Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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日本はあひるの子ではなく
いま沢木耕太郎の「危機の宰相」という本を読んでいる。

これは、「所得倍増」というキャッチコピーで、戦後の日本経済を引っ張った池田勇人とそのブレーンたちの取り組みを書いたルポルタージュである。

その中で、ブレーンの一人、下村治という人が書いた文章が、私の興味を惹き付けた。
それは、日本経済を童話「醜いあひるの子」の話を引用して論じたものだった。


「日本経済について、ありとあらゆる欠点や弱点を並べたて、その国際的な水準の低さや文化的、社会的、経済的なアンバランスをあざわらい、今にも日本経済が破局におちいるかのようにいいつのる人々を見ていると、わたくしはアンデルセンの「醜いあひるの子」という童話を思い出す。
それらの人々は、自分たちをあひるかあひるの子と、思い違いをしているのかもしれない。日本経済は、いかにも白鳥の子らしい特徴を持った発育を示しているのに、あひるの目でそれを見れば異常であり、アンバランスであるかもしれない。
(中略)日本経済の貧しさや後進性が、われわれ自身の宿命的な属性であるかのように、あまりにも諦観されすぎたようである」


当時の世論、特に経済学会やマスメディアは、ペシミズム(悲観主義)一色であり、日本の経済の未来は決して明るくないと、ほぼ全員が暗い展望を持っていた。

それに対して、下村治はオプティミスト(楽観主義者)であり、日本経済は「あひるの子」ではなく「白鳥」足りうると主張していたのだ。

そして、その後の日本経済は、彼が言うように「白鳥らしい特徴を持った発育」を示し、目覚しい経済成長を遂げた。

しかし、GDPの数値が人口大国中国に抜かれたことを受けて、いま世論は50年前と同様、ペシミズム一色である。


楽観論を語るのは、「経済のド素人である」。
まるで楽観論を語ることが悪であるかのような世論が形成されている。
そんな空気が充満している。


外国の経済学者、ジャーナリストたちが、日本経済を評価する論調もそれは変わらない。
「日本経済は長い停滞から没落へ向かう」「日本に期待するものは、もはや何もない」「日本が再生することはない」

日本に対する悲観論が、世界中を覆っている観がある。

しかしそれは、バブル基準で考えた場合の日本の評価だろう、と私は思っている。

バブル真っ只中の中国経済と比較したら、日本経済が「停滞」と見えるのは、当然のことだ。
膨らんだ風船と、しぼんだ風船。
子どもに選ばせたら、間違いなく膨らんだ風船を手に取るだろう。

膨らんだ風船の絵柄は、あひるの子。
しぼんだ方の絵柄は、美しい白鳥。

経済学者やマスメディアは、しぼんだ風船は憐れである、という論調なのだろう。
たとえ、この白鳥柄の風船は、ギリシャのように破れてはいないのだ、と言っても「強がりだ」と言って笑われる可能性もある。
それどころか、「破れていなくても、しぼんでしまった風船は、何の役にも立たないよ」と、もっと強い悲観論を浴びせかけられるかもしれない。

だが、私は、そうかな、と思う。
風船をしぼんだままにするかしないかは、その国の負のエネルギーを、どのように無理なく正のエネルギーに変えるかで決まってくる、と思っている。

正のエネルギーに変えるチャンスは、これから先いくらでもあると思っている私は、世論がなぜいつもそんなにも悲観的で未来を否定的に見るのか理解できないでいる。

日本の失業率は、見せかけだけで、実態はもっと深刻である。
日本の自殺者の数は、先進国で際立っている。
日本の子どもの学力レベルが下がっている。
日本人の幸福度のランクは、先進国の中ではかなり低い。
少子化に歯止めがかかっていない。

もっともな意見だと言えるが、それらは具体的な数値を上げた統計学とはほど遠い「感想の域」を出ないものだ。
それなりにもっともらしい数値を提示したとしても、比較する数値が「意図的な負」が基準だから、多くは公平とはいえないものだ。
つまり、「負」という結論が先にある。

「幸福度」なるものを公平に測る尺度など、本当にあるのか。
風土を無視した「自殺者の数」は、ただ数値を比較しただけでは説得力に欠ける。
乱暴な言い方になるが、切腹や神風特攻隊の負のDNAを持った国と、生に対する宗教的な価値観を持った国を比較しても、私には意味がないように思える。
見せかけの失業率というが、では、他の国の失業率がなぜ「見せかけ」ではないと断言できるのか。その基準は、はたして公平なのか。
その根拠が曖昧だから、私には蚊の羽音ほどのちっぽけな意見にしか聞こえないのである。

