Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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「日本海庄や」で一般論
昔話が、あまり好きではない。

2年前までは、同業者との飲み会などで、昔話(昔は良かった話)が出ると、私が露骨に嫌な顔をしていたので、最近は同業者との飲み会にも呼ばれなくなった。
それは、少々淋しいことだが、「昔は良かったよ、それに比べて今は・・・」という大合唱を聞かされるよりは、いいと思っている。

だから、最近は「昔は良かった話」のストレスから逃れられて、平穏な暮らしをしていた。

しかし先日、頭部骨折で1か月入院していた同業者と、久しぶりに酒を飲む機会があった。
彼は、昨年の大晦日にバイクで事故を起こした。
転倒したときはヘルメットをかぶっていたので、そのときは頭部は無事だったが、何を思ったか、救急車を待つ間にヘルメットを取り、立ち上がろうとしたときに、めまいを起こして倒れるという不運で、頭部を骨折したのである。

1か月入院したのだから、相当な大怪我だが、「いや〜、たいしたことないよ、ハハハ」と言いながら、一部分だけ禿げた頭部を見せてくれた。

快気祝いに、「日本海庄や」で、酒を奢った。

「いきなり酒はいけないでしょ?」と私は言ったのだが、「脳の傷口を消毒しなきゃね」という訳のわからないことを言う同業のデザイナー・ミナミさん。
年は、私より1歳上だが、結婚が40歳を過ぎていたから、いまだに奥さんにデレデレ(死語?)である。
子どもは、小学1年の男の子が一人。

頭部の傷口をさすりながら、「怪我って続くんだよね」と、ミナミさんは眉をひそめる。

聞くところによると、小学1年の彼の息子が、学校で肘を怪我したらしい。

彼の行く学校では、給食の後に当番が、教室やトイレ、廊下の掃除をして、掃除が終わった後に5時間目が始まるシステムになっていた。
ただ、1、2年生は掃除を免除されるから、彼らは時間ぎりぎりまで、昼休みを満喫することが出来る。

その日は、雨が降っていたため、校庭に出ることが出来なかった彼の息子は欲求不満だったらしい。
何か面白いことはないか、と掃除中のトイレを覗いてみた。
見ると、トイレは5年生が掃除をしている最中で、床が水浸しだった。

小学1年の男の子というのは、小さな水たまりを見ただけで興奮をするようである。
彼は奇声を上げて、水浸しのトイレに入り込み、走り回ったというのだ。
5年生は、この奇妙な侵入者を止めようとしたが、喜びを露わにして走り回る子どもを止めるのは、大人でも難しい。

彼は、思いのままに水浸しのトイレを駆け回った。
そして、激しく滑った。
その結果、右肘を打撲したのだという。

不運である。

すぐに病院に連れて行ったが、骨に異常はなく打撲による痛みだけだったから、大事故と言うほどではない。

しかし、ミナミさんは怒った。
誰に?
職員室に押しかけて、担任に強く抗議をしたというのである。

「学校の監督責任はどうなんですか! そばにいた5年生にも責任はあるでしょう。年少の子の世話をするのが、上級生の務めじゃないんですか。そして、その上級生を監督するのが学校の役目だ! 子どもをきちんと監督してくれないと、あぶなくて大切な子どもを預けていられませんよ!」

ミナミさんの言いたいことはわかる。
親の目の届かない学校で事故が起きたのだから、その責任の所在がはっきりしなければ、安心して子どもを任せられない。

そんな怒り狂うミナミさんに対して、学校側は、まず謝ったらしい。
そして、トイレ掃除をしていた5年生たちにも注意をした。
さらに、各クラスの担任が、授業の終わりに、今後こんなことが起こらないように、生徒たちに注意を促した。
学校は、それだけの対処をした。

私は、それで十分だと思う。
小学1年の子どもが、水浸しのトイレを嬉しそうに走り回っている姿を見て、力ずくで止めるのは難しいだろう。
むしろ、親がそばにいたとしても、「無邪気に遊んでるな」と思って、ほったらかしにする親が大半ではないだろうか。

たとえ「滑るから危ないぞ!」と言ったとしても、力ずくで止めることはしない。
とりあえず、注意をしておくだけで終わってしまうと思う。
滑って転んで頭を打ったら一大事だが、そこまで想像する人は、おそらく少ない。
だから、怪我は結果論である。

学校で怪我をする場所は、トイレに限らず至るところにある。
そのすべてを学校側が監督するのは、難しい。
ただ、親としては、「俺の子ども」が怪我をしたのだから、学校側が悪い、と思いたいのだ。

私の小学6年の娘(もうすぐ中1)も、3月の中旬に学校の広場で遊んでいたら転んで、前歯が1本欠けた。
学校に駆けつけて、歯茎から血を流しながらも、懸命に泣くのを堪えている娘を見たとき、一瞬学校を呪いかけたが、歯医者から「治療をすれば確実に治る」と言われて、すぐに冷静になった。
学校に抗議はしなかった。

私がミナミさんにそう言うと、「Mさん、おとなしいねえ」と呆れた口調で言われた。
そして、彼はこう続けるのである。
「昔の先生は良かったよ。もっと自分の仕事に責任を感じていた」

そうですか、ミナミさんは、担任に恵まれていたんですね。
「いや、いま思うと、立派な担任には当たらなかったけどね」

では、なぜ、昔の教師は良かった、と?
「いや、だからさ・・・、一般論としてだよ」

自分は、いい教師には当たらなかったが、他にいい教師は沢山いたと?
「いやあ、だいぶ昔のことだから、覚えてないなあ。でも、今よりは、ましじゃないの? 一般論としてさ」

一般論ねえ・・・。
なんか、ビールが不味くなってきたなあ・・・。

私たちが子どもの頃も、親たちは「昔の教師は良かった」と大合唱していたような気がするが、それは私の記憶違いか。
彼らは、教師に限らず、「昔の映画は面白かった」「昔の人は人情があった」「昔の政治家の方が優秀だった」などと、対象をあらゆる方面に広げて「昔は良かった」論を展開していたと思うのだが、それも私の記憶違いか。

ハタハタも不味く感じてきたなあ・・・。
もしかして、このハタハタも、昔の方が美味かったのかなあ・・・。

居酒屋も昔の方が良くて、居酒屋の椅子の座りごこちも昔の方が良くて、居酒屋の照明も昔の方が良かったりして・・・。
そして、俺も、今の俺よりも昔の俺の方がよかった、と・・・。

まあ、それは、本当かもしれないが。

「そう言えば、Mさん、『ホームレス中学生』読んだ?」(いきなり話が変わりやがった)
読んでません。

「売れてるから読んでみたんだけど、イマイチだったね。やっぱり、本も昔の方がいいのがあったね」
本、よく読むんですか?
「いや、読んでいる暇ないね。入院していたときもテレビばっかり見てたよ」

では、読んだのは「ホームレス中学生」だけ? それで、最近の本はすべて面白くないと・・・。

「いや、ほら・・・、一般論として・・・ね」

また、一般論ですか。

チャンチャン焼きが、不味くなってきた。
そう言えば、チャンチャン焼きは、むかし札幌で食ったやつの方が美味かったな。

いや、これも、一般論ですけどね。


★一般論に飽きたら、CG「さびしい夜景」


2008/03/31 AM 08:06:45 | Comment(3) | TrackBack(0) | [日記]

キャン・ドゥの傘
とりとめのない話を。

いま60代の女性二人にパソコンを教えている。
週に1回、自宅に訪問して、90分間ウィンドウズの操作を教えている。

ただ、90分間で終わることは、ほとんどない。
たいていは、30分程度超過する。しかし、超過料金はいただかない。
間に世間話が入るから、どこまでが講習か、わからないからである。

そして、よくモノを頂く。
ケーキや和菓子、旅行先で買った土産、ビールや漬け物、果物など口に入れるものが多いが、先日生徒の一人ナカムラさんから、バッグをもらった。

ナカムラさんは、私の講習を受けた翌日に、友だちの家に行って復習をするらしい。
その時にノートPCをバッグに入れていくのだが、そのためのバッグをキャン・ドゥで210円(!)で売られているのを見つけて、衝動買いをしたという。

210円ではあるが、外見は立派なものである。
中に仕切があって、結構広い。ポケットもあって、収納力もそれなりにある。
ナカムラさんは、それを気に入って使っていたが、ある日突然思い出した。

「そういえば、ノートPCを買ったときに、オマケにパソコン用のバッグを貰ったような・・・」

家中を探してみたら、かなりしっかりしたパソコンバッグが見つかった。
取っ手も持ちやすいし、頑丈だ。使い勝手は、キャン・ドゥ製の比ではない。

だから、キャン・ドゥのバッグは、もういらない。
そう考えていたとき、私のバッグが目に入った。
かなり、くたびれている。
取っ手は、はげているし、全体がこすれて、テカテカと不自然に光っている。
要するに、汚い。

そこで、キャン・ドゥで買ったバッグをあげよう、という気になったようである。
もちろん、ありがたく頂いた。

「古いのは、捨てましょうよ。私が捨てておきますよ」と言われたが、さすがにそれは丁重に断った。
しかし、一度は、断ったのだが、「バッグ2つ抱えて歩いても邪魔になるだけよ。いいから、とにかくその古いのは置いていきなさい」と強く命令されたので、お言葉に甘えて、ナカムラさんに捨ててもらうことにした。

中身をすべて、キャン・ドゥ製のバッグに詰め直して、古いバッグは、ナカムラさんに預けた。
「これ、5年ぐらい使ってるの?」と聞かれたので、「10年。いや、もっと」と答えたら、「グッヒッヒ!」と笑われた。

ん? バッグを10年以上使ってはいけないのか?
日本人は、ものを大切にする心をなくしてしまったのか?
地球が危ない今、無闇にゴミを増やしていいのか!

そう思ったが、もちろんそんなことをナカムラさんに言えるわけがない。
無言で笑うしかなかった。

講習を終えて、貰うものを貰って、ナカムラさんの家のドアを開けると、雨音が聞こえた。
だが、たいした雨ではない。
だから、濡れていこうと思ったが、ナカムラさんに「これ、あげるから」と、折り畳みの傘を差し出された。

このときも、「この程度の雨、大丈夫ですよ」と、一度は断ったのだが、「いいから! これキャン・ドゥで買った傘だから、返さなくていいわよ!」と強く命令されたので、ありがたく受け取った。

しかし、外に出て、マイ自転車の前カゴを見るとプーマの折り畳み傘があるのに気付いた。
そうなのだ。
以前から、カゴに折り畳み傘が入れっぱなしだったのである。
ナカムラさんに傘を返しにいこうかと思ったが、キャン・ドゥのだからいいか、と思い直した。

それから、近所のスーパーに買い物に行った。
雨は降っていたが、面倒臭いので傘は差さなかった。

スーパーの駐輪場にマイ自転車を止めているとき、「マッちゃんのお父さん」と、声をかけられた。
声のした方を見ると、若い女性が背中に1歳くらいの赤ちゃんを背負って、自転車に乗っていた。
若い。そして、美形である。
濃くはないが、若さを引き立たせる上手い化粧の仕方をしていた。
女優の香里奈を古風にした感じと言ったら、わかりやすいか。

私に、こんな若いお母さんの知り合いは、絶対にいない。
何かの間違いだろうと思ったが、「マッちゃんのお父さん」と呼ばれる人間は、この地球上に、そんなに多くない(私以外には、おそらく14人くらいだろう?)。

俺を呼んだのか・・・。
そう思いながら、整った顔を見つめ直すと、思い出すものがあった。

昨年のこのブログ
彼女だったのである。
あの時は、もっと幼い印象だった。
しかし、いまは確実に大人の顔に成長していた。

「ああ」と言いながら、背中に背負った赤ん坊の顔を覗いた。
あれから、半年近くが経っていた。
つまり、1歳。
子が成長すれば、当然親も成長する。
二人とも、いい成長の仕方をしているようだ。

そんな姿を見ると、嬉しくなる。
私との接点は、ほとんどない二人だが、嬉しくなって頬がゆるむ。

雨が降っている。
彼女は、傘を持っていないようだ。
親はともかく、子どもが濡れるのは良くない。

そこで、「これ使っていいよ」と、ナカムラさんに貰った傘を開いて、差し出した。
彼女は、「ええー! いいよぉ、そんなに遠くないから、すっ飛ばして帰るよ」と、笑顔で首を振った。

「いいんだよ。キャン・ドゥの傘だから」
「キャン・ドゥ?」
「そう、キャン・ドゥ」(キャン・ドゥを知らないのか?)

