Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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筋肉神社
無駄話をいくつか。

最近、よく思い出す出来事がある。

6年前、得意先の25周年記念パーティに呼ばれて行ったときのことである。
その会社は、OA機器の販売やメンテナンスをしている会社だった。
社員百人近くを抱える、中堅の手堅い会社だ。

バブルの頃は、ビルの賃貸事業などにも手を広げていたが、バブルが去った後は、普通の形態に戻ったという。

25周年記念パーティは、ホテルの宴会場を借りて、盛大に行われた。
立食形式である。
私はパーティが苦手なので断りたかったが、付き合い上、断ると角が立ちそうなので、すぐに退出するつもりで出席した。

宴会場のまわりに花がたくさん飾られた華やかな中で、パーティは始まった。
司会者は、会社の人だったようだ。年齢は30歳前後か。
つまり素人だったが、滑舌が滑らかで、話の間の取り方もうまかったし、壇上に上がった人へのインタビューも、ユーモアを交えながらうまく盛り上げ、会場をリードしていた。

私は、それを見ながら「たいしたものだ」と感心した。
会場全体に気を配っている様子が窺えて、下手なプロより、ずっと様になっているな、と思った。
来賓がスピーチをしているときは、直立不動で聞き入っている姿も好感が持てた。

これは、いい司会者だと思った。

しかし、私は気付かなかったし、社員たちも気付かなかったのだが、司会者が2度、来賓の肩書きを間違えたらしい。
あまりにも見事にパーティが進行していたので、おそらく当事者以外誰も気付かなかったのではないかと思う。

最後の来賓のスピーチが終わったとき、「申し訳ありませんが、訂正がございます」と言って、司会者が謝罪の言葉を述べたときに、はじめて我々はそれに気付いた。

司会者は、訂正をして、丁寧に詫びた。
謝罪の言葉のあと、90度以上に腰を深く折って、長い間頭を下げていた。
誠意のこもった謝り方だと、私は思った。

しかし、そのとき、壇上の隅から突然社長が大またでやって来たのだ。
そして、「馬鹿者!」と叫んだとき、誰もが息を呑んだ。

社長は「馬鹿者!」と叫ぶと、司会者の頭を強く抑え、彼に無理矢理土下座をさせ、自分も土下座をしたのである。
間違えた人の肩書きは、メインバンクの人だったから、社長はそれを重大に受けとめたようである。

確かに、よりによってメインバンクの来賓の肩書きを間違えたのは、大きなミスだ。
来賓は、気分を悪くしただろう。
それは、想像できる。
それが重大な失態であることは、間違いがない。

しかし、彼は丁寧に訂正をし、謝ったのだ。
世の中には、謝って済むことと済まないことがある。
人の人生を取り返しがつかないほど狂わせたりした場合は、謝って済む問題ではないかもしれないが、この場合は謝って済むタイプのミスではなかっただろうか。

来賓が、怒って帰ったというわけではないのだ。

会場が、凍りついている。
全員が固まったままだ。
特別な来賓だけが一つのテーブルに固まって座っていたが、どの人がメインバンクの人かわからなかった。
その来賓のグループも、一様に凍りついていた。

司会者は、謝ったのに・・・。

肩書きを間違えたことが、パーティの空気を壊して土下座するほどの大問題なのか。
壇上で謝り、後でもう一度本人に謝れば済む話ではないだろうか。
大問題だと言われてしまえば、それは見解の相違というしかないが・・・。

想像するに、社長はメインバンクの人に対するポーズで土下座をしたのだろう。
企業のトップは、演出家であり、名優でなければならない。
土下座は、日本では、いまだに最高の誠意の表現だと受けとめられている。
だから、社長は土下座をした。

ただこの場合、観客が、肩書きを間違えられたメインバンクの重役だけだったのなら、その芝居は有効だろうが、ほかの観客には、それは過剰な演出としか見えないような気がする。

過剰な演出は、ときに見苦しい。

そして、私にはその光景は、異質なものとしか映らなかった。

それ以後のパーティは、司会者を変更して粛々と進行したが、私の心には納得しがたいものが残った。

誰にでもミスはある。失言もする。
ミスをするのが、人間である。
その社長だって、小さなミスや大きなミスを繰り返しながら、会社を大きくしたのではないだろうか(時には、知らぬ間に人の心を傷つけながら)。

