Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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卒業(心に刺さったトゲ)
場所は八王子。
京王八王子駅から歩いて10分くらいだ。
地方裁判所が近くにある。
大きな通りに面しているので、わかりやすかった。

エントランスは、オートロックではなかったので、入口からそのまま階段を上って3階まで行った。
インターホンを押そうとしたら、少し指が震えた。
笑うしかない。

何を緊張しているのか、と思う。
娘に会うようなものじゃないか。
そう心に言い聞かせたが、指の震えはおさまらなかった。

押した。
すぐに、「ハイ」という声が返ってきた。
「おれ」
「はーい」という弾むような声。そして、懐かしい声。

ドアが開いた。
2年ぶりに見るショウコの顔は、大学生の顔だった。
生活感が染み込んでいない顔。
そこには、当たり前のように19歳になった、私の知っているショウコがいた。
指の震えがおさまった。

「サトルさん、老けたね。髪薄くなったね」
「いきなり、ダブルパンチだな」
「ねえ、2年前も、その靴はいてなかった?」
ショウコが、私がぬいだ靴を指さして、手を叩きながら笑った。
「靴下もかなりくたびれているんじゃない? 進歩ないなあ」と言って、私の肩を叩いた。
そして、「でも」と言いながら、私を見上げた。

「安心したよ。そんなに変わってなくて」
「おい、それは普通、俺のセリフだろうが」
ショウコがまた手を叩きながら、笑った。
「ざまあみろ」と言いながら、舌を出している。
鼻の両側に散ったソバカスが、初めて会った6歳の頃のショウコを思い出させた。
今度は、指ではなく、心が震えた。
6歳のショウコが、成長して19歳になった。
しかし、ショウコはやはりショウコのままだった。
それが、嬉しかったのだ。

「どうぞ」
短い廊下の突き当たって左がリビングだった。
8畳くらいだろうか。家具が少ないので、広く感じる。
真ん中にベージュのダイニングセットがおかれている。
テーブルの上に、TAKANOの「クリスタルデュオ」を置いた。

「ありがとう。サトルさんのことだから、一番最初に目に入ってきたものをサッと買ったんでしょ。『いちいち選ぶの面倒くせえ』とか思って」
「面倒くせえ」

ショウコは相変わらず、いい勘をしている。
本当にそうなのだ。
お土産で悩むのは時間の無駄だと思っている。
だから、店に入って、一番最初に目にしたものを買ったのだ。

相手の好みなどは考えない。
土産物というのは、中味はどうでもいいと私は思っている。
どこで買ったか、で誠意が伝わるものである。
今回はTAKANOで買ったというのが、私の精一杯の誠意である。

椅子に座って、ショウコがコーヒーを淹れるのを待った。
私は、室内を見回すことはしない。
家具などを見て、生活ぶりを想像することはできるだろうが、それは独りよがりの推測である。
家具を見ただけで、その人の真実など見えはしない。
たとえ見えたとしても、それは錯覚である。
無駄なことはしたくないので、窓の外の空を見た。

何も考えられない時間というものがある。
空を見ている。そして、空を認識しているのだが、見ているだけで、脳細胞がまったく活動していない凪(なぎ)の時間。
自分の存在さえ、実体を感じなくなる、精神の無風状態。
空しか見ていないのだが、自分が何かに同化していくという、冴えきった無の時間。

陸上の短距離のレース前に、一度だけこんな心境になったことがある。
2百メートルのレースで、まわりが何も見えなかった。テープさえも見えなかった。
自分がゴールしたのかも、わからず、気が付いたら、競技場の壁が目の前に迫っていた。
ゴールを遥かに過ぎて、壁にぶつかる寸前だったのだ。
その時の感覚に似ている。

「サトルさん、コーヒー置きましたよ、サトルさん」
気が付いたら、目の前30センチのところに、ショウコの顔があった。
長い睫毛。スッピン。艶のある漆黒の髪。指が伸びてきて、鼻の先を弾かれた。

「いてっ」
「目を開けて寝てちゃ駄目ですねえ。仕事、そんなに忙しいの?」

「よく考えたら、今日は人妻と二人きりだ。こんなの俺の人生で初めてだ、って思ったら緊張しちゃってね」
また、鼻の先を弾かれた。
ここちよい痛み。

「サトルさん、顔がやらしいよ」
「男は、人妻と二人きりのときは、みんなこんな顔になるんだよ」
「サトルさん。私ね、いま護身術習ってるんだ。実験台にしてやろうか」
「実験台は、キミの親父にしなさい。あいつなら、喜んで殴られるだろう」
「パパはもう、何度も投げ飛ばしてるから、飽きた」

ショウコの親父カネコとは、3年以上会っていない。
会っても特別話すことはない。
ただ、元気でいればいい。
同じ時間を共有した仲間は、ただ元気でいてくれればいい。

「パパ、デブになったけど、サトルさんは、変わらないねえ。相変わらず『食べるの面倒くせえ』って言ってるの?」
「面倒くせえ」

「でも、今日は食べていってよ。旦那、一緒の食事、楽しみにしてるんだから」
ショウコの口から「旦那」という言葉を聞くのは、抵抗があるかと思ったが、意外とすんなりと聞けた。