私がもう一度、強く差し出すと、彼女は「ああ、キャン・ドゥなら、いいか」と言って、受け取った(知っていたようである)。
「濡れるから早く帰った方がいいよ」
私がそう言うと、「わかった」と言って、自転車をこぎ出そうとしたが、急に止まって「いつ返せばいい?」と、右手に持った傘を少し持ち上げた。

彼女の目が、私の目を真っ直ぐ見つめてくる。くっきりした二重まぶたが、強い意志を感じさせて、私をたじろがせる。
口元に勝ち気さが出ているが、あらためて、美人だと思った。

私は、少しうろたえながら「いいよ、キャン・ドゥだから」、馬鹿の一つ覚えのようにそう言って、指先を軽く振りながら、早く行くように促した。
しかし、彼女は軽く眉を寄せながら、こう言うのである。

「だめだよ。キャン・ドゥだろうがなんだろうが、傘は傘。借りたものは返す。それが常識!」

17歳の母親に圧倒される、情けない中年男。
しかも、雨に打たれて濡れたドブネズミ。立ち尽くすドブネズミ。

ドブネズミは、「わかった、じゃあ、とりあえず預かっておいて」、そう言うのが精一杯だった。

立ち尽くす私を残して、「じゃあ、お言葉に甘えて」、そう言いながら17歳の母親は、キャン・ドゥの傘を差しながら、遠ざかっていった。
ドブネズミは、それをただ呆然と見送る。

なんか・・・・・・・、疲れた。
そして、脳が思考停止。
その結果、スーパーで何を買うかを完全に忘れてしまった。

晩メシ。
テーブルに並んだ餃子を見て、中学1年の娘がこう叫ぶ。
「おいおい! 今日は、アサリの炊き込みご飯とけんちん汁じゃなかったのかよ!」

そうでした。
朝、娘の前で、そう宣言したのだった。

これは、もしかして・・・、キャン・ドゥの呪いなのか・・・(意味不明)。



★脳が思考停止したら、CG「噴水ばあさん」


2008/03/29 AM 07:47:09 | Comment(5) | TrackBack(0) | [日記]

短い反抗期?
反抗期、というものがなかった。

人間誰しも、反抗期があるというが、それは本当のことだろうか。
真面目に統計を取った上で、「反抗期は必ずある」と断言しているのだろうか。

子育ての過程で勉強したのだが、第一次反抗期というものがあって、小さな自我が芽生えてきたとき、自分の思い通りにならないと癇癪を起こすことがある。
それは、我が子たちの幼少時代を思い起こしても、何となく理解できる現象である。

ただ、私としては、我が子に「自我が芽生えた」ことを嬉しく思っていたから、それを明確に反抗期だと思ったことがなかった。
私が幼いころも、きっと同じように第一反抗期はあったのだろう。
しかし、そのことは完全に忘れている。誰もが、忘れているだろう。

だから、私が言う反抗期は、第二次反抗期のことである。
いわゆる、思春期特有の反抗期のことだ。

それが、私にはなかった。
友人にその話をすると、「嘘だろ! あったはずだよ。それって、おまえが気付いていないだけだろ」と、よく言われる。

しかし、私の母に聞いても、「ああ、あなたに反抗期はなかったわね。手のかからない子だったから」と言われるのである。
最近少しボケ気味の母であるが、20年以上前から言われているから、それはおそらく間違いないことだろう。

我が家の恥をさらすのは心苦しいが、私の父親は、それなりに名の知られた会社に勤めていたが、稼いだ金を家にまったく入れなかった。
小説家志望を理由にして、「作家は、派手に遊ばなければ駄目だ」と言って、新橋や京橋にアパートを借りて、毎晩銀座や新橋に飲みに行くのを日課にしていた。
だから、稼いだ金は、すべて飲み代に消えた。家にも、ほとんど帰ってこなかった。

私の姉は、50年余の人生で、まともに働いたのが1年にも満たない。
18歳のころから、ほぼ引きこもり状態で、生産的なことは何もしていない。
頭を使うことと、体を動かすことを極端に嫌っているから、彼女の行動範囲は、自宅からパチンコ屋までの数百メートルだけである。

そんな夫と娘を持った不運な母に、反抗など出来るわけがない。

では、教師に反抗すればいいのか?

教師には、特別恵まれていたわけではないが、全身全霊をかけて反抗するほど存在感のある教師には、巡り会わなかった。

ただ・・・・・・、
高校三年の時、一度だけ、4日間だけだったが、授業をサボったことがある。
いま思い返すと、あれが、「反抗期」と言えなくもない。

4日連続で遅刻をした。
高校卒業前の1月中旬、雪が降ったのである。
私は、駅までバスで行って、駅から学校までは、いつも歩いていた。

そのとき、雪のため、バスが大幅に遅れた。
初日は、15分の遅刻。
これは、私が悪い。

雪が降ったら、交通機関に影響が出るのは予測がつくから、早く家を出なければいけなかった。
遅刻した生徒は多かったが、それは皆事態を甘く見ていたためだったから、それはすべて本人が悪い、と言える。

2日目。
いつもより10分早く家を出たが、やはり遅刻。
これも、おそらく私の読みが浅かったのだから、多少なりとも私に非があると言っていい。

3日目。雪は解けた。
だが、間が悪いことに、私が乗ったバスで急患が出てしまったのである。
50代の女性が、車内で急に倒れたのだ。

運転手がすぐさま救急車に連絡をし、10分後くらいに救急車が来た。
急患をそのまま搬送してくれれば良かったが、車内で手当をし始めたから、約15分間、我々は車内で待たされた。
そして、遅刻。

遅延証明書をもらって登校したが、担任は信じられないことを言うのだ。
「3日連続の遅刻は、たるんでいる証拠だ。おまえに罰を与える!」
確かに、2日間の遅刻は、私に少し非があることは認める。
ただ、この場合でも、雪で交通機関が乱れたから、と強弁すれば、普通は通る問題である。

私は、いたずらに波風を立てたくないので、下手に出ていたが、「罰だ!」と言われたら、「ふざけるな!」と返すしかない。
不可抗力の遅刻で、罰を受ける謂われはないと、ホームルームの時間に、反論をした。
思えば、これが教師に対する初めての反抗だった(超オクテ)。
普段温厚な私が怒ったから、クラス全員も私を支持してくれた。

担任は、私を扱いやすい生徒だと思っていたと思う。しかし、その私から反撃を受けて、彼は見るからに逆上していた。
「とにかく、罰だ! 罰! おまえに体育館の掃除を命ずる!」と、うわずった声で叫んだ。

私はそれを無視して、4日目は故意に遅刻をした。
担任は、また騒いだが、私は「掃除はヤダ!」と言って、その場で早退した。

それから、4日間、学校をサボった。
小学校から高校三年の2学期まで皆勤賞だったので、初めて学校を休んだことになる。

私は、学校が大好きだったから、高熱があっても学校に行った。
もし私が休んでいる間に、「何かいいこと」がおきていたら、絶対に後悔する。そんな思いはしたくないので、何があっても学校へは行ったのである。

その私が休むというのは、大事件である。
私にとっても大事件だったが、親にも友人にも大事件だったようだ。
特に、友人たちが、ほとんどパニック状態になった。
友人(女子も含む)が、夕方何人も家に押しかけ、「絶対に謝るなよ。俺たちがお前を守るからな!」と、誰もがくさいセリフを吐いて、自分に酔いしれるように私の肩を叩いたものである。

そんな光景を見ながら、母は、「あんた、意外と人気があるのねえ」と、変なところで関心をしていた。

だが、この事件は、簡単に片が付いた。
大学入試を控えた大事な時期だったので、教頭が間に入り、「何もなかった」ことで決着が付いたのである。

私にとって、小中高を皆勤賞で過ごすという目標が挫折したのだから、4日間の休みは大きな汚点だったが、丸く収まったのだから、それで良しとすべきだろう。

この4日間は、果たして反抗期と言えるのか?

自分でも、よくわからない。
いま冷静に考えると、「掃除くらい、してもよかったか」と思うのだが、それが出来なかったことが「反抗期」の証明だと言えるかもしれない。

その話を娘にすると、「いつも思うんだけど、お前のイベントはいつも小さいなあ」
娘は苦笑しながら、そう言う。

そう言う彼女も今のところ、反抗期はない。
私に対して好き勝手なことを言ってはいるが、関係は良好である。
先日の小学校の卒業式で、彼女の担任から「こんな仲のいい父娘(おやこ)、初めて見ました」と言われた。
「はい、毎日ネタ合戦していますから」と答えたら、「グホッホッホ!」と笑われた。

高校2年の息子も、反抗期はない。
二人とは、友だちのような関係で接している。

いつも、お互い好き勝手なことを言っているが、険悪な関係にもならず、お互いを無視することもない。
気持ち悪い、と思わないでいただきたいのだが、息子などは、いまだに私と手を繋ぎたがるのである(177センチの息子だ!)。

ひとことで言えば、変な親子だ。

「反抗期のない親の子どもには、反抗期がない」
そんな論文が書けそうだが、子どもたちは、たとえば20歳くらいになって突然親に反抗するかもしれない。

その時の自分のうろたえぶりを想像してみると、心が凍えるが、それはそれで面白いかもしれない、とも思う。

他人事のように、私は、そう思っている。



★反抗したくなったら、CG「海の見える家」


2008/03/27 AM 07:46:25 | Comment(3) | TrackBack(0) | [子育て]

怒りは消えたが、酒臭さは消えない
自分の性格には、困ったものである。

一昨年あたりから、色々な面で耐えることが出来なくなっている。
まったく、どうしたんだろうか、と思う。
確実に、性格が悪い方向に向かっているような気がする。

それを実感した昨日。

表参道にある輸入卸会社から仕事の依頼を受けたので、娘の小学校の卒業式を終えた足で、そのまま相手先に向かった。

社名を変えるので、それに伴い販促用の会社概要を作り直したい、という内容の仕事だ。
カラーの12頁。

ロゴはすでに、出来ている。
キャッチコピーも決まっている。
画像もすべてデジカメで撮ったデータが用意されている。

12頁のうち6頁は、前回の会社概要を若干手直しするだけだから、正味6頁のレイアウトを考えればいいと言われた。
その場で、ラフデザインを考えて欲しいと言われたので、先方のMac(OSテン/レパード)を使って、2時間でラフを作り上げた。

それに対して、「ここをこうしろ」「ここはいらない」という指摘を受けたので、その場で修正した。

担当の男性は、20代後半くらいの、濃い顔をした人だった。
大変能率のいい話の進め方をする人だが、その分、会話にまったく遊びがない。
まるで、仕事以外の会話をするのがもったいない、と思っているようなタイプの人だ。

時に、「違うでしょ! 言ってること、わっかんないかなぁ〜」という言い方で、ご指摘を受けた。

すみません、わからないんですよ。
だって、2時間以上も休みなく、パソコンの前に座らされて、後ろから文句を言われるわけですよ。
コーヒーブレークもない。
だから、集中力が途切れます。

相手も休みがないから同じだろうと思うかもしれないが、パソコンを操作している人と、それを指図する人では、疲れの度合いが違うはずだ。
いくら早く仕事を進めたいとは言え、初めて訪問した会社で、自分より20歳若い男に指図されるのだ。
「我慢、我慢」と心の中で念仏を唱えるが、確実にストレスは溜まる。

しかも、この会社の社員全員が花粉症ではないかと思うほど、あちこちで派手なくしゃみが聞こえるから、気が散ってしょうがない(これは、ただのボヤキですが)。

そんな環境の中、ラフデザインが無事に終わって、最終的な打ち合わせに移ろうとしたときである。
担当者に、「俺、歯医者予約してるんで、30分間待っていてもらえるかな。もし社内で待つのが嫌なら、外に出てお茶でも飲んできたらどう?」と言われたのだ。

何とご親切な方だろう!
散々働かせたあとで、自分は歯医者に行くから、その間に自腹で茶を飲めと言うのである。
しかも、終始タメ口で。
ありがたく、担当者の仰る通りに外に出て、自販機で野菜ジュースを買って飲んだ。

季節は春。しかし、雨上がり。

表参道は、春の似合う街である。
その春の似合う爽やかな街を、沼地が似合う湿った男が歩く。
これほどのミスマッチはない。

大学時代、この通りを飽きるほど歩いたものだ。
店やビルは大きく変わったが、道筋はほとんど変わっていない。
だから、自分の庭のように歩いた。

しかし、環境は人を変える。
振り返ると、私が通った道だけ、何か湿っているような気が・・・(雨上がりということもあるが)。
そんな現実に打ちのめされながら歩き回っているうちに、30分が過ぎようとしていたので、会社に戻った。

だが、担当者は、まだ帰っていなかった。
それどころか、さらに20分待たされたのである。
そして、担当者は「遅れてすみません」の言葉もなく、すぐに仕事の話をし始めた。

相手が、今回の見積もりを今出して欲しいというので、5分間考えて、見積もりを出した。
予想していたが、「もう少し安くしろ」と言われた。

1割ディスカウントしたら、相手はあっさりと頷いた。
こちらの提示額が、もともと安いのだから、頷くのは当たり前である。

その後、これからのスケジュールと最終納期を決めた。
1時前から作業を初めて、歯医者タイムがあったので、すでに時刻は、午後5時近かった。
初めてにしては、長い打ち合わせだった。

疲れた。

しかし、それは序章だった。
「さあ、今度はホームページなんだけど・・・」

なにぃ! 聞いてないぞ!

