Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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選挙に出る資格
口内炎ができた。
舌の裏である。

その痛みは、強烈だ。
私は、口内炎ができづらい体質らしく、今まで小さいものしかできたことがない。
できても2日程度で直ってしまうから、私の人生で口内炎を意識したことは、ほとんどなかった。

だが、今回は意識せざるを得ないほど、痛い。
舌の裏を鏡で覗くと、腫れはそれほどでもないが、白く化膿し、まわりが赤黒くなっている。
口を動かすたびに、憂鬱な痛さが口いっぱいに広がる。

何を食っても、何を飲んでも、しみる。
時に涙がジワーッと出るくらい痛いときがある。
たまに脳天に痛みが突き刺さる。

だから、食事をするのが嫌になる。
家族がいないときは、メシをぬく。
食べるのは、夕食だけ。

しかし、痛い、つらい、という言葉を人に言うのが嫌という、おかしな性格の私は、家族の前でも弱みは見せない。
平気な顔で飯を食っているが、心の中は号泣である。

憂鬱だ。

仕事をしているときは、ほとんど支障がないが、打ち合わせの時は困る。
舌が痛いと、言葉がうまく発せられないことがある。
発音が少しおかしくなる。
特に「ラ行」が。

まるで、酔っぱらったような話し方になるので、「オイ! オイ!」というような顔をされることがある。
断じて言うが、私は打ち合わせ前に酒を飲んだことは今までに一度もない!

いや、2、3回はあるかもしれない。
6、7回だった可能性もある……。
舌の痛みで、記憶が薄れているので、定かではない。

昨日の朝、2年ぶりにワタナベ氏の会社に行った。
ワタナベ氏は、霊園をプロデュースする会社を一人でやっている。
彼の会社では、2年に1回パンフレットを新しくするので、ワタナベ氏との付き合いは2年に1度である。

ワタナベ氏と話し始めて、数秒して彼に言われた。
「Mさん、口内炎でしょ。あれ、痛いよねぇ」

驚いた。
少し話しただけで、彼は私が口内炎であることを見抜いたのである。
おそろしい観察力であり、洞察力である。

ワタナベ氏は、元区議会議員だった。
しかし、1期だけでやめた。
自分の母親と夫人の母親が寝たきりになったので、看病のため、2期目の立候補を断念したのである。
やめて8年になるはずだ。

ワタナベ氏は、気配りの人である。
腰が低い。
そして、曖昧(あいまい)なことを絶対に言わない。
彼は、自分の言葉に責任を持つという、凡人が出来ないことを、必ず実践する男である。
歯切れのいい話し方は、耳に心地よく響いて、時に聞き惚れるほどだ。

「俺も、この間、口内炎になってね。泣きたくなるくらいつらかったですよ。でも、いいのを見つけたんだ。Mさん、知ってる? 口内炎用のパッチ」
引き出しを開けて、それを私に見せてくれた。

「これ、いいよ。やってみなさいよ。口内炎をガードしてくれるから、しみないですよ」
ワタナベ氏は、私に手鏡を渡して、「俺、ションベン行って来ますから、その間に使ってみて」と席を立った。

誰でも、口を開けた無様な姿をひとに見られたくはない。だから、席を外してくれたのである。
説明書に従って、口内をきれいにしてから、パッチを手に取った。
初めてなので、恐る恐るという感じだった。
口内炎に触るとき、ズンという痛みが一回走って、涙がにじんだ。
「イテテ」と言いながら、鏡で場所を確認しながら、パッチを貼った。

剥がれないかどうか、何度も確認している頃、ワタナベ氏が帰ってきた。
「どう?」
ワタナベ氏は、たしか45、6歳。
はじめて出会った頃より、確実に白髪が増えて、体型も横に広がったが、ひとの心に染み込むような笑顔は変わらない。

「いいですね。指で押しても、それほど痛くないですよ。これはいい」
「じゃあ、これ全部あげますよ」とワタナベ氏は、パッチの入った箱を私の方に押し寄せた。

いやいや、それは申し訳ないので……。
いや、いいから、いいから……。


という儀式をするのが嫌いなタチなので、素直にもらった。

何となく、という感じで、統一地方選の話題を出してみた。
彼に、もう一度出る気はないか、聞いてみたかったのだ。
普段は、そんなお節介で無粋なことは聞かない主義なのだが、口内炎の痛みが和らいだ嬉しさから、つい聞いてしまった。

すると、「Mさん、俺……」
ワタナベ氏にしては珍しく、中途半端な笑みを浮かべた。
何か言おうとするが、何から話していいかわからないという、そんな歯切れの悪さ。
私など、そんなことはしょっちゅうだが、ワタナベ氏のそんな姿を見るのは初めてである。

ワタナベ氏は、両手で自分の膝を何度も小さく叩いた。
そして、コーヒーカップを手にとって、飲もうとしたが、中身がないことに気が付いて、照れ笑いを浮かべ、カップをテーブルに置いた。

力のない笑いは、彼の年を4、5歳老けさせたように見えた。
ワタナベ氏が、横を向いた。
彼の視線の先をたどると、サイドボードの上にフォトスタンドがあることに私は気付いた。

その写真に映っているのは、おそらく彼の母親だろう。
灰色のスーツに身を包んで、優しく微笑んでいる60年配の女性。
心に染み込むような笑顔は、ワタナベ氏と同じものだった。

「俺、オッカァが寝たきりになって、それからすぐに惚けたとき、『早く死んでくれないか』って、何度も思ったんだよ」
ワタナベ氏は、横を向いて、写真を見つめながら、細く乾いた声で言った。
その声を耳にしたとき、まるで違う生き物の口から発せられた音のように、私には聞こえた。
首筋を見ると、首の根元が小さく痙攣しているように見えた。

「あんなに好きだったオッカァなのに。俺が当選したとき、あんなに喜んでくれたオッカァなのに。惚けて俺のことがわからなくなったオッカァを見て、俺は…『死んだ方が』って……、だから…」
ワタナベ氏は、首を機械仕掛けの人形のようにぎこちなく戻して、私の目をうかがい見て言った。

「資格がないんだ」

私は、聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。
口内炎の痛みよりも遥かに重い痛みが、心を突き刺す。
これ以上、この話を続けることはできない。
どんな言葉を私が返したとしても、意味はない。
私は、大きく一度頭を下げた。

時間にしてどれくらいだったろうか。
おそらく、一分くらい、私たちは黙っていた。
私にとっては、長い時間だった。

しかし、その一分で、ワタナベ氏はいつもの自分を取り戻した。
彼は、いつものように私の心に染み込むような笑顔を浮かべて、こう言ったのである。

「口内炎、早く直るといいですね。Mさんは、やせ我慢をするからなぁ。心配ですよ」

今回の選挙には、「資格のない」やつが、たくさん出るだろう。
そして、たくさん当選することだろう。

自分に資格がないと決めつけるワタナベ氏は、本当に「資格がない」のか。
図々しさの一片もないワタナベ氏を見ていると、彼は純粋すぎるように思える。
そういった意味では、確かに彼は資格がないのかもしれない。

先頃の「光熱水費計上問題」などを見ると、ワタナベ氏の純粋さは、政(まつりごと)には向いていても、政治家には向いていないのではないか、と思ってしまうのである。



2007/03/09 PM 03:23:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]



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