Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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桃太郎は、Mでいい
ときには、真面目な話を。

カメイ金融相の中小企業へのモラトリアム政策
「剛腕」と言われたがっているように見えるカメイ氏は、この件に関して、かなり力が入っているようだ。

瀕死の状態の中小企業は、その「善政」を一時的には、喜ぶだろう。
しかし、もともと自己資本比率の低い、名ばかりの大銀行は、どうなるのだろう。
結果的に、共産社会のように、政府が規制・統制して、最後は国の(国民の)財布を当てにしてしまったら、それはバブル後の世界と、何も変わらないのではないか。

そうなると、「わが国は先進国だ」などとは、胸を張って言えなくなるような気がする。

中小企業が健全な社会は、経済の軸がぶれない活気ある社会である。
だから、中小企業を生かすという政策は、間違っていない。
ただ、それが信用不安を巻き起こすものだとしたら、国民生活さえも犠牲にするものである、と言えないか。

狭い世界の話をしよう。
M家の話である。
我が家が貧乏なのは、私の能力がないからだ。
要するに、金儲けが下手なのだ。

それは、すべてが、自己責任である。
そのことに関して、私は家族にも人様にも迷惑をかけている。
すまん、と思う。

破綻寸前の貧乏一家。
私にも家族にも、モラトリアムな時間が欲しい。
そう切実に思うが、日々の生活は待ってくれない。

時は、止まらないのだ。

モラトリアムは、時を止める政策である。
だから、目先の経済不安を解消するためだけに時を止めるのは、私には愚策に思える。

動いてこそ、経済。

頭のいい剛腕・カメイ氏には、そんなことは、とっくにお見通しだと思うが、剛腕はどのようにして、そのブレを修正するのだろうか。
カメイ氏にとって、久しぶりの政権参加。
連立政権に参加したという「気負い」が、空回りしなければいいのだが。


続いて、光市母子殺害事件

加害者を実名で扱った本に対して、加害者側から出版差し止め仮処分の申請が出たという記事を見た。
当時未成年だった加害者。
当然、少年法の適用を受けて、実名は公表されない。
だから、彼は、最初から「少年A」である。
成人した今も「少年A」だ。

それに対して、実名を公表したメディアもあったと聞く。
ネットでも、公表されたらしい(私には覗き見の趣味はないので詳しくは知らない)。

この犯罪は、人の仮面をかぶった、まさしく鬼畜の所業。
それは、厳しく断罪されるべきだが、裁くのは、メディアではないし、世論でもない。
法だ。

私の持論を述べたいと思う。
私は常々、被害者、加害者のいる事件の報道は、イニシャルで十分だと思っている。

これから書くことを、ふざけている、と怒らないでいただきたい。

たとえば、こんな事件があったとする。
岡山県に住む桃太郎(13)が、鬼が島で赤鬼スケさん(19)と青鬼カクさん(18)を殺害した。
双方が、未成年である。

この場合、通常であれば、加害者は、となり、被害者の表記は、赤鬼スケさん(19)と青鬼カクさん(18)となる。
被害者は、未成年でも、実名表記なのである。
そして、メディアは、赤鬼スケさんと青鬼カクさんの普段の所業を暴き、「殺されて当然」と断ずる。

それは、起きた事件に対して、いかにもバランスの悪い記事であると言えないか。
被害者が、好奇の目にさらされ、中傷の渦にもまれるのである。
それは、理不尽だ。

しかし、だからと言って、加害者Mを「桃太郎」と実名表記して、芝刈り上手なおじいさんと洗濯上手なおばあさんの保護者責任を、あることないこと書き、責めていいということにはならない。
なぜなら、法が「桃太郎」を少年として保護しているからである。

それなら、バランスを取るために、すべてをイニシャルにすればいいではないか、と私は思うのだ。

岡山県に住む(13)が、鬼が島でA・Sさん(19)とA・Kさん(18)を殺害した。

そんな内容の記事では、いけないのか。
そうすれば、被害者が必要以上に貶(おとし)められることはなくなるだろう、というのは、あまりにも楽観的過ぎる考えだろうか。

メディアは、貪欲ですからね。
たとえ、イニシャルで表現したとしても、なるべく加害者・被害者を特定できるようなハイエナ的な文章を書いて、容赦なく両者のプライバシーを暴く可能性もある。
そして、歪んだ想像力を駆使し、してやったりの顔で、自分たちの立てた波紋を傍観者のように眺めるかもしれない。

しかし、それはそれとして・・・・・。
今回の出版に関して、作者は「実名報道だけが取り上げられるのは、本意ではない」などと言っているという。
だが、それは言い訳に過ぎないと、私は思っている。

実名報道は、センセーショナルである。
禁断の実名報道本が出たら、まず「実名報道」が優先されるに決まっている。
だから、それは、はじめに実名ありき、と思われても仕方がない行為であると言える。

もし、作者が、高潔な使命感プロフェッショナルとしての文章力を持っているのなら、実名に頼らなくても「少年A」で、事件の本質は表現できるはずだ、と私は考える。

作者がもし、事件の本質を根底から掘り下げたいのなら、少年犯罪報道に対して「高潔な志」を持つべきだ。
そして、それは、私の考えでは、「実名報道」とは、リンクしない。

高潔、という言葉からは一番遠い位置にあるメディア。
事件の本質を伝えるのに、加害者・被害者の日常を暴くことしかできない彼らには、イニシャル報道は「死活問題」かもしれない。

しかし、事件の本質は、実名だけにあるのではない。
加害者の背負い込んだもの、彼の人格を作った背景、被害者への思い。
それらすべてを伝える作業は、「少年A」で十分こと足りるものだ。

もう一度言うが、犯罪者を裁くのは、メディアではない。
法だ。

さいたま市在住のM・Sさんは、そう思っています。

だって、「桃太郎」は、主人公の名前が「M」でも、お話は十分理解できますから。



2009/10/19 AM 06:50:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]



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