私が電話で聞いたのは、会社概要を頼みたい、という話だけだ。

「いや、実を言うと、こちらの方がメインなんだ」
涼しい顔をして言うのである。

彼の話によると、ホームページは他のデザイン事務所に頼んでいたが、細かい部分で意見が合わなくて、途中で相手が「勝手に」降りてしまったのだという。

「半分出来てるんだから、難しくないよね」
「もうあまり時間がないから、こっちも、うるさいことは言わないからさ」
「プライドの高いデザイン事務所って、やだよね、まったく!」
「納期は、会社概要と一緒。出来るよね?」


歯医者タイムを無理矢理設けられて、自分より20歳若い男に、今度は立て続けにこんな話し方をされたら、頭に来ませんか?

いや、普通の大人だったら、我慢するんでしょうね。
こういうことをすべて我慢して、完璧に仕事を仕上げる人こそ、本当の大人であり、プロなんですよね。

「ダメ? ダメなら、早く言って欲しいな! 時間がもったいないからさ。こっちは、オタクの都合ばっかり聞いてられないからね」

時間がもったいないなら、歯医者なんか行くんじゃねえ!
ホームページの仕事がメインだったら、最初からそう言え!
この人の仕事の進め方と態度は、私のルールとまったく噛み合わない。

もう、おわかりかと思いますが、この仕事は、断りました。
ラフデザインは、ただ働きになったが、そんなことはどうでもいい。

帰りに、表参道のコンビニで、ビール(発泡酒ではない!)3本と「さけるチーズ」を買って、代々木公園の朽ちかけたベンチに腰を下ろし、ちらほらと花を咲かせた桜を遠くに見ながら、一人宴会。黄昏(たそがれ)宴会。

夕方は、さすがに空気が冷たかったが、怒りを冷ますには丁度いい温度だったかもしれない。
家に帰るころには、怒りは消えていた。

しかし、小学6年の娘が、私の顔を見て言う。
「おや? 何か酒臭いな。やけ酒か?」

酒臭さは、消えていなかったようである。


★酒臭い人は、CG「いかにもCGなキッチン」


2008/03/25 AM 08:01:02 | Comment(3) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

尊敬する坂田師匠
ブログに書くほどのことではないが、書くネタが思いつかないので、書いてみました。

テレビを見ながら、高校2年(もうすぐ3年)の息子が、叫んでいる。
「こいつ、バッカだなあ! こんなことも知らないのかよ!」
画面を覗くと、最近売れっ子のおバカタレントが映っていた。

彼らの常識はずれの答えを聞きながら、息子は「バカ」を連発している。

そこで、「バカを演じるのも大変なんだよ」と言わなくてもいいことを私が言うと、息子は「えーっ! こいつら、本当のバカでしょ」と画面を指さす。

常識を知らないだけでは、バカだとは言えない。
世の中には、日常生活に役立たない常識が、いくつもある。
それを知らないからと言って、本当のバカとは言えない。

たとえ、宮崎県の場所を知らなくても、ほとんどの人の生活に支障はない(それを知らなくても、『どげんかせんといかん』、とは思わない)。
ことわざを知らなくたって、マクドナルドのアルバイトは出来る。
アメリカ大統領のフルネームを言えなくても、海外旅行は出来る。

そんなことはどうでもいい。
だから、私は通称「おバカタレント」を応援している(この理屈おかしい?)。

みんなから、「バカ」と言われて、嬉しい人など、おそらくいない。
仕事だから割り切っているのだろうが、たとえば道ばたで、テレビの情報はすべて正しいと思っている子どもたちに、「ああ、あいつバカなんだぜ」などと指差されたら、私だったら確実に子どもの首を絞めていることだろう。

それを覚悟で「おバカ」を演じているあの人たちは、エライと思う。
常識を知らないことを売り物にするのはおかしい、と眉をひそめる人もいるようだが、私はそれも「芸」の一つだと思っている。

「そんなの芸じゃないよ。バカは絶対芸じゃない!」と息子は言う。
しかし、笑いをとれて、しかも見る人に優越感を与えるのは、新しい芸のジャンルと言っていいのではないだろうか。

笑い、というのは高度な芸である。
私の偏見かも知れないが、人を泣かすことよりも、笑いを取ることの方が難しいと思っている。
テレビのお笑い番組を見ていると、会場の人たちは、みな笑う準備をしているから、どんな幼稚な芸でも笑うが、テレビの前の視聴者は、それほど幼稚ではない。
つまらない芸に対しては、「つまらない」「あきた」と、簡単にチャンネルを切り替える。
笑いは、瞬間を切り取る芸なのである。

涙は、不幸を表現すれば誘導できるが、笑いは、間口が広いから一つの方法だけでは、人は笑わない。
たとえ笑ったとしても、次も同じ手法が通用するとは限らない。
繰り返しは有効だが、飽きられるのも早いから、それは諸刃の剣だ。

最近、タモリやたけしの影響なのか、お笑い芸人が、「俺って、バカやってるけど、本当は頭がいいんだぜ」と、暗にアピールする人が多くなった。

お笑い芸人が、頭がいいと主張するのは、別に悪いことではない。
雑学もあって、常識も知っていて、自分の意見も持っている。
それは、人間として、立派だと思う。

しかし、これは、あくまでも「私の好みの問題」なのだが、お笑い芸人が雑学を知っていてどうなのかと思う。
雑学芸人、知識芸人というジャンルがあるのなら、きっとその人たちは、そこに分類されるのだろう。

「あー、物知りだ。雑学王だ!」と言われて喜ぶ「お笑い芸人」。
テレビ局の企画に乗せられているだけ、というのはわかるが、どうも釈然としない。
通称おバカタレントが、「バカ」と蔑まれるリスクを負っているのに、お笑いを職業としている人が、そのリスクを負っていないことが、私には納得できないのである。

お笑い芸人が、頭がいいのはわかっている。
彼らの頭が優秀だからこそ、優れた笑いが生まれる、とも思う。

しかし、体を張らずに、ひとの悪口を言って笑いを取ったり、観客をいじって笑いを取ったりする芸は、頭の善し悪しに関係なく、程度が低い。
頭がいいとアピールするのは結構だが、みんながタモリやたけしのように、プロデューサー芸(人を使って笑いを取る)を目指していたら、笑いが一本道になってしまう。

だから、いま私はお笑い芸人よりも、リスクを背負った「おバカタレント」の方を気に入っている。

だが、それよりも気に入っているのが、この4人だ。

志村けん師匠、高田純次師匠、坂田利夫師匠、出川哲朗師匠(番外でダチョウ倶楽部)。

この人たちは、きっと生涯「おバカ」を貫くだろう。
彼らはおそらく、これからも「俺は頭がいい」とアピールすることはないはずだ。
私には、そこが大変尊敬できる。

私は、お笑いは下品でいい、と思っている。
それは、体を張らない、他人の悪口を言うだけの「上品な」笑いよりも、数段上だと思っている、

私の小学6年(もうすぐ中1)の娘は、あらゆる面で私の影響を受けているから、笑いの分野でも私と意見が合う。
そんな彼女は、坂田利夫師匠の歩き方の真似が、異常に上手いのだ。
彼女の歩く姿を見て、時に、本当の坂田師匠が歩いているかのように錯覚することがある。
私より圧倒的に上手い。

そこが、私としては、ものすごく悔しい。しかし・・・、なんか嬉しい。


★坂田師匠に憧れる人は、CG「逃げるオッサン」


2008/03/23 AM 08:13:33 | Comment(6) | TrackBack(0) | [日記]

すかいらーくは俺で保つ
すかいらーくには、かなり貢献している。

私の仕事場は狭いし、乱雑なので仕事の打ち合わせ場所には、相応しくない。
だから、我が家から500メートル離れたすかいらーくで、仕事の打ち合わせをすることが多い。

ドリンクバーを頼んで、珈琲を何度もお代わりしながら、仕事の打ち合わせをする。
相手は、時にランチを食ったりする。
その合間に、私はコーヒーを何杯も飲む。
特別美味いコーヒーではないが、何杯飲んでも飽きることはない。

長年の付き合いの友人相手の場合は、たいていはビールを奢ってもらう。
ピザを食ったり、シーフードサラダを食ったりするときもある。
ピザはもちろん冷凍だろうが、味は悪くない。生地とチーズが程良いバランスで、個性はないが安心できる味だ。

他のメニューに関しては、味は全くわからない。
ほとんど食ったことがないからだ。
食べている人に聞くと、「美味くはないな」と言うが、そうは言っても、その人たちは完食をしているから、不味くもないのだろう。

先月、申告のため、昨年一年間で、すかいらーくに費やした金額を算出してみた。
総額81,200円。
月平均だと、約6,700円。
特別大きい数字ではないかもしれないが、友人が私に奢ってくれた金額も追加すると、かなりの額になるはずだ。

おそらく、私がらみで、年間15万円以上すかいらーくに投資しているのではないだろうか。
これは、多大な貢献とは言えまいか。
威張るほどではないが、私にとって大きな金額だということは、間違いがない。

先日の日曜日、「だからさあ、もう少し、すかいらーくでは大きな顔をしようぜ」、と調子に乗りながら、友人のイナバと話をしていた。
しかし、現実にウエイトレスに横に立たれると、「ああ、生ビールをお願いします。すみませんねえ」とわけもなく低姿勢になるのだから、情けないものである。

今日も、もちろんイナバの奢りである。
私はビールだが、イナバは車で来ているので、ドリンクバーとスパイシービーフカレーを食っていた。

「うまいよな、すかいらーくのカレーは」と言いながら、イナバは1分もかからずに、カレーを平らげた。
11歳年上の私に、遠慮なくタメ口をきくイナバは、腹をさすりながら、水をがぶ飲みした。
それで、味がわかるのか。
大食い選手権をしているわけではないのだぞ。

食い終わって、さらに水を一気に飲んだ後で、イナバは鼻をふくらませた。
「この間、仕事で上野に行った時に、昼メシにカレーを食おうと思って、店に入ったんですよ。そこはカウンターだけの小さな店で、あまり綺麗とは言えない店だったな。メニューはポークカレーとビーフカレー、チキンカレーの3種類だけ。不機嫌な顔をした40歳くらいの男と、同じくらい不機嫌な顔をした20代の男がカウンターにいたんだ。俺は、ポークカレーを注文したんだけど、これが辛い、辛い! あまりに辛いんでお冷やのお代わりを要求したんだけど、無視するんだ。水を飲まないとどうしようもないんで、しつこくお冷やを要求したら、年上の男に『水は一杯だけ』って、睨まれた。なんだ、こいつ! と思って、若い方に頼んだら、また無視だ。頭に来て、3分の2も食べてなかったけど、出て来ちゃった。あれは、ひどかった。客商売で、あれはない!」

イナバはそのあと、どうしようもなくカレーが食いたくなって、上野駅構内のそば屋でカレーを食ったらしい。
水もがぶ飲みして、やっと冷静になったと言うが、その話をしているイナバの顔は、その時の怒りを思い出したのか、鼻の穴がふくらんで、顔も真っ赤である。

たかが、カレーごときに・・・、と思ったが、実際に自分が店側からそんな仕打ちをされたら、テーブルをひっくり返していたかもしれない。
いや、その店はカウンターだと言っていたな。カウンターをひっくり返すのは、無理か。

そんな話をしていたら、カレーが食いたくなった。
昼メシ(おにぎり2個)を食ったばかりだったが、カレーはたとえ満腹でも完食する自信がある。

「イナバ君、俺にカレーを奢る気はないかい?」
「ああ、いいよ」

イナバは、人間の質がさらにバージョンアップしたようである。
これからは、彼のことを「カレー王子」と呼ぶことにしよう(王子は、もう古い?)。

しかし、どうでもいいことだが、少しさわやか系の若者がいると「王子」と名付け、少し見た目があか抜けているだけで「イケメン」と言い、女子アナはみんな「美人」で、デート現場を見られただけで「熱愛」になり、名の売れた女性歌手は皆「歌姫」になるメディアの表現能力の低さは、いったい何なんだろう?

