Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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商品主義
学校の先生に対して、悪い印象はない。

高校3年のときの担任とは相性が悪かったが、それは例外だ。

小学5、6年のとき担任だった先生とは、卒業後も連絡を取り合い、14年前に亡くなってからは、奥さんといまも連絡を取り合っている。

中学2年のときの担任だった人は、陸上部の顧問をしていたから、密度の濃い触れ合いをした。
卒業しても連絡を取り合い、年賀状と暑中見舞いは、今も欠かさずに送っている。

高校1年のときの美術の先生は、私が2年に上がったとき、美術を選択しなかったことを残念がり、しつこく美術部に誘おうとした。
私が陸上部に入っているということを知りながら、校舎内で顔を合わせるたびに「美術部に来い」と繰り返し言われた。
その先生は、2年前に亡くなったが、それまでやはり年賀状と暑中見舞いのやりとりだけは、欠かさなかった。

その点を考えれば、私はいい教師に巡り合ったといっていいかもしれない。

ただ、私の子どもたちの担任は、息子の場合は微妙といっていいものだった。

息子は独特のリズムを持っていたから、そのリズムを認めない教師は、息子を異端児扱いした。
クラスの仲間からは、「マッちゃん」と言って慕われたが、半分以上の教師が彼の個性を認めなかった。
特に中学3年間は、教師の不理解から、息子は卓球に打ち込むことだけが、中学生活の目標になった。
息子の個性を理解してくれたのは、仲のいい友だちと卓球部の顧問だけという不本意な中学生活を、息子は送った。

私が担任と話し合うと、どの担任も「息子さんは、マイペース過ぎます。クラスの和を乱します」と言うのだった。
我が家に遊びに来る息子の友だちに聞くと、誰しもが「マッちゃんは、みんなに人気があるよ。マッちゃんのことを悪くいうやつは教師だけだよ」とお世辞とも言えない口調で言うのだった。
要するに、生徒の評価と教師の評価が、極端に違うらしいのだ。

友だちから見ると、「マッちゃんは優しくていいやつ。信頼できるやつ」、しかし教師から見ると「和を乱す異端児」となるらしい。
同じ人間なのに、まったく評価が違うのである。
詳しく聞いて見ると、「和を乱す」のではなくて、クラスの何割かが息子のペースにのせられて、行動が緩やかになるらしいのだ。
マニュアル主義の生真面目な教師には、それが我慢できなくて、教室内のペースが乱れたとき、すべてを息子のせいにするという安易な方法を選んだのではないか。

親バカ(バカ親)の目から見ると、そうなる(親バカ承知)。

いま中学3年の娘の場合は、今の担任とは、かなり相性がいいが、あとは可もなく不可もなく、といったところだろうか。
娘は、ほとんどを自分の意志で判断して行動するから、教師にとっては手のかからない子どもだと思う。
あとは、担任と娘との相性の問題である。

娘の自立した行動が「可愛い気がない」と判断する教師も中にはいるらしく、その種の教師には、娘は評判が悪い。
しかし、娘の行動に好意的な教師は、「Kちゃんに任せておけば安心」と言って、何もかも任せてくれる。

要するに、それぞれの教師の資質の問題なのだ。


という長い前フリをした後で、教師が保護者を訴えたという話に繋げたいと思う。

教師が保護者を訴える。
保護者の度重なるプレッシャーにより、ノイローゼになったと訴えたらしいのだ。

詳しい検証は抜きにして、私だけの持論を述べたい。
かなり異質なものなので、私の友人でさえも、認めてくれない持論である。

しかし、考えるのも書くのも自由なのだから、書くことにする(だって書きたいんだもん!)。

私は、働く人は、みな「商品」だと思っている。
プロとしての「商品」。

たとえば、営業マンは、その分野の営業のプロだから、わからないことがあれば、何でも答えてくれる存在だと誰もが思う。
もし、答えがいい加減だったら、彼が売りたいと思う商品は絶対に売れないし、売れたとしても、彼の言ったことと商品の仕様に不備があれば、我々はクレームをつける。

