたものとなった。

やっていける自信はなかったが、俺には東京の水が合う、という確信だけはあった。
東京生まれ東京育ち。
東京が俺にソッポを向くはずがない、と思っていた。

その思いが通じたのか、あるきっかけで、東京稲城市の内気な同業者から頻繁に仕事をいただくことになった。
次は、知り合いの紹介で、半年もたたずに下請けが必ず辞めるという、恐怖の建設会社社長から仕事をいただいた。
他に、以前からの知り合いであるテクニカルイラストの達人・イナバ君からも仕事がまわり、コピーライターのススキダからも仕事が回ってくるようになった。

細かいものまで入れれば、得意先は10社、他に同業者7人。
つまり、17カ所から仕事をいただける身分になった。

埼玉では何をしても、「俺はよそ者」という意識が強かった。
メガ団地に馴染めなかった。
閉じ込められた気がした。
ここは、俺のいるべき場所ではない、とずっと思っていた。

15年間住み暮らしたのに、適応能力がなさ過ぎるだろう、と自分でも思った。
埼玉育ちの子どもたちは、生き生きと毎日を暮らしていた。
ヨメも、宗教繋がりの友人がたくさんいて、毎晩何かしら会合があるので、晩メシは9時過ぎになった。

私だけが、仕事に追われるだけの日々を送っていた。

同業者の知り合いが数人いたことが、救いだった。
彼らがいなければ、私は孤独を抱えて死んでいたかもしれない。
その同業者たちとは、いま2ヶ月に1回、吉祥寺で飲み会を開いている。

同業者全員が埼玉在住だから、私の方が埼玉に出向けばいいのだろうが、私が埼玉のことを考えると足が止まってしまうのを知った彼らの方が、わざわざ来てくれるのである。

申し訳ないことだ。


いま、私の中で埼玉と言えば、得意先のある浦和と桶川だけだ。
この二つだけは、仕事をいただくためには、行かないわけにいかない。

高崎線に乗ることが多い。

新宿で湘南新宿ラインに乗った途端、たいていは眠る。
速攻で眠る。

浦和の得意先のときには、浦和寸前で目覚めるし、桶川では桶川寸前に目覚める。
その時間は、体に染み付いていると言っていい。

しかし、人間は万能ではない。
ごくまれにだが、感覚が狂うこともある。

桶川の得意先に行くために、いつものように湘南新宿ラインに乗った。
もちろん、速攻で眠った。

目覚めたとき、籠原駅だった。

桶川駅より、7つ先だ。

やっちまったなあ、と思った。

なんだよ、この田舎臭い駅は。
閑散としていて、人間の匂いがしないな、と思った。

本当は、朝夕は、通勤通学の方たちで大賑わいらしいのだが、時刻は午後1時45分。
寒い空気しか感じなかった。

打ち合わせ時間は、午後2時。
すぐに引き返したとしても間に合わない時間だ。

10分以上待たないと、上りの電車も来ない。

得意先に、遅れて申し訳ありません、という電話をかけた。
真実を言った方が話が早いと思って、寝過ごしました、と正直に告げた。

女性の担当者に、「大丈夫ですよ」と言われた。
「今日の私は急ぎの仕事はありませんから、焦らずに来てください。のんびり紅茶でも飲みながらお待ちしています」

ありがとうございます。
自己嫌悪に陥りながら、上りの電車を待った。

籠原始発の電車が来たので乗った。
座った途端、ひとりの男が入ってくるのが見えた。
顔を見て、すぐにわかった。

40万円踏み倒した男だ。

高崎線宮原駅近辺で、塾を経営していた男。
その塾が倒産する5ヶ月前に仕事を請けた。
毎週、新聞の折り込みに入れる塾のチラシだ。

請け負い代金が支払われたのは、最初の月だけだった。
あとは、「まとめて払いますから」と拝まれて、先送りされた。

そうこうしているうちに、塾は倒産。
「俺は、逃げも隠れもしませんから」と啖呵を切った姿は格好よかったがが、「倒産だから、金は払えない」と開き直られた。

まあ、倒産とは、そういうことだ。
金があったら、倒産などしない。

だから、私は早々に諦めた。
それを引きずると、ストレスがたまる。

踏み倒されたら、忘れる。
それが、仕事をいい気分で続けられる最善の方法だ。

車内に入ってきたとき、踏み倒し男と目が合ったが、無反応だった。
忘れた、ということでしょうね。

心に、小さな竜巻が発生したが、目をつぶったら忘れた。
そして、条件反射的に眠った。

今度は、桶川駅手前で目覚めることができた。
降りようとして立ち上がったら、踏み倒し男も桶川で降りるところだった。

また目が合った。

「ああ、Mさんですか」と、何の気まずさも感じさせない顔で聞かれた。

感心なことに、忘れていなかったようだ。

しかし、埼玉の「負の出来事」のすべてを忘れたい私は、こう言ったのだ。

人違いですね。
私の名は、古美門研介。
連戦連勝の弁護士です。

ワーハッハッハハハハハハハ、と高らかに笑って、ホームをスキップを踏むように歩いた。



ざまあみろ、踏み倒し野郎!