ブツブツブツブツ・・・・・(こごとジジイ)。

すかいらーくの冷凍物の「スパイシービーフカレー」が目の前にある。
ゆっくりと食べ始める。

まず感じたこと。
ライスがうまい。粒が光っている。いい米を使っているな、と思った。
ルーを食う。
牛肉が柔らかい。いい肉を使っているな、と思った。
完食した。満足した。

「あれっ、Mさん、水まったく飲まないんですか?」
そうなのだよ、イナバ君。
私は、食べている最中に、絶対に水分は摂らないのだ。

これは、どんな料理の時もそうである。
何を食べても、食事中に水分は摂らない。
それどころか、お店で出された水を飲んだことがない。

「えー、俺はダメだな。水分がないと、口の中が渇いてきませんか? それに、食べ物の味が混ざっちゃうでしょう。他の味が混ざると、不味く感じるでしょう、普通?」

普通はね。

でも、いいんだよ、混ざったって。
混ざって不味く感じるような料理は、最初から不味いってことなんだよ。
料理にプライドを持った料理人なら、味が混ざったことを考えて、味加減を調整するもんなんだ。
色々な食い方をする人間がいるんだから、料理人は、食べる人間に気を遣わなきゃいけないんだよ。

食べる人間が、料理人に気を遣う必要はないんだ。
だから、一品一品、勿体ぶったように料理を出してくるフランス料理は、あれは、料理じゃねえ! 料理人の自己満足だ!

「いいの? そこまで言い切っちゃって」

いや、良くありません。言い過ぎました。フランス料理のシェフさん、ゴメンなさい。

「Mさん、根性無いなあ。ダメでしょう、すぐ謝っちゃ」
「根性よりも、生ビールをもう一杯」

丁度、皿を下げに来たウェイトレスに向かって、私は人差し指を突き出してビールを注文しながら、こう続けた。
「いやあ、いつも美味しいですねえ。ビーフカレー、美味しかったです。クセになる味ですね」

ウエイトレスの、にこやかな顔。

そして、イナバの人を軽蔑しきった顔。

すかいらーくには、色々な顔がある・・・・・。



★ウエイトレスに気を遣う人は、CG「いかにもCGなバスルーム」


2008/03/21 AM 07:07:18 | Comment(6) | TrackBack(0) | [日記]

あぶない顔
29歳のころ、ボクシングジムに通っていた。

中学1年から大学まで陸上競技の短距離を専門にしていて、それなりの成果は残した。
大学4年の時、膝を傷め、腰を立て続けに傷めたので、体を酷使することを少し休もうと思った。

競技生活の中でいつも私が思っていたこと。それは、私には生まれつき闘争本能がないのではないか、ということだった。
陸上の大会で負ければ、もちろんそれなりに悔しがったが、心底悔しい、と地団駄を踏むことはなかった。
勝負に対して、いつも淡泊だった。
そして他のことに関しても、淡泊だったのではないかと・・・。

友だちからは、「おまえの沸騰点は普通の人よりも、かなり高い」と言われていた。

そうなのだ。
普通の人だったら、必ず激怒するであろう場面でも怒らないのである。

「おまえ、普通そこは怒るところだろ!」と言われても、怒りの炎が着火することはなかった。
「この程度で怒っても・・・」と言って、いつもまわりをイライラさせていた。

だから、喧嘩をする場面でも、私が怒らないのだから、喧嘩にならない。
取っ組み合いの喧嘩をしたことがない。
高校時代に一度、オカマにしつこく言い寄られて、蹴り飛ばしたことがあったが、喧嘩といえば、それくらいである(それは喧嘩と言えるのか?)。

私がボクシングジムに通っている、と言ったとき、誰もが驚いた。

どうした? 誰かにいじめられたか?
殴りたい相手が出来たのか? 誰だそいつは? 俺が代わりに殴ってやろうか?

そんな反応が多かった。

しかし、私の動機は単純なものだった。
激しい運動から遠ざかって、7年。
ジョギングはしていたが、フルマラソンを目指していたわけではないから、いつも軽い運動で終わっていた。

それが、何となく物足りなくなった。
それに、当時、少し肉体の衰えも感じていた。

当時もスポーツジムはあったが、今と違って、会員制の高級なものがほとんどだったから、一介のサラリーマンには、ハードルが高かった。

それに比べて、ボクシングジムの会費は手頃だったので、当時住んでいた沿線のボクシングジムに入会した。
基礎体力は、同年代や少し若い世代の人と比べて、上位の部類に入っていたから、練習には簡単についていけた。
ロードワークなど、むしろ物足りなく感じたほどである。

パンチングボールとロープスキッピング(なわとび)は苦手だったが、ミット打ち、サンドバッグ打ちは得意だった。
シャドーボクシングも、初日にトレーナーから、筋がいいと褒められた。

ただ、当たり前のことだが、プロのボクサーになるつもりはなかった。
それは無謀である。
闘争本能のまったくない私が、いくらスポーツとは言え、人を殴れるわけがない。
ミットを打ち、サンドバッグを思い切り打つのが、精々だと思っていた。

しかし、ある日、トレーナーが私にこう言うのである。

「おまえ、グローブをはめると目つきが変わるな。いや、バンデージを巻いた時点で、人が変わる感じだな。自分じゃ、気付いちゃいないだろうがな」

そんなに?
もちろん、自分では気付いていない。
普通に、トレーニングとしてのボクシングをしているつもりでいた。

それに、ミットを打つときに真剣になるのは、当たり前のことである。
そうしないと、ミットの真ん中は打てない。

しかし、トレーナーは言う。
「あんたが、あと10歳若かったら、俺はプロになることを勧めるけど、この年じゃな」
そして、笑いながらの軽い口調だったが、彼はこう続けるのである。

「絶対に喧嘩はするなよ。あんたみたいに、自分の怖さに気付いていないやつは、ブレーキが利かないからな。そんなやつは、絶対に喧嘩をしたらダメなんだ。殴るのは、ミットと空気だけにしとけよな」

自分でも気付かない、自分の中の野生。
闘争本能。

そのことと真剣に向き合うのが怖くて、1年足らずでボクシングをやめた。
トレーナーは、私がやめるというのを聞いて、「あんたはライセンスは持っていないけど、こぶしが凶器だってことを忘れるなよ」とだけ言った。
その時は、「このひと、何をカッコつけたことを言ってるんだ」と思った。

あれから、20年が経った。
昨日の昼、埼京線の車内で、声高に携帯で電話をかけている20代の男に注意をしている、勇気ある年輩の女性を見かけた。

それに対して、電話をかけていた男は、こう悪態をつく。
「ガラガラの車内なんだから、いいだろ!」
確かに2時過ぎの埼京線各駅停車の車内は、乗客は数えるほどだった。

しかし、だからと言って、得意気に携帯電話を使っていいというものではない。
「非常識じゃないですか。車内のアナウンスでも言ってませんでしたか!」
女性は、毅然と胸を反らせて、抗議をする(まるで、斉藤さんだ!)。

「誰が、そんな常識を決めたんだよ。俺は知らねえよ!」

いかにも、という答えだったので、私はつい笑ってしまった。
自分勝手な人間が言いそうな、お決まりの「決めゼリフ」だったからだ。

おまえが知らないから、おまえのことを「非常識」と言っているんだよ。
常識というのは、時に勝手な使われ方をする都合のいい言葉だが、「俺は知らねえよ」という、お子さま並みの言葉が返ってくると、笑うしかない。

しかも、「バーーカ!」という幼稚園児のような言葉を付け加えるのだから、大変わかりやすい馬鹿者だと言える。

その「バーーカ!」が引き金になった。
怒りはないが、嫌悪感はある。そして、小さな苛立ち。

私は、自分でも気付かぬうちに立ち上がって、男の方に歩き出していた。
もちろん、男を殴ろうなどという気はない。注意をする気もなかった。
ただ、足が勝手に男の方に向かって動いてしまったのである。
その時の感覚は、いらついていた・・・、としか表現することが出来ない。

男は、足をほとんど180度近くまで広げて胸を反らし、自分を大きく見せようとしていた。
これは、きっと本能なのだろう。
文句を言ってきた人間に対して、自分を大きく見せようと虚勢を張るのは、人間が動物である証拠だ。

私が、男の2メートルほど前に近づいたとき、男は私の存在に気付いた。
そして、男の顔は、すぐに引きつった表情に変わった。
男は、反射的に立ち上がると、怖いものから逃れるように、飛ぶような素早さで隣の車両に移っていった。

年輩の女性も、私の顔を見ると、顔を強張らせて、私から背を向けた。

電車は、丁度トンネルに入ったところだった。
窓ガラスに、私の顔が映る。

それを見て私は、20年前、トレーナーが言った言葉を思い知ったのである。

私の顔は、かなり「あぶない顔」をしていた。



★あぶない顔の人は、CG「いかにもCGなリビング」


2008/03/19 AM 07:25:22 | Comment(3) | TrackBack(0) | [日記]

ちっこい炎上
恥ずかしながら、最近まで「炎上」の意味をよく知らなかった。
言葉は知っていたが、まったく気に留めていなかった。

「誰それのブログが炎上したらしい」

へ〜、炎上したんだ。そうなんだ。

それで、おしまいである。
最近は脳が著しく老化してきているので、自分とは関係ない事柄には、あまり興味を示さなくなってきた。

友人との会話にも、炎上の話題は、出たことがない。
だから、「炎上? 関係ねえな」としか思わないから、いつもその話題を素通りしていた。

最近、Shadeの円状構造に関して、ネットで検索をしようとした。
まるで笑い話のようだが、そのとき、「Shade 円状」と打つべきところを「Shade 炎上」と打ってしまったから、炎上記事がいくつか表れて、それを閲覧してみて、はじめて本当の意味を知ったのである。

ブログが炎上するには、いくつかの条件があるようだが、ネットで調べてみたが、私にはよくわからなかった。
ときに、瑣末な言葉尻を捉えて、無闇に反応しているケースも見うけられる。

また、「〜だな」という断定的な口調を駆使して、まるで某都知事のように、反論を封じ込める作為ある論調も見うけられる。
某都知事の場合は、反論が怖いので、あのような威圧的な態度に出るのだと思うが、ネットユーザーの真理に関しては、不明である。
それは、その人の頭の構造の問題だから、他人には理解することは不可能だろう。

どんなに文章に気を配っても、揚げ足を取る人は必ずいる。
だから、ブログを書いている限り、「炎上」は避けられない。
対岸の火事ではない、と思う。

しかし、気を配った文章ばかり書いていたら、それはブログではない、という気もする。
思いのままを書くから、その文章は真実味があると受けとめられるのだし、共感も呼ぶのである。
ブログによる他人への罵詈雑言は問題外だが、批評自体は自由なはずである。

よほどの悪意あるブログでない限り、「ああ、こんな考え方もあるんだ。でも俺はこう思っているから、軽くひとことだけ言っとくか」程度なら、コミュニケーションとしてグー!エド・はるみ的に言ってみました)。
言葉(表現)の自由を封じ込める行為は、ネット社会の自滅につながる。

先日、ネットの記事で、テレビ関係者が「ネットで頭がバカになる」と言った、という記事を見つけた。
それは、テレビ番組での発言だったらしい。

「ネットがあることで、子どもの学ぶ意欲が低下している」
「自分の衣食住なんか、人に見せるものではない。人生の何の役にも立たない」

テレビ関係者が、そのようなことを言って、ネット社会に警鐘を鳴らしたと言うのである。

「ブロガーは、半径5メートル以内の居・食・住のことしか書いていない」
とも言ったという。

しかし、ブログというのは、もともとそういうものではないのか。
自分中心の心の世界を表現するからこそ、その世界に共感したときに、「あるある!」と言って、感動を共有できるものが、ブログの原点なのである。