「旦那のことはなんて呼んでるんだ」
「マサ」
「まるで、犬みたいだな」

「ああ、その犬が帰ってきたみたいよ」
確かに、ピンポンという音がした。
ショウコが立った姿を見て、エプロンをしていたのに、いま初めて気づいた。
薄いブルーの無地のエプロンである。

奥さん、か。
小さなトゲが、心の隙間に刺さったような気がしたが、無視することにした。
立ち上がった。

リビングに入ってきたショウコの夫は、私の顔を見るなり、「お会いしたかったんですよ」とよく通る声で言って、ゆっくりと頭を下げた。
背は私より少し低いが、身体は明らかに私より頑丈そうである。
しかし、何といっても、彼の身体の中で一番真っ先に飛び込んでくるのは、その優しい目である。

笑っていなくても、目に優しい光がある。
英語の教師とのことだが、教師というより、伝道師という感じに近い。
「先輩、と呼ばせていただいて、いいですか」
さりげなく私に座るように促して、ショウコの夫は、私の正面に座った。

私が彼の先輩であるのは間違いない。同じ大学なのだ。
だから、それを拒む理由はない。
私が頷くと、「ショウコ、先輩にビール差し上げてないのか」と言いながら、自分で冷蔵庫からビールを持ってきた。
グラスはひとつである。

私が不思議な顔をすると、「マサは、飲めないんだよ」とショウコが私のコップにビールを注ぎながら言った。
「すみません、先輩。お付き合いできなくて」

「俺は、君のことは、なんて呼べばいいんだろう」
「マサ、でお願いします」
このひとことで、私はこの男を気に入ってしまったのである。
自分でも、なぜだかは、わからない。
マサが持つ、人間としての心地よさに、安心したのかもしれない。

もし私がショウコの父親だったとしたら、こんなにすぐ、娘の相手を気に入るものだろうか。
カネコはどうだったのだろう。
カネコとショウコは血の繋がりはないが、彼らは親子である。
誰よりも親子らしい親子である。

ショウコが結婚したとき、カネコの心にも、小さなトゲは刺さったのだろうか。
そして、彼も私と同じように、その痛みを無視することにしたのだろうか。
それとも、そのトゲはあまりに大きすぎて、抜くのを諦めてしまったのか。

私の正面にマサがいる。
そして、ショウコが彼の隣に座っている。
その現実は、私にとって、受け入れがたいものではなかった。
二人ともいい顔をしていたと思う。
陳腐な言い方をすれば、幸せというものを、身体全体で表現している二人だった。

「サトルさん、カルパッチョ、全部平らげてよ。これ、サトルさんに教えてもらったんだからね。責任あるんだからね」
「ビールまだ1本しか飲んでないじゃん。どうした、サトル! 老け込むのは早いぞ」
「サトルさん、またテニスやろうよ。マサは下手くそで、全然相手にならないからさ。やっぱり、サトルさんとやりたいよ」

ショウコの生きた言葉が、私の心に染み込んでいく。
私は、段々と無口になっていく自分を持てあましながら、ビールを飲み続けた。
マサは、そんな私たちを、目を細めながら見ていた。

車で送るというマサの申し出を断って、私は駅までの道をショウコと二人で歩いた。
無言だった。
私の心の隙間に、まだトゲは突き刺さっているのだろうか。

我が家へと帰る人の流れに逆らいながら、私たちは下を向きながら駅への道を歩いていた。
駅が見えるところまで来たとき、ショウコがぽつりと言った。
「パパがね」
ショウコに似合わない沈んだ声だった。
「お前はもう、俺から卒業したんだな、って言うんだよね」

卒業、か。
そう言えば、以前見た夢で、カネコは「卒業写真」を泣きながら歌っていた。
あれは、カネコの心情が私の夢の中に入り込んできたものなのか。

「でも、私はパパから絶対に卒業してやんないから、って言ったんだ」
「カネコは、泣いたんじゃないか?」
「泣いた」

また、沈黙があった。
前よりももっと遅い歩みで、私たちは歩いていた。
ショウコが突然、立ちどまった

「サトルさん、また、来てよね」
ショウコの目は、私を見ているようで、見ていないようだった。
そして、唇を噛むようにして、言った。

「私は、サトルさんからも、絶対に卒業しないから」
ショウコが、どういう表情をしているか、わからなかった。
ショウコの姿がにじんでいた。
駅前の景色もにじんでいた。

「ああ、絶対に、来る」
そう言うのが、精一杯だった。
私は、にじんだショウコの左肩を、右手で軽く掴んでから、ショウコに背を向けた。

「はい、待ってます」

私の背に投げかけたショウコの言葉が、心の内側を震わすように響いた。

京王線の車内で、ショウコの「卒業しないから」という言葉が、私の心の四隅を駆けめぐっていた。
にじむ視界の中で、私は心に刺さったトゲが消えていくのを感じていた。



2007/03/31 AM 08:03:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]



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