たとえば、家電販売店の店員。
彼は家電のことに詳しいプロだと誰もが思っている。
量販店のハッピを着て、「いらっしゃいませ。何をお探しですか」と言われたら、彼のことを「家電のプロ」だと誰もが思う。
しかし、意に反して、彼が家電のことをあまり知らないと我々はガッカリする。
文句の一つも言ってやろうかと思う。

自分が買った車は、高い金を払ったのだから、完璧なものだと思いたい。
しかし、長いこと乗ってみたら、ところどころ不満がある。
そのユーザーとしての不満は、メーカーにきちんと伝えるべきである。
それはメーカーにとっても、ためになる意見のはずだ。
その蓄積が、より良い車づくりに役立つからだ。

私のような仕事でもそうだ。
得意先は、仕事の仕上がりをシビアに見て、私に意見を言う。
厳しい意見も多い。
しかし、そのたびに凹んでノイローゼになっていたら、私は家族を養っていけない。

「商品」である以上、クレームは仕方ないと、私は割り切ることにしている。
そして、あまりにも非常識なクレームには、相手によって、受け流す、無視する、反撃するという手法をとっている。
それが、私がフリーランスとして生きていく上の知恵だ。


ひるがえって、教師という職業が、特殊なものだということは理解できる。
しかし、私から見ると彼らも「商品」であることに変わりはない。
それならば、生徒や保護者という「ユーザー」に、絶えず批判、監視されるのは当然だと、彼らはなぜ思えないのだろうか。

思うに、教師というのは、不思議な職業である。
教室内で、一人の人間が子どもたちを支配して、その実情が教室外に洩れるのは、子どもたちの口を通してだけという環境。
子どもたちの口を封じてしまえば、彼らは「独裁者」になれる。

狭い世界で王様、あるいは女王でいられるから、彼らは批判されることに慣れていないのではないかと思う。
そして、彼らは教師が特別なものだと思いすぎているのではないかとも思う。
上からものを言うことに慣れすぎて、他人から同等の目線で批判あるいは指摘されたときの対処方法を知らないのではないか。

つまり、外部からのストレスに弱い。

王様たちは、自分の感情をコントロールするのが下手だ。
自分の思い通りにいかないと、途端にアイデンティティが崩壊する。
その不安定な状態が、この上もなく怖くなって、逃げ場を探すのである。

どこかの国の独裁者のように、それは「圧制」という形に変わることもある。
批判する側が怖いから、言論を封じ込めようとする。
封じ込めてしまったら、とりあえずは批判はなかったことになる。

教職者たちは、自分たちの職業が独特だと思うあまり、批判や指摘に弱いシステムを作り上げてしまったのではないだろうか。

プロという名の「職業人」は、批判されたり意見されるのが普通なのに、教職者は「自分たちだけは別」と思いすぎてはいないか。

プロである以上、苦情が来るのは、当たり前。
教師は自分たちの職業を「聖職」と言って特別なもののように言うが、考えようによっては、ほとんどの職業が「聖職」だ。
ヤクザ組織が、他人の上前をはねるシノギ以外は、みな「聖職」と考えていい。


どの仕事も、尊い。
そして、どの職業も、不備・不具合があれば、必ず批判される。
それは、ユーザー目線で見れば、当たり前のことなのだ。


そして、いつもながらのことだが、メディアも頭が悪い。
訴えられた保護者を「モンスター」と表現したら、すべての非は、保護者側にあることになってしまう。
「モンスター」と表現した時点で、安直な善悪の構図が見えている。
それは、教師側が被害者であるという先入観を植えつけるだけだから、公平な報道だとは言えない。

民主主義社会は、誰もが訴える権利を持っている。
それは誰もが自由に持つ権利だが、偏った報道からは、真実は見えてこない。


そして、偏った職業意識を持つ限り、教職者は保護者のクレームに怯え続けるか、肥大した被害者意識をこれから先も捨てることはできないだろう、と私は思う。



まあ、私の「職業人は、みな商品である」という考え方も、相当偏っているとは思うが・・・・・。





2011/01/22 AM 08:21:56 | Comment(1) | TrackBack(0) | [子育て]



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