それを否定するなら、ブログやネットの存在を無視すればいいだけのことだ。
たとえ1千万枚の売り上げを記録したメガヒット曲であっても、人は、自分が興味がなければ買わない、という選択肢を誰でもが持っている。
あるいは、聞かないという選択肢もある。

私は、秋ナントカの「千のナントカ」は、聞いたことがない。これからも、聞く気がない。
青山ナントカのナントカというヒット曲も、遠慮している。

この場合、「俺には、あまりいい歌には聞こえないな」で済む話である。
だから、同じように、ブログに関しても、「俺には興味がないな」で済ませればいい。

「ネットで頭がバカになる」と言うのなら、具体的な事例を上げて、「ネットで頭がバカ理論」を展開しなければ、説得力はない。
ただ、私はその番組を見ていないので、真面目に反論できるのは、ここまでである。
もし、番組の中で「ネットで頭がバカ理論」が、様々な根拠を提示しながら、真面目に検証されていたとなると、「ゴメンなさい」と謝るしかない。

だから、ここからは、勝手な持論。
以前、テレビ関係者の意見だったと思うが、インターネットの世界は「想像力」が欠けている、という記事を見かけたことがあった。
インターネットの「検索」に頼りすぎて、自分で考える意欲がなくなっている。検索の範囲内で考えるから、想像力がなくなる、という主旨だったと思う。

では、テレビは、想像力にあふれているのか。
しかし、テレビというものは、元々が受動的なものである。
最近のデジタル化で、やっと双方向性の環境が出来てきたが、それはパーセンテージとしては、まだ小さい。
テレビは、いまだに情報を受けることが主流である。

それに対して、インターネットはテレビに比べて能動的である。
双方向性を持っているから、テレビよりも情報発信者と関わる度合いが、濃厚だ。
そして、自らがホームページを開設すれば、誰もが情報発信者になりうる媒体だ。

テレビは、基本的にプロが作るものである(中には、これで本当にプロか? と思わせるものも多々あるが)。
それに対して、インターネットは一般人が、自由に自分をさらすことが出来る「発信の場」だ。

テレビの基本は、「受信」。
インターネットの基本は、「発信」「受信」。
これは、電波と回線の違い以上に、「自分」というものを軸にした能動性の違いである、と言ってもいい。

だから、映像を電波に乗せるだけのテレビ関係者がネットを非難する場合は、極めて高度な論拠が必要である。
「バカになる」と言うのなら、テレビの情報を真に受ける受信者だって、同じように「バカになる」はずではないのか。

テレビ番組の中には、インターネット情報をそのまま流す芸のない番組もあると聞く。
そんな番組を作るテレビ関係者の一部から、「ネットで頭がバカになる」と言われたら、それこそバカにされたような気分になる。
それに、プロであるテレビ関係者が、素人のネットユーザーに喧嘩を売ってどうなのか、とも思う。

テレビには、まだ多くの役割が残されていると思うが、インターネットにも多くの可能性が秘められている。
もちろん、インターネットの弊害は、至るところにある。
炎上も、その一つである。改善すべき点は、多々あるだろう。

しかし、テレビの良さを伸ばし、インターネットの可能性を受け入れる、そんな柔らかい選択が出来るユーザーも、今では育ってきているのである。
不毛な議論をするよりも、そんなユーザーの存在を認めて、テレビとネットが共存できる道を図った方がいいのではないだろうか。

いや、もうその道筋は出来ているのに、ネットを認めたくない人間だけが、ただ感情論から、時計を逆回りさせようとしているのかもしれない。

どんな分野でも、可能性を追求しようとしているとき、それに水を差そうという人は必ず出てくる。
それは、インターネットの世界が大きく広がって、既得権を侵される分野の人にとって、ネットが脅威と捉えられているからだろう。

ただ、今回の場合は、「バカ」という言葉を使って、初めから低次元の論争を挑んでいることに、釈然としないものを感じるのである。
テレビ業界の人は、数世代前の首相のように、ワンフレーズで威勢のいいことを言って、言葉を放り投げるだけの人が多いような気がする。
彼らの話は、キャッチコピーだけで、話が完結しているように思える。

バカ、だけで表現してしまったら、すべてがバカで括られてしまうから、対象が曖昧になる。
それは、高等教育を受けた大人としては、いかがなものだろうか。

まあ、私の場合、本当のバカだから、バカと言われても、痛くも痒くもないが・・・・・。


話変わって、
私のブログは、炎上することはないが、この間、我が家の電話が炎上した。
先日のブログで、この仕事を辞めるかもしれないと書いたら、その日の夜に、立て続けに電話がかかってきたのである。

「何を寝ぼけてるんですか! それは許しませんよ!」
一番手は得意先のフクシマさんだった。
「おい! タチの悪い冗談はよせ!」と、コピーライターのススキダ。
「師匠、老人性の鬱病が始まりましたか?」と、WEBデザイナーのタカダ。
「仕事がないなら、仕事回しますから」と、テクニカル・イラストレーターのイナバ。
「辞めるのなら、俺の仕事を手伝え。企画担当として雇ってやる」と、ノナカ。
「悩め、悩め。俺なんかいつも悩んでるんだからな」と、京橋のウチダ氏。
「先生、ボクの使っていないMacを差し上げますから、考え直してくださいよ」と、一流デザイナーのニシダ君。

1時間足らずの間に、これだけの電話がかかってきた。
開業以来の大繁盛である。

炎上した、炎上した!
と単純に喜んだ。

それを横目で見ていた娘が、ひとこと。

「おまえの炎上は、ちっこいなあ!」

はい、人間がちっこいもんで。


★ちっこい人は、CG「SAKURA、そして母娘」


2008/03/17 AM 07:01:08 | Comment(4) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

仕事を辞める日
パソコンの調子はいい。

仕事用に、Macを3台持っている。
すべてが年代物のMacだが、メンテナンスが完璧なので、最近は全くストライキを起こすこともない。

サブで使っているのは、G3/300MHzに800MHzのアクセラレータを乗せたもの。
もう一つのサブは、G3/450MHz。
メインで使っているのは、G4/450MHzだ。

どれも、ほとんど化石に近い古いものだが、ムービーなどを扱わない限り、仕事に不足はない。
知人の2GHzを超えるスペックのMacを触ると、その高速感に驚かされるが、1時間も動かしていると速さにも慣れて、「無駄に速いだけだな」と冷静になる。

最近は、Shadeでパースをレンダリングをすることが多くなった。
G4/450MHzでは役不足だが、知人から借りっぱなしのウィンドウズのノートPCが1.25GHzで、メモリも1GHz積んであるので、レンダリングだけは、ウィンドウズに任せている。
これで用は足りる。

つまり、今のところ私は、パソコン環境に、それほど不満は感じていない。
ただ・・・・・、
このパソコンたちも、いつか壊れるときが来るだろう。

それは、明日かもしれないし、半年後か、一年後かもしれない。
大事に使っているとはいえ、耐用年数は過ぎているのだ。
どれが壊れても、おかしくはない。

こいつらが壊れたとき・・・・・、
新しいパソコンを買うという選択肢は、もちろんある。
壊れたときのために、パソコン貯金をしている。
準備は怠りないのであるが・・・・・。

ただ、このパソコンが壊れたときに、私に、はたして仕事を続けていく気力がまだ残っているかどうか。

そのことが、我ながら気がかりなのである。

この仕事は、楽しい。
半人前だから、まだ伸びる余地は残っている、と自分でも思う。

だが、これを天職だと思ったことは、一度もない。
どうしても、生活のため、家族のためにしている、という意識が抜けない。

もちろん、誰もが天職に就いて、満足な日々を送っているとは思っていない。
そんな人は、稀だろう。
今の職業を無理矢理「天職」だと思って、仕事をし続けている人の方が多いと思う。
みな、何かを諦めて、仕事を続けている。

いま私が辞めたら、現実的に考えて、迷惑を蒙(こうむ)る人が、少しはいるだろう。
ただ、私程度の人材の代わりなど、いくらでもいるというのも現実である。
だから、私が辞めても、迷惑をかける期間は、ごく短期間だと思っている。

そう考えると、気が楽だ。

私の心のバロメーターは、完全に、辞めることに傾いている。

辞めたら、何をしようか。
遊んで暮らす余裕などはない。
だから、何か職を探さねばならない。

調理師免許をとって、自分の店を持つというのが、昔からの夢だったが、料理は趣味でやるから楽しいのであって、職業にしたら、料理の本質を見失いそうな気がする。
目立たない場所に店を構えて、自分の納得した料理だけを出すなどということを考えているが、それは甘っちょろい自己満足でしかない。

行政書士の資格を持っているので、事務所を開くという手もあるが、何のコネもない人間がいきなり事務所を開いても、誰も相手にしてくれないだろう。
資格を持っていても、実務など全くやったことがないのだ。
閑古鳥が鳴くことは目に見えている。

では、シルバー世代相手のパソコンスクールはどうだろうか。
いまでも60代の女性二人にパソコンの操作を教えているが、これは意外と私の性に合っているかもしれない。
相手がパソコンを覚えることに切羽詰まっていないから、ゆったりしたペースで教えられるからである。

それに、合間に入る世間話も結構面白い。
「Mさんとお話ししていると、時間を忘れるわ」と言われると、妙に嬉しいのである(まるで茶飲み友だち)。
90分の講習のうち1時間が世間話の時もあるのだが、この「ゆったり感」がたまらなくいい。

そうなると、安い事務所を見つけて、シルバー世代相手のパソコンスクールを開くのが、一番いいのではないかと、気持ちが完全に固まりかけていた。

気が付いたら、右手にもらい物の江戸切子風のグラスを握っているのが見えた。
肩に毛布を羽織っている。
見回すと、煤けた壁。その壁には、直径70センチの大きな時計が掛かっている。

音楽は、絢香の「melody」。
テーブルの上には、「いいちこ」。
隠れ家で、いいちこをのんでいる間に、眠ってしまったようである。

そうか・・・、夢か・・・・・。
いくつかの夢を見たが、そのどれが、私にとって現実的なんだろうか?

中には、夢のままで終わらせたくないものもあったが・・・・・。

まあ、いいや。
もう一度、寝よう(zzzzzzzzzzzzzz)。


★夢見る人は、CG「なんか妖しい」



2008/03/15 AM 07:54:10 | Comment(8) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

中途半端なワル
得意先の社長は、私と同い年。
しかし、彼は11の店舗を持つドラッグストアチェーンの社長(こちらを参照)。
それに比べて、私は・・・・・。

昨日、社長からお呼びがかかったので、得意先に行って来た。
いつもは、仕事の打ち合わせは、担当者とだけするから、社長と顔を合わせることはない。
つまり、今回のお呼びは、仕事の話ではないということになる。

K社長は、温厚な人である。
無理な要求もしない人だ。常に相手の立場を考えている。
ただ、私はこのブログにも何度か書いたが、K社長からのお誘いをいつも断ってきた。

「伊豆の別荘に、ぜひ遊びに来てくださいよ」

そんな優しいお言葉をかけていただいても、首を縦に振らなかった。
まさか、それを怒っているのでは?
だから今回、少々緊張しながら、社長室のドアをノックした。

社長は普段と変わらず、紳士的に私を迎えてくれた。
俳優の小日向文世を品良くして、ジローラモを足したような笑顔が目の前にある。
そして、社長は珍しく昼間から酒を飲んでいた。
カティサークだ。

「もしかして、やけ酒か」、と身構えた。
しかし、社長は笑顔を崩さず、私にもカティサークをめぐんでくれた。
普通の人だったら断るかもしれないが、私は普通の人ではないので、ありがたく頂いた。

ストレートだから、ウィスキーの味が純粋にわかる。
ひとことで言えば、気取った味だ。美味いが、工夫がない。
ただ製法通りに作りましたという、優等生の味である。
荒々しいバーボンが懐かしくなる。

「あまり、お気に召さないようですね」と、K社長に見透かされた。
「いや、美味いです、美味いです!」と取り繕うように言ったが、おそらくお見通しだろう。

カティサークを飲みながら、世間話をした。
景気のこと、映画のこと、読書のこと、K社長の娘さんのこと。
そんな話をしているうちに、なぜか今年のゴールデンウィークにK社長の伊豆の別荘に行くことを約束させられていた。

なぜ、そういう流れになったのか、今でもはっきり覚えていない。
気が付いたら、そんな話になっていたのである。
それは、K社長の自然な話術に乗せられたとしか、言いようがない展開だった。

さすがに、成功する人間は違う。
人間としての重みを持たない私など、K社長にとっては、転がすのは簡単なことだろう。
それが、人間の器の違いというものである。

話が1時間を超えたので、そろそろ腰を上げようかと思ったとき、K社長が酔いで目尻を赤く染めながら言った。
「ボクは、若いころ突っ張っていましてねえ」

突っ張っていた? 突っ張り? 相撲? ドスコイ!
とりあえず頭の中でボケてみたが、もちろん、K社長が相撲をやっていたとは思わない。
突っ張り? ツッパリハイスクールロックンロール?
リーゼント?