人間は、いつの時代も、他人には厳しく容赦がないものだ。
インターネットの時代になって、その傾向は、激流のように増している。

でも、それも、ほどほどに、ほどほどに・・・・・。


無駄話ついでに、神社のお話。

私は、神社にお詣りに行ったことがない罰当たりな人間である。
文化財としての神社を見に行くことはあるが、拝むことはない。
だから、初詣にも行かない。絵馬破魔矢も買ったことがない。

日本には、色々な御利益がある神社が存在している。
それは、文化と歴史を感じさせていいと思う。

人は誰でも、色々な悩み事や願い事を持っている。
それが叶うことを願ったり、解決することを願ったりするための心の拠り所として、神社は人々の暮らしに長く根付いてきた。

神社は、御利益は謳(うた)うが、当然のことながら人の姿はしていない。
ただその土地に存在して、人々を受け入れているだけである。
神社は、望んだ人にだけ、おみくじを授けるが、それで人を惑わすようなことは言わない。

おみくじを見た人は、小さな喜びや小さな失望を感じただけで、神社を後にする。
そして、そのことはたいていの場合、すぐに忘れる。

スピリチュアルが、流行っている(いた?)。

もちろん、神社と同一に語るべきものではないと思う。
精神世界の起源が違うのだから、この考え方が乱暴なのは自覚している。

だが、人々が縋りつきたくなる対象という点では、同じなのではないか、と私は思っている。

テレビに出てくる方たちは、素晴らしい能力を持っているように思える(見たことはないので、噂だけですが)。
それが実際のものなのか、演出なのか、それとも某教授が言うように、事前調査によるものであるかは、ご本人にしかわからない。

検証は出来るだろうが、かたちのないものを「ある」と言っている人と、まともに議論しても、元々一般人には見えないのだから、「ある」方に、冷笑されるに決まっている。

何かを信じている人ほど、強いものはないのです。

だから私は、あの方たちは、人間のかたちをした神社だと思うことにしている。
時に「毒のあるおみくじ」をばらまくときもあるが、有り難がる人がいるのだから、仕方がない。
たとえ今、あの方たちがテレビの世界から姿を消しても、有り難がる人がいる限り、新しい「あの方たち」が、これからも出てくるはずである。

神社もまた、大連立などはしないだろうから、これからも少しずつ増え続けていくことだろう。

ただ大きく違うところがあるとすれば、神社には文化の香りがするが、あの方たちには、ないというところだろうか。


野球選手の体格に関しての無駄話。

アメリカではドーピングが大問題になっているが、アメリカに限らず、日本の野球選手も、近年キン肉マンが増えたような気がする。

トレーニング機器が進歩したり、食に対する意識が変わったり、練習方法が科学的になったりと、選手を取り巻く環境が変わってきた。
だから、キン肉マンが増えた。

だが、体を強くするはずの筋肉増強だが、故障も以前より増えているように私には思える。
パワーさえあれば何でもいい、というメジャーリーグと、それを真似する日本野球。

足が遅くても、肩が弱くても、守備がアマチュア並みでも、とにかくパワーさえあれば高給がもらえるというプロの世界。

ドーピング選手が蔓延するのも、当然という気がする。
筋肉は鍛えたが、膝や肘、、関節などは鍛えていないから、すぐに故障する。
そして、手術する。
スポーツ(整形)外科の技術が飛躍的に進歩したから、選手の寿命は延びる。

年を取っても、パワーだけはあるというアンバランスさ。
筋肉増強した野球選手がダイヤモンドを走る姿は、まるでダイエット途中の相撲取りが、走っているかのようだ。

筋肉、筋肉、筋肉、キンニク、きんにく・・・・・。
筋肉信仰の野球選手に、筋肉神社でも作ってあげたらいいかもしれない。

意外と、これは流行るかもしれませんね。
となると、神主は、なかやまきんに君


★筋肉がほしかったら、今日のCGパース・・・。


2008/02/20 AM 07:07:31 | Comment(2) | TrackBack(0) | [日記]



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