ただ、少子化に歯止めがかかっていない、という意見には頷ける。

国のパワーは、人口である、といっても過言ではない。
中国は、共産主義であったがゆえに無駄な統制が邪魔をして、その人口力を経済に活かせないでいたが、民主化以外の統制を緩くしたせいで、人口力が経済とイコールに近くなってきた。

世界2位の人口を持つインドも、人口力を活かしつつある。
5位のブラジルも、同じように少しずつ活かしつつある。
11位のメキシコもしかり。

人口の多寡は、国の基本を左右する。
その人口が増えない現象は、国の根幹を揺るがしているといっても過言ではない。

かつて自民党の国会議員たちは、自分の血縁に家督を譲ることに一所懸命で、人を増やすという生産的な政策を放棄してきた。
その愚かで利己的な行い(政策ではない)が、いま日本を人口の増えない国に貶めている。
そして、自分の職場をとられるという強迫観念から、女性の再雇用の門を蟻の巣穴ほどの小ささに狭めた男性中心雇用社会も、少子化の元凶と言っていい。

子どもを産んだ後も安心して仕事に復帰できる環境があれば、子どもを産み育てる女性を取り巻く環境は大きく変わるだろう。

これは、それほど難しい政策ではない、と私は思っている。
それは男社会が、いままで職を奪われる恐怖心から、積極的に方法論を探そうとしなかっただけだからだ。
女性中心に女性の視点で政策を模索すれば、見栄や嫉妬によって男社会では閉ざされていたものが、一気に実を結ぶ可能性はある。

人口が増えれば、日本は本来の白鳥の姿を取り戻すことは、充分期待できる。
それは、20年後かもしれないし、50年後かもしれない。

かつて経済大国であったイギリスやフランスは、終末兵器を持っているがゆえに、経済が停滞したのちも「ものを言う大国」の座を確立している。
それは、彼らが白人という生まれながらのアドバンテージを持っているから成し得ることでもある。

終末兵器を持たないアジア人に、白人世界が、そのポジションを与えることは許さないだろう。

だとしたら、日本は正当な手段で経済を安定させ、健全な経済を持つ白鳥として、ものを言うしかない。

もうバブル後の経済崩壊を「失われた10年」などと言って、悲観的な評論家を気取るのは、やめにしたらどうだろうか。


長い間、日本は「世界の銀行」の役割を果たしてきた。
米国や欧州が戦争をしたいといえば、その資金を捻出した。
発展途上国が橋を作りたいといえば、その資金を提供した。
国連が金を必要としたら、言われるままに出した。

その誇らしい行為は、たとえ半強制的だったとはいえ、勤勉に外貨を貯蓄した日本しかなしえないことだった。

「わが国は大国である」と、ただ主張するだけの国には、それはできないことだ。
「世界の銀行であった」という矜持を日本人は、忘れるべきではない。

たとえいま日本が世界から「没落の国」と言われても、その価値は色あせることはない。
日本の業績は色あせたと思わせたい意図的な中傷は、新しく大国になった国が、日本と同じように「世界の銀行」になったときに、受け入れればいいことだと私は思っている。

悲観的になることはないのだ。


話は脱線するが、社会主義というのは、私の素人考えでは権力者に都合のいいものになっている。
国が貧しくても、「みんなが我慢しているから」「全員が貧しいんだから」という言い訳が通用するからだ。
国民生産が上向いて貧富の差ができ、一部が金持ちで他は貧しいまま、という構図ができたとしても「貧しい人」を基準に国民に「我慢」を強いることができるのが社会主義。

たとえ、権力者や一握りの人間が富を独占したとしても、「下層階級が基準」になって「そういう社会なんだよ」と強弁することができるのが、社会主義という名の独裁国家であるとも言える。

国民に選挙で選ばれた人たちではないから、人民への感謝がない。
だから「民主化」という概念が希薄だ。
権力者は、簡単に「抑圧」を選ぶことができる。

それが社会主義の現状である。


話もどって、「あなたの体は、長年の不摂生のせいでボロボロです。見込みはありません」と妙に沈んだ口調で言われるより、「治せるところから一つ一つ治していきましょう。一緒に闘いましょう」と明るく言われた方が、人間の自然治癒力はより強く機能するはずだ。


悲観論が社会に充満しているとき、一人でもいいから50年前の下村治のように「日本は白鳥だ」と言い切れる専門家がいてくれたら。


私はいま、それを切に望んでいる。




あひるも可愛い生きものだが、白鳥の美しさは、やはり特別だと思うから。




2011/01/12 AM 07:17:37 | Comment(2) | TrackBack(0) | [日記]



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