「リーゼントだったんですか?」
「はい」
嬉しそうに頷くK社長。

そして、体を乗り出して右こぶしを握りながら、こう言う。
「高校時代は、毎日喧嘩ですよ。それに、高校2年の時は、当時付き合っていた年上の女の家から学校に通っていました」

唖然・・・・・・・・。

今のK社長からは、そんな過去は微塵もうかがえない。
想像できない。冗談としか思えない。
しかし、彼は、こんな冗談を言う人ではない。

だが、なぜ今そんな話を・・・・・?
酒の勢いか? どちらにしても、このまま腰を上げるわけには、いかなくなった。

「何でだったのか、未だにわからないんですが、当時はいつもイライラと、とんがっていましたね。目の合ったやつがすべて敵に見えて、いつも喧嘩を吹っ掛けていました。もちろん負けることもあったけど、負けるっていうのは一つの結果だから、結果が出れば満足だった。出席日数はいつもギリギリで、成績もひどいもんだった。退学にならなかったのが、不思議なくらいですよ」

警察の世話になったことはないが、高校3年間で自分の家に帰ったのは、ひと月もないだろうと言っていた。
知らない人の家に泊まることが、あたりまえの生活だった。
ただ、盗みや強請(ゆすり)などの犯罪と一線を画することだけは、いつも頭にあったと言う。
苛立ってはいたが、道を踏み外すことには、抵抗があったようである。

「中途半端なワルですよね。要するに、ワルを気取っていただけだ」
そう言うが、それは立派なワルである。「立派」というのは、常識的な、という意味だ。
踏み外さない方がいいに決まっている。ワルを気取っていただけだから、今の彼がある、という見方もできる。

なんか、うらやましい気が・・・。

私はもう一度唖然とした思いを抱きながら、K社長を見た。
どこにもトゲがないその風貌。穏和な眼差し。優雅なたたずまい。
彼の顔から、ツッパリ少年を想像することは、泉ピン子が「のだめ」の役をやるのと同じくらい違和感がある。
あるいは、南海キャンディーズのしずちゃんが、ハリー・ポッターの「ハーマイオニー」役をやるような感じか。

K社長は、柔らかな表情を崩さずに、私にカティサークを注いでくれた。
「Mさんは、どうだったんですか? どんな学生時代をおくりましたか? Mさんに、ツッパリは似合いませんよね」

(社長さん、あなたも似合わないですよ)

私は、中学1年から大学3年まで陸上の短距離をやっていたから、突っ張る暇がなかった。
ただ記録と向き合うだけの単調な9年間だった。
だから、私に武勇伝はない。喧嘩したら、怪我をする。怪我をしたら、試合に出られなくなる。

どこの学校にもワルはいる。私の通っていた学校にもいた。
しかし、彼らは私には絶対関わってこなかった。
私の場合、陸上競技の他に、水泳、バレーボール、テニスなどの助っ人として対外試合に出ることもあったので、私の機嫌を損ねたら、試合が成り立たなくなるという現実があった。
そんなことがあったから、いつも私は、もめ事からは無関係な場所にいたのである。

突っ張る必要がなかった。

そんな私の話を静かに聞いていたK社長は、笑みを崩さぬまま、ジローラモ顔で、両方の人差し指で私を指さしながら、こう言った。
「Mさん、それって、ものすごい自慢話ですよね」

ああ、確かに・・・・・。

自慢話を得意気にするようになったらお終いだ。
ウザったい。人間が、軽薄に見える。
といっても、私の場合生まれつき軽薄であるが・・・。

私も少し酔っていたのかもしれない。

失礼な行為だったが、「これ、いいですか?」とことわって、最後に4センチほど残ったカティサークのボトルを掴むと、それを一気にラッパ飲みした。

4センチだからたいしたことはないと思うかもしれないが、スコッチウィスキーのストレートを一気飲みしたのだ。
喉が熱くなり、痛くなる。
胃も灼ける。からだ全体に、瞬時にアルコールが回ってきて、呼吸が速くなる。

しかし、私はそれを我慢した。
まったく酔っていないように装った。
私の場合、それらのことが顔に出ないのである。
そういう訓練は長年してきたので、外見からはおそらくわからないはずだった。

しかし、K社長は、やはりお見通しだった。
嬉しそうに手を叩きながら、こう言った。

「Mさん、突っ張ってますねえ! 酒相手に見事に突っ張ってますねえ。Mさんも、ボクと同類じゃないですか」

ああ、確かに・・・・・。


★突っ張っている人は、CG「鹿女いをこわし」


2008/03/13 AM 07:11:13 | Comment(3) | TrackBack(0) | [日記]

真っ白な灰に・・・
自転車が、とうとうご臨終。

この6年間、かなり酷使してきた。
両輪のチューブは、1回ずつ交換した(自分で)。
前輪のタイヤを1回交換した(もちろん自分で)。

そしていま、両輪のチューブは、度重なるパンクで補修の跡だらけだ。
特に後輪は、見るも無惨な状態だ。チューブがあちこち凸凹していて、得体の知れない生き物を見ているような感じである。

後輪のチューブとタイヤを丸ごと変えれば、寿命は多少延びるだろうが、こんな延命策を施しても、自転車君のためになるかどうか。
このまま成仏させてやった方が、長年奉公してくれた自転車君に対する「優しさ」ではないか、と涙目で自転車を見つめた。

君はまだ走りたいのか、と聞いてみた。

自転車は答えてくれない。
答えられないほど、疲れ切ってしまったのかもしれない。

無言の自転車を見下ろしながら、大きな溜息をついた。
その時、「ああ、これはすごいですね」という声が、背後から聞こえた。
振り返ると、大きな目をした中年の男が、腕組みをして私の愛車を覗いていた。
同じ棟に住むNさんである。

そして、彼は容赦なくこう言うのだ。
「これ、もう使い物にならないでしょ。直すだけ無駄ですよ」

自分が長年愛用してきた自転車に対して、他人からそんな失礼なことを言われたら、誰でも怒るのではないだろうか。
私は眉をつり上げて、Nさんを睨んだ。

ふざけんなよ! おまえに何がわかるって言うんだ!
俺とこいつとの、長くて濃厚な付き合いを知らずに、軽々しく言うんじゃないよ!

もちろん、これは声に出して言ったわけではない。
目で語っただけである。
いわゆる目ヂカラというやつだ。

しかし、私には目ヂカラが無かったようだ。
私の険しい目線は、世界チャンピオンに向かって出された4回戦ボクサーのストレートのように、簡単にかわされた。

Nさんは、ボロ自転車を見つめ、何度も頷きながら、こう言うのである。
「いやあ、よくここまで使い切りましたね。自転車も本望じゃないですかね。ここまで使ってくれたら、満足ですよ。ウン、きっとそうですよ」

そうなんだろうか?
こいつは、本当に満足しているのだろうか?
矢吹丈は本当に・・・、いや、この自転車は本当に燃え尽きたと思ってくれているだろうか?
燃え尽きて、真っ白な灰に・・・?

ホセ・メンドーサは、あの後いったいどうなったのだろう・・・。

いけない、話が脱線してしまった。

丹下段平には、あのあと、あしたが待っていただろうか・・・。

いかん、また、脱線を。

マンモス西とノリちゃんは、幸せに暮らしているだろうか・・・。
力石徹は、今年何回忌を迎えるのだろうか・・・。
白木葉子は、また才能あるボクサーを見つけただろうか・・・。
ゴロマキ権藤は、ヤクザから足を洗ったか・・・。

段々とマニアックになってきた。話をもとに戻そう。
雑念を振り払おうと深呼吸をしていたとき、Nさんが信じられない提案をした。

「この間、自転車を買いましてね。古い自転車が1台余っているんですよ。2年も使っているんで、だいぶくたびれてますけど、いかがですか。使いませんか? いや、お古なんて失礼かな? 申し訳ない、勝手なこと言って」

いやいや、勝手ではございません!
お古、結構! まったく結構!
走るのなら、文句はございません!

「ああ、もちろん走りますよ。失礼ですが、こんな自転車よりは数段ましです」

(こんな自転車?)ムカッ!

一瞬、怒りが顔に出かけたが、無理矢理、怒りの頭を引っぱたいて抑えつけた。

「いただきます!よろしくお願いします!」
深く頭を下げた。

そして、Nさんが持ってきた自転車を見て驚いた。
少し汚れてはいるが、我が愛車と比べたら、新品同様と言ってもいいほどの状態だったのである。

「ホントにいただいていいんですか?」
「だって、もう乗らないですから」

世の中には、親切な人がいる。
リユースの心を持った人がいる。
使えるものは、使いたい人が使ってこそ、長持ちをする。
そして、それこそが環境を汚さない有意義な行為である。

地球の環境は、我々が守らなければならない。

ありがとうございます!
また、深くお辞儀をした。

「じゃあ、こんなもの、早く処分した方がいいですよ」
「ああ、そうですね。『こんなもの』、処分してしまいましょう」

そう言いながら、私は心の中で、自転車君に合掌した。

お疲れさまでした・・・・・。


★地球環境を守りたい人は、CG「ビルの屋上で愛を叫ぶ」


2008/03/11 AM 07:02:44 | Comment(3) | TrackBack(0) | [日記]

仕事が減った一流デザイナー
確定申告の季節。

友人の一流デザイナー・ニシダ君が言う。
「独立して、昨年はじめて収入が減りました」

7年前、私はニシダ君にMacの操作とデザインを教えた。
天性のセンスを持つニシダ君は、教えている最中に私を容赦なく追い越し、その1年後に彼は無謀にも独立したが、彼はまるで高速エレベータに乗ったかのように、デザイナーとして成功のステージを昇っていった。
今では、彼の顧客の8割が、一部上場企業という一流ぶりである。

右肩上がりの成長は、とどまるところを知らないと思われた。
しかし、それが停滞したのだと言う。
20パーセント弱の収入減。
これは、大事件だ。

そして、WEBデザイナーのタカダ。
「師匠、一昨年は57本、去年は43本ですよ。仕事、25パーセント減っちゃいました」

彼にも私は、Macの操作とWEBデザインを教えた。
そして、彼も独立し、私を簡単に追い越していった。
独立して5年足らずで、彼が手がけたホームページは、250本弱。
1人で、それだけのHPを作るのは、神業と言うしかない。
だから、彼も間違いなく「一流」だと言っていい。

仕事量は25パーセント減ったが、収入はかろうじて15パーセント減に抑えたという。
しかし、15パーセント減でも、大きな目減りである。
これも、大事件だ。

景気は、どうなっているのか。

昨年10-12月のGDPの速報値では、プラス成長だったらしい。
年率換算で、順調なプラス成長。

これは、本当なのか?
実態とかけ離れていないか?