(我ながら、人格破壊していると思う)




2013/12/07 AM 07:59:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

東京ラーメンショー
恩師がいた。


ただ、その前に馬鹿な男の話をしたいと思う。

私は、幼稚園を経験していない。

幼稚園を経験せずに、小学校に上がった。
幼稚園に行かなかったその理由が、今の私の性格を如実に表していると思う。


みんなと同じことをするのは嫌だ!


私は覚えていないのだが、私が中学生のとき、祖母がそう教えてくれたのである。

要するに、可愛げがない。
小学校は義務教育だから行かなければならないが、幼稚園は無理に行く必要はない。
だから、行かなかった。

祖母も母も、強制はしなかった。
こいつは自由に泳がせた方がいい、と思ってくれていたのだと思う。

祖母と母は、教育者だったが、私に勉強しろと言ったことがなかった。
だから、しなかった。
宿題はしなかったし、提出物も出さなかった。

これは、奇跡だと思うのだが、担任の先生もいい方々ばかりだった。
こんな私を自由にしてくれた。

しかし、高校3年の担任だけが「提出物を出せ!」と強圧的に言った。
当然出さなかった。
出さなかったら、ホームルームの時間に「明日持ってこなかったら、頭を坊主にしてやる!」と怒鳴られた。

それなら、オレやめます、と言って家に帰った。
小学校一年から続いていた皆勤賞が途切れた日だった。

無断欠席2日目に、学年主任が来て、「先生の言うことを聞け」と言ったので、それなら、オレ学校代わりますから、と答えた。
その日から私は図書館に通って、学校を代わる方法を調べ、色々な場所に電話をして情報を仕入れた。

そして、学校を代えたいという決意を母に伝えようと決心した無断欠席6日目(余談だが、母は私が無断欠席をしていたことを知らない。おそらく今に至るまで知らないと思う)に、教頭が陸上部の顧問を連れてやってきた。

どうせ、怒るか、くどくどと説得するんだろうな、と思っていたら、「悪かったね」と教頭が言ったのである。

頭は下げなかったが、悪かったね、は間違いなく謝罪の言葉だ。

しかし、冷静に考えてみればわかることだが、学校側は悪くないのだ。
担任が、言うことを聞かない生徒に注意しただけだ。
教師が、生徒に注意をするのは、当たり前ではないか。

むしろ、悪いのは可愛げのない私の方だ。

だが、教頭は、もう一度、私の目を見ながら「悪かったね」と言ったのだ。

そればかりか、「君は今までのようにしていればいい。担任には俺が言っておくから」と奇跡のようなことを言い出したのである。
絶対零度だった感情が、一気に280度上がって、氷が溶け出した。

教頭に穏やかな目で、「明日から来てくれるね」と言われた。
拒む理由は、何もなかった。

心が晴れる、とはこういうことを言うのかと思った。

だが、陸上部の顧問が余計なことを言ったので、私の晴れた心は長くは続かなかった。

「今日の授業はもう無理だが、部活だけでも出ないか。みんなが、お前のことを心配しているんだ。早く顔を見せてやれよ」

それに対して、私は、いや、俺、そういう「青春的なこと」はキライなんで明日から行きます、と答えた。


本当に、可愛げのないガキだった。


しかし、教頭は、「面白い」と大笑いしてくれたのである。

さらに、私が通っていた学校では、無断欠席が5日間続くと停学という規則があった。
私の無断欠席は6日。
しかし、私は停学にならなかった。

教頭が、私のために骨を折ってくれたのだろう。

俺は、教師に恵まれているな、と思った。


高校を卒業してからも、教頭とは連絡を取った。
ハガキや手紙のやり取りもした。

だが、残酷なことに、私が年を取るよりも遥かに速いスピードで、教頭は老人になっていった。
しかし、いい老人になっていた、と思う。

パソコンを独学で覚えて、メールのやり取りもできるようになった。
デジカメをぶら下げて、日々の草花を撮ったり、空を撮ったり、ぶらりと寄った蕎麦屋の鴨南蛮を撮ったりして、その画像をたまに送ってきてくれた。

私のブログも読んでくれていて、「君のブログは、まあまあ面白いけど、俺が出てこないのが不満だな」などと言っていた。


昨日、一枚のハガキが来た。

差出人の名は、教頭の苗字だったが、名前が違っていた。

教頭が死んだことを知らせるハガキだった。

84歳。
肺炎。

天寿を全うしました、と書かれていたが、私にはまっとうしたとは思えない。

10月にもらったメールで、「今年も11月に駒沢公園で東京ラーメンショーがあるんだけど、一緒に行かないか」と誘われていたのだ。
その後、連絡がなかったが、忙しくて忘れたのだと思っていた。
だから、催促のメールはしなかった。

まさか亡くなるとは、思っていなかった。


教頭先生は、まっとうなんかしていない。


だから、私は来年の東京ラーメンショーでは、絶対に2杯のラーメンを食ってやる。

もし、教頭の出身地、長野のラーメンがあったら、絶対に食ってやろうと思う。



それが、俺の供養だ。




2013/12/02 AM 06:09:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | [日記]



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