知り合いに、大学院の修士課程(経済)を出た人がいる。
その人に言わせると、GDPは純然とした統計だから、同じ条件で値を出している限り、その数値にブレはないという。
だから、条件が間違っていなければ、その数値は正しいと言うのである。

「身近な人間がたった二人、収入が落ちたとしても、それで景気が悪くなったと判断するのは乱暴である。それに、彼らがそんなに実力があるのなら、営業に力を入れれば、今の倍の収入を得ることも可能ですよ。私は、彼らに優秀な営業マンを雇うことを提案する」

ケッ! 偉そうに・・・・・。

彼らは、優秀な営業マンがいなくても、今まで右肩上がりだった。
つまり、統計学上、まったく同じ条件で毎年仕事をこなしていたにもかかわらず、昨年だけ、仕事量が落ち込んだのである。

この場合、学問上の判断より、現実を優先すべきではないのか。
一昨年と同じクライアントを持ちながら、昨年は目に見えて数値を落とした。
それには、理由があるはずである。

フリーランスの場合、取引先の担当者が変わった場合は、突然仕事が来なくなる場合がある。
タカダは、担当者が退社した会社が1社あったと言うが、その会社からは、その後も仕事をもらっているという。
ニシダ君は、1社、課が丸ごと消滅したが、他の課から仕事を回してもらっているという。

つまり、大きな人事の変化はない。

目に見えて減ったのは、「飛び込み」の仕事だった。
今まで付き合いのなかったお客が仕事を出すことを「飛び込み」と言うのだが、それが、二人とも大きく減ったというのである。

この4年間、飛び込みの仕事は、増えもせず減りもせずの、丁度いいサイクルで入ってきたという。
しかし、昨年の夏前から極端に減ってきた、と二人して口を揃えて言っていた。
今年に入ってからの飛び込みは、ニシダ君は1件。タカダは、4件。去年の半分以下だという。

経済学上の統計では、プラス成長なのは、間違いないことなのだろう。
ただ、様々な業種のデザインを手がけているニシダ君の収入が停滞したことは、私にはGDPの数値よりも、現実味がある。
タカダも見境なく仕事を請ける男だから、彼の仕事量が減ったことにも、私は現実味を強く感じる。

統計学に基づいた数値は、嘘をつかない。
それは、本当だろう。
だが、何度も言うが、数値がプラスだったとしても、そのプラスは実態を伴ったプラスなのか。

企業の粉飾決算のように、あるいは、ひと頃の銀行の債務のつじつま合わせのように、数字をもてあそぶようなことはないのだろうか。
それに、根本的な条件そのものが、社会の実態とかけ離れていることはないのか。

修士課程を出た修士サマは、「それを言うなら、あなたの友だちが出したのも単なる数値ですよ。それも、たった二人の。そして、GDPの数値もただの数値です。しかし、これは確実なデータを基にしています。比べようがない問題です。もし、どちらを信じてどちらを信じないかという話にこだわるなら、それは学問ではなくて、信仰の分野です」と、頬をピクピク痙攣させながら言っていた。

屁理屈を言いやがって!
殴りたい・・・・・。

修士サマが、どう仰ろうとも、私は現実に二人の「一流」が、仕事を減らしたことを重視したい。
「どうしたんでしょうねえ・・・」という二人の戸惑いを重視したいのである。

そして、近所のドラッグストアのバーゲンで、昨年は69円で売っていたカップラーメンが、今年98円に値上がりしたことを重視したい(42%値上げ!)。
同じバーゲンで、800グラム198円で売っていたホットケーキミックスが、今年248円になっていることを重視したいのである(25%値上げ!)。
さらに、3個入り55円で売っていた納豆が、69円に(25%値上げ!)。
3個入り75円の肉まんが、98円に(30%値上げ!)。

そして、「日清どん兵衛」が・・・・・(しつこい?)。



★どん兵衛好きな人は、CG「洋上のピアニスト」


2008/03/09 AM 08:36:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

逆転満塁ホームラン
ボクシング、柔道などの格闘技、そして野球。
それらのスポーツと比べてサッカーが大きく違うのは、「大逆転」がないというところだろうか。

野球は、たとえ最終回に3点差で負けていたとしても、満塁でホームランを打てば、勝利を手にすることが出来る。
ボクシングは、判定で大きく負けていても、最終ラウンドに、たった1発のラッキーパンチで勝利を得ることが出来る。
フィギュアスケートや体操なども、得点上位の人が最期に大きなミスをすれば、下位の人が栄冠を手にすることが出来るスポーツである。

だが、テニスやサッカーには、そんな大逆転勝利がない。
積み重ねた得点を守りきれば、勝利は揺るがない。
ロスタイムの1点は、ただの1点にしか過ぎないから、同点や1点差でない限り、その得点で試合が大きく変わることはない。

そのどちらがいいと考えることには、何の意味もない。
スポーツは、そのスポーツに合った合理性でルールが決められている。
だから、どちらも理に叶っている。

では、人生は・・・?

人生に、大逆転はあるのか?
前置きが長くなりましたが、今回はそんなお話です。

7年近い付き合いの同業者がいる。
彼は、私が知り合う前は大変羽振りがよく、外車を乗り回し別荘まで持っていたという。
社員も6人抱えていて、実業家としてそれなりに成功を収めていたようである。

しかし、私が彼と知り合った頃は、従業員はすべて解雇し、仕事も売り上げが最盛期の10分の1まで落ち込んでいたときだった。
そして、この2、3年はずっと低空飛行で、消費税も滞納し、所有していた車2台を手放し、最後に残った自宅も手放そうかと思案していることを聞いたのが、昨年の12月のことだった。

それ以来、彼はどうなったのか。
気になってはいたが、他人の窮状を根ほり葉ほり聞くことができない私は、彼と連絡を取るのをためらっていた。

そんなTさんから、昨日弾むような声で電話がかかってきた。
「Mさん、ご心配をおかけしました。サヨナラ逆転満塁ホームランをかっ飛ばしましたぁ!」
ラーメン山岡屋」にいるというので、自転車を飛ばしてラーメン屋まで行った。

3か月前に会ったときは、目に生気がなく、無精髭のばし放題だったが、今は目尻がキリッと上がって髭もない顔は、ゾンビが人間に戻った感がある。

餃子を奢ってもらいながら、Tさんの「逆転満塁ホームラン」の話を聞いた。

Tさんは、覚悟を決めた。
重い借金を背負い、身動きがとれなくなった状態。
それを打破するには、もう自宅を売るしかない。

そこで、売りに出す前に、出来るだけ家を綺麗に整理して、少しでも査定を上げようとしたのだという。
築10年以上建っている家だから、少し綺麗にしたからと言って、それほど査定に影響はないはずである。
リフォームするか、更地にした方が、高く売れるかもしれないのだが、お金がかかるので、とりあえず「立つ鳥跡を濁さず」の心境で、昨年末から整理を始めたらしい。

庭に物置があった。
そこには、7年前に亡くなった彼の父親の遺品のいくつかが、仕舞われていた。
遺品にはほとんど触ることなく、ずっと物置に置いたままだった。

財産らしい財産はなく、相続すべきものは、ほとんどなかった。
だから、遺品はいつか捨てるつもりで、物置に置きっぱなしにしていた。
今回、まとめて捨てるつもりでいたが、捨てる前に一応中身だけは確認しておこうと、家族みんなで整理をした。

その時、Tさんの息子が、遠藤周作の本を見つけた。
それは、分厚いボール紙で作られたケースに入れてあったもので、かなり古いものだった。
「本の趣味などなかった親父がなぜ?」と思って中を覗くと、本は入っていなくて、厚い表紙のノートが入っていた。

ここから先の展開は、まるで出来の悪いドラマのようである。
そこには、彼には腹違いの姉がいるということが書かれていて、その人の消息が克明に記されていた。

この種の事実は、普通は親が死んだときに判明するものだが、彼の親が死んだときは、何ごともなかったという。
彼の父親は、この腹違いの姉を認知していなかったからである。
だから、彼にとってこれは「青天の霹靂」ということになる。

腹違いの姉の存在。
普通はどうだろうか。
まさか? まさか俺が、そんな出来の悪いドラマの主人公になるなんて!
そう思うのではないだろうか。

もちろん、Tさんもそう思った。
Tさんは半信半疑だったが、勇気を奮って、ノートに書かれた「腹違いの姉」の電話番号に、電話をかけてみた。

姉は、確かに存在していた。
独身だという。
独身だが、焼肉店を2店経営して、マンションも1棟所有しているという実業家。

話を聞いて、「嘘だろ」と思った、と言う。
それはそうだろう。
47年間生きてきて、突然「姉だ」という人の存在を知って、しかも、その姉が成功した実業家。
三流の脚本家だって、こんな物語は、気恥ずかしくて考えないだろう(考えたりして)。

私も、「嘘だろ」と思った。
それが普通の反応だ。

しかし、現実は、ドラマ以上の「逆転満塁ホームラン」を用意していた。
姉は、Tさんが唯一の血の繋がった人間だったから、Tさんの存在を絶えず気にかけていたという。

9回裏ツーアウト走者なし。
しかし、彼の息子がノートを見つけたことによって、走者が塁を埋める。
満塁である。

6歳年上の姉は、Tさんの窮状を知り、こう提案する。
「今度オープンする3軒目の焼肉店を、あなたにやってもらいたいんだけど。そうしてくれたら、あなたが背負った借金、肩代わりするわよ」

彼は、その申し出を即座に受け入れた。

彼は、自宅を売りに出さずに済んだ。
そして、焼肉店を手に入れた。

逆転満塁ホームランである。

彼は、「サヨナラ逆転満塁ホームランだな」と言う。
しかし、「サヨナラ」はおかしいだろう。

君の人生は、まだ終わっていない。
だからこれは、ただの「逆転満塁ホームラン」だ。
サヨナラを言うのは、まだ早い。

私がそう言うと、Tさんは「そうですね、ガハハハ」と大笑いをした。
口を見ると、以前は前歯が2本抜けてマヌケ顔だったが、今は綺麗な差し歯が入って、笑顔が輝いていた。

逆転満塁ホームランをかっ飛ばすと、精巧な差し歯も手に入れられるのだな。
羨ましい、ああ、うらやましい・・・・・。



★うらやましいときは、CG「放課後の校庭」


2008/03/07 AM 07:02:25 | Comment(6) | TrackBack(0) | [日記]

納得がいかない
他人の考えを認めない、あるいは縛る人間はどこにでもいる。
私は納得がいかないが、だからといって、誰もがそう思うかどうかはわからない。
色々な考え方がある。
感じ方は、人それぞれ。

今回は、そんなお話。

看板を作っている会社がある。
今まで、そこから4回仕事をいただいた。
だから、これは得意先に対する批判的なコメントになる。
それは、請負う側として、あるまじき行為である、と言われたら返す言葉がない。
しかし、それでも納得がいかないという思いは、抑えようがない。

その得意先の社員は、おそらく15名くらい。
その中に、聾唖者のかたがいる。
耳が聞こえないが、筆談で仕事をこなしている。
性格は、温厚で真面目な人だ。
私も右耳が聞こえないので、何となく親近感を持っていた。

そこの社長は、59歳。S社長としておこう。
人当たりはいいが、自分の意見は全部言わないと気がすまないタイプの人で、いつも話が長い。
彼は、どんな話でも自分のペースに持ち込んで、独自の解釈をする人だ。
そして、最後は人物批評になる。
批評する人物は、身近な人でもいいし、有名人でもいい。要するに、誰でもいいようだ。

ただ、人の面倒見はいいし、広い度量も持っている。
部下が、会社にとって致命的なミスをしたとしても、怒りはするが、仕事を取り上げたりすることはしない。
「ミスは誰でもするんだから」と言って、社長が部下を庇う場面を、私は一度見たことがある。

社員は、絶えず社長の顔色を窺っていて、社員全員が社長の前では萎縮しているように見えるが、それはどこの会社でも同じだから、特別この社長がワンマンで横暴だということにはならない。

S社長は、無趣味の人で、ゴルフやカラオケ、旅行など、人が興味を持つ諸々のことに対して批判的である。
「時間の無駄だよ」が口癖だ。

そんなS社長が、お得意先から観劇に誘われた。
断り切れずに、つき合わされたらしい。
その生まれて始めて観た舞台に、社長は、大変感動してしまったのである。

世の中には、こんなに素晴らしいものがあったのか!
演劇は素晴らしい!
この素晴らしいものを、うちの社員にも、ぜひ見せてやりたい!


そこで、社員全員を観劇に招待することにした。
たいへん優しい社長だと思う。
こんな社長は、なかなかいない。

ただ社員の中で、ひとりだけ疑問を持った人がいた。
「聾唖者が見て、その劇は面白いのだろうか? 手話通訳の人が舞台の袖で通訳してくれるのだろうか?」
独自に調べてみたが、手話通訳のシステムはないという。

では、聾唖者は、どうやって劇を理解するのだろうか。
演技が素晴らしければ、大まかな話は伝わるだろう。
役者の動きで、何となく展開は把握できるかもしれない。

それに、劇場の前の方で見れば、役者の口の動きや表情もある程度見られるだろうから、話はわかるかもしれない。
そこで、社長に席の位置を聞いてみた。

2階席の後ろの方だという。
さらに「効果音や音楽がいいんだよ。間に歌も入るんだ」とも言われた。

それでは、なおさら聾唖者にはつらいんじゃないだろうか。
「彼は連れて行かない方が?」
と社長にお伺いをたてたが、「俺は、そんなことで彼を差別するつもりはない!」と怒られたらしい。

そう宣言する社長は、素晴らしいと思う。
差別は、あってはならないものだ。
しかし、意見した社員の言うこともわかる。

聾唖者は、手話通訳なしで、本当に劇を楽しめるのか?
それは、差別とは、関係ないところの問題ではないのか。
筆談で、「劇、行きたいですか?」と聞いてみたら、「わからない」と答えたそうである。

社長にそれを言うと、「観たら絶対に感動するから! 観せなきゃわからないだろ! いいんだよ! ゴチャゴチャ言うな!」とまた怒られたらしい。

確かに社長の言うことにも、一理ある。
確かにそうなのだ。
観せてみなければわからない。
感動するかもしれないのだ。
それは、彼にとって、貴重な体験になるかもしれない。
だから、社長の考え方は正しい、と私は今も思っている。

ただ、ただ・・・である。
その後の社長の態度が、私は気にくわないのだ。
「うるせえよ! 文句があるなら、おまえは連れていかねえよ!」と言って、その社員を連れて行かなかったというのである。

社長が、みんなに劇を観せてやりたい、という気持ちはわかる。
自分の感動を彼らにも分けてあげたい。感動を共有したい。
しかし、意見を言う社員に対して、頭ごなしに「俺の言うことが聞けないやつは、連れて行かない」という態度は、いかがなものだろうか。

社長の素晴らしい行為は、文句を言う人の意見を封じ込めたことで、プラスマイナスで言えば、マイナスの方に作用したように、私には思える。

先日、打合せで訪問したとき、その話題が出た。
「劇は、本当に良かったよ。でも、なんかね・・・」という人が、何人かいた。
聾唖者に筆談で聞いてみたが、彼は何も言わずに笑うだけだった。

聾唖者がどう感じたのかは、わからない。
だが、彼が気まずい思いを感じたのは、確かだろう。
今でも、社長と意見した社員との間は、ギクシャクしているという。

もう少し、違う説得の仕方があったのではないか?
ひとの会社のことだが、そんなことを思ってしまった。

得意先の社長に対して、批判的なことを書く私はおかしいかもしれないが、書かずにはいられなかったので、書きました。

でも、そんなことを思っていても、私は社長に意見することができなかったのだから、情けない話である。
S社長に意見した社員は、尊敬に値する人だと思う。



★尊敬したいときは、CG「アンフェアなのは誰だ」


2008/03/05 AM 07:04:50 | Comment(6) | TrackBack(0) | [日記]

親の出番
友人のカネコからの電話。

「ショウコと酒飲んだらしいな」
私の友人は、挨拶もなしに話をいきなり始めるやつが多い。
それは何故か、と考えてみたら、私がそうだからだ。
私がそうだから、友人も必然的にそうなる。
だから、文句は言えない。

「ショウコが結婚した理由、おまえ、聞いたんだろ?」
先日、ショウコと大宮駅近くの居酒屋で酒を飲んだとき、話の流れでその話題が出た。
話題は出たが、たいした問題だとは思っていないので、人に話すほどのことではないと思っていた。

「おい、俺はショウコの父親だぞ。聞く権利はあるだろうが」
「じゃあ、自分で聞け」
「聞けると思うか」
小さなため息が混じった声。
父親というのも面倒臭いものである。

聞きたいが聞けない。
もちろん、世の中のほとんどの親は、簡単に聞いてしまうのだろうが、カネコや私は、それが聞けない人種なのである。

何故だろう?
真実を聞くのが怖いから、ではないと思う。
子どもの人格を100パーセント認めているからだと思う。

何か問題があったとしても、子どもはまず自分の中で問題を処理しようとするはずである。
初めから親を頼る子もいるが、そのときは親はすぐに受け入れるべきだ。
だが、親に踏み込んでほしくない問題を子どもは誰でも持っている。
そして、それを懸命に自分で(あるいは友人と)処理しようとしている。

未熟な中で、問題を処理しようとしている子どもに対して親が出来ることは、見守ることだけだ。
そして、誤った道を選ぼうとしているときは、普段子どもと濃密に接していたら、その危うさは、必ず何かの違和感を親のアンテナにもたらすはずである。

まったく非科学的な言い方になるが、「いつもと違うな」という感覚は、私の場合、全身の皮膚で感じる。
私には息子用のアンテナと娘用のアンテナがあって、そのアンテナが違う電波をキャッチしたら、アンテナから皮膚に、言いようのない不快な電流が流れるような感覚になる。

だが、それをキャッチしても「どうした?」とは聞かない。
ヨメは、胸元をえぐるような鋭いストレートを投げ込むが、私は放っておく。
子どもたちが、自分で言い出すのを待つ。

子どもに限らず、人間の感情は、自分でも理解しがたいものだ。
刑事の取り調べのように、証拠を並べ立てて、理詰めで問いただしても、自分の行動や感情を説明できないことの方が多い。

ただ、自分でそれを人に話すときは、すでにある程度問題を整理した後だから、たとえ、話が矛盾だらけだとしても、聞いている側は、問題の大小を判断することが出来る。
このときこそ、親の出番である。

親の役目はそこにある。あるいは、そこだけにある。
逆に言えば、その出番を逃したら、親の存在価値はない。
出番を逃した俳優には、二度とお呼びがかからない。
親が子どもから見放されるのは、肝心な出番の時に出てこないで、どうでもいいときに出てくる存在だと、子どもから思われたときだろう。

カネコは、ショウコを信じている。
ショウコもカネコを信頼している。
カネコは、ショウコにとって、まだまだ何度でもお呼びがかかる、売れっ子俳優と言っていい存在だ。

あせることはない。
無理に聞かなくても、二人の信頼は揺るがない。
私は、そう思っている。

「聞きたいが聞けない、そんな状態が一番楽しくていいんじゃないか」
「他人事だと思って、無責任なことを・・・」

なんだかんだ言っているが、カネコはショウコが18歳で結婚することを簡単に許した男である。
つまり、ショウコを信頼しているということだ。
それは、最大限に評価していい。

「ショウコがマサを初めて連れてきたとき、おまえはどう思ったんだ?」
「全身に鳥肌が立ったよ。ああ、この子はこいつと絶対結婚するんだなって全身で感じた。ショウコが言う前に『結婚するのか』って、俺が聞いちまったほどだ」

カネコの全身にも、良質のアンテナが仕込まれているようである。

「奥さんは、反対しなかったのか?」
「あいつは、笑ってたよ。笑いながら、ただ頷いていた」
「おまえより先に知っていたのか」
「いや」
「つまり、奥さんもショウコを信頼していた、ということだな」

短い沈黙の後、「ハハハ」という、こもったような笑い声が聞こえた。
そして、カネコにしては少し早口の軽い口調で言った。

「あいつの最初の結婚が、18歳の時だった。そして、あいつの母親も18歳で結婚しているんだ。だから、あいつはすぐ納得しちまったんだ。時代は繰り返すって。それにな・・・」
「それに?」

「いや、ここから先は秘密だ」
「なんだよ、それ! そこまで話しておいて」
「じゃあ、ショウコの結婚した理由を教えろ!」

「ヤダ!」
「じゃあ、俺もヤダ!」
「俺だってヤダ!」
「ぜったいヤダ!」


たとえ、父親がこんなバカだったとしても、子どもたちは無事成長する。
子どもというのは、たくましいものである。


★バカな父親には、CG「月夜の女」

2008/03/03 AM 07:01:37 | Comment(3) | TrackBack(0) | [日記]

お金持ち1丁目
毎度おなじみビンボー話。

お金がないのが当たり前の人生を生きていると、人の暮らしが、少しも羨ましくなくなってくる。

「先日、遺産が入ってきたんですけど、使い道に悩んでいるんですよ」

ほー、そうですか。

「家を増築したんで、ローンを組み替えたんですよ。75歳まで働かないと返せないから、せっせと働いてますよ、ハハハハハ・・・」

ああ、大変ですねえ。

「子どもが成人したんで、車をプレゼントしましたよ。いやあ、最近の子どもは贅沢になって」

それは、すごい! 羨ましいですね。

口では羨ましいと言っているが、内心はまったくそう思っていない。
まあ、日本経済の発展のために頑張って下さい、という程度にしか思わない。

お金というのは、それが流れる「通り」が存在する。
たとえば、「お金持ち1丁目」というように。

お金持ち1丁目に入るには、「お金持ち」と世間から認められるだけの収入が必要である。
その手段は、何でもいい。極端に言えば、汚い手段で得たものでもかまわない。
世の中は、金持ちに対しては寛大なのである。
つまり、お金持ち1丁目には、金以外の資格はいらない。品格など邪魔になるだけだ。

私が彼らを見て、いつも尊敬するのは、お金持ちになるために費やすエネルギーが、尋常ではないというところだろうか。
金持ちになるには、莫大なエネルギーを必要とする。
そのエネルギーを持っている人だけが、そこの住人になれる。

誰もが金持ちになりたいという願望は持っているが、そのエネルギーを持っている人は1パーセントにも満たない。
みんな願望をエネルギーに変える方法を知らないからである。

私もその一人だ。
さらに私の場合、「そんなエネルギーなんか、なくてもいいんじゃないの?」とさえ思っているから、絶対にお金持ち1丁目の住人にはなれないと思う。

先日、近所の武蔵野銀行に行こうと歩いていた時のことだった。
銀行の手前10メートルのところで、銀行から出てくる男の姿が見えた。

白のジャケットとカラーシャツ。お友だちにはなりたくないような空気を全身から放っている30代の男だった。
私の視線の先に男の両手がある。
左手に財布、ブレスレットをはめた右手に万札数十枚(!)

それは視線の先に何となく見えたもので、いつもいつも他人の財布や万札を好んで見つめているわけではない。
目の先にたまたま札があった。
これはホントです(ホントにホントですって!)。

男は急いでいるように見えた。
大またで足早に駐車場を横切って、自分の車(メルセデス!)の方に向かおうとしていた。
私の目に、右手に持った厚い万札を忙しない動作で財布にしまい、残りをズボンの左ポケットに入れようとしている男の一連の動作が目に入った。

繰り返し言うが、何も万札を好んで見つめていたわけではない(しつこい?)。

そのとき私は、男の一連の動作が破綻する場面に遭遇した。
万札が、男のポケットから、晩秋に小さな風で木から切り離される、ひとひらの葉っぱのような優雅さで落ちたのである。

万札がハラリと落ちる音が聞こえた(実際は聞こえていないが、イメージです)。
それが2枚あることを、普段は視力の衰えている私の目が、はっきりと捉えた。
目が悪いのに、何故そんなに鮮明に見えたのかは、定かではない。
眼科の権威に聞けば、その謎は解けるかもしれない。
あるいは、心理学者に聞いた方がいいだろうか。

私は、正直者である。
自分の金と他人の金の境界線を知っていることにかけては、世界一だと思っている。
自分の金でないものは、すべて他人の金である(当たり前)。

だから、その金を素早く拾うと、落とした人間に「落としましたよ」と言って、渡そうとしたのである。
しかし、その時相手は、どんな反応を示したと思いますか。

「はん?」と言ったあとで、人を険しい目で睨んで、万札を引ったくるように取ってポケットにしまい、無言で車(メルセデス!)に乗りやがったのですよ。

ふざけるなよ、この野郎!
世界一正直者で、宇宙一金に執着のない私だから、拾ってあげたのだ。
もし私が気付かなかったら、急いでいた彼は、確実にその2万円を、埼玉一金に汚い誰かに拾われていただろう。
そうしたら、その金が戻ってくる確率は、「サザエさん」の視聴率よりも低かったに違いない。

それなのに、感謝の言葉のひとこともなく、「はん?」ですよ。
無言でひと睨みして、車(メルセデス!)に乗りブッブッーですよ。

お金持ち1丁目の住人は、礼儀を知らない。
貧乏通り3丁目の人間を馬鹿にしている。

しかし、いつか彼が落ちぶれて、貧乏通り3丁目にやって来たら、私はあたたかく迎えてあげることだろう。
そして、こう言ってあげよう。

貧乏通りへ、ようこそ!



★貧乏な人もお金持ちも、CG「ビル街をさまようバルーン」


2008/03/01 AM 08:13:37 | Comment(4) | TrackBack(0) | [日記]



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