Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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頑張らなくたっていいのに
子どものマラソン大会が、ふたつ。

先月は小学校でマラソン大会があり、今週は息子の通う高校であった。
小学校は1キロ強。高校は9キロ。
私にとって、学校行事のなかで意味のわからない一番のものが、この「マラソン大会」である。

長距離は走りたい者だけが走ればいい。
体調の悪い子は自己申告をする、というのは建前に過ぎず、学校や親の「頑張れ」ムードのなかで、どれだけの子が本心を言えるだろうか。
学校行事だからということで、走りたくない者に強制を暗示するのは、教育としていかがなものか。
小学校の会合などでは、私ひとりだけが反対論を唱えて、ほとんど変人扱いされている。

大半の親の意見として、
「子どもの頑張っている姿を見たい。
運動会と同じく恒例の行事だから、続けるべきだ。
完走することで、子どもたちに達成感を味わわせてやりたい。
冬に向かって体力が付くからいいことである。
自由参加にすると、走らない子は虐められたり、からかわれたりする。」


父兄の間では、私だけがいつも反対の立場なので、「Mさんはスポーツが苦手なんだ」という悪意を含んだ噂が広まっている。

自慢ではないが…、という前フリがつく場合は、大抵自慢話である。
私は、中学一年から大学三年まで陸上部で短距離の選手だった。
百メートル、二百メートル、走り幅跳びを専門にしていた。
全盛期では、百メートルを十秒代後半で走ったから、そこそこのアスリートだった(明らかに自慢!)。

膝と腰を痛めた二十代後半からは有酸素運動に少しずつ移行して、今では5キロから25キロの距離を走っている。
だから、走るのは好きである。
そして、他の人よりも走ることに関しての知識は深い(さらに自慢!)。

その私が言う。
高々、一回のマラソンを走ったからといって、体力は付かない。
そのために懸命に練習をしたとしても、行事が終わって走らなくなればすぐ元に戻る。
達成感もその場限りである。
意味がない。

みんなが同じ距離を走ったからといって、平等とは言えない。
みんなで同じことをしたからといって、友情は生まれない。

陸上に限らず、スポーツは種目に分かれているものが多い。
陸上の場合は、短距離、長距離、投擲(とうてき)、ジャンプ、障害物などがある。
誰もその全部をやろうとは思わないだろう。大抵は自分の得意な種目だけをやる。
短距離の選手、長距離の選手、ハンマー投げの選手などを一緒くたにして、全員でマラソンをしましょう、などという乱暴なことはしない。

水泳の選手を集めて、「さあ、皆さん、一万メートルを全員で泳ぎましょう」などとは言わない。
いくら「無差別級」があるからといって、40キロの人と150キロの人が柔道の試合をしているのを私は見たことがない。
リトルリーグとメジャーリーグの試合も見たことがない。

みんな得意分野が違うからだ。
なぜ、学校もそういう考え方ができないのだろうか。
学校の授業だけはそれが許されるという根拠は、いったい何なのだろう。
生徒の個性を認めると、教師の仕事が煩雑になるから、か。

私は、体育の授業のときも、自分が短距離を走るにあたって無駄になることはやらなかった。
千五百メートル走など私には必要ないから、最初と最後だけ全力で走って、途中は歩いた。
教師の側から見れば、「和を乱すやつ」だったが、これは私としてはどうしても譲れない一線だった。
走る、ということを、学校はなぜこんなにも安易に考えてしまうのか。走る、ということは簡単にプログラム化できるものではないはずだ。

いま、マラソン大会は、行事のための行事になっている。
教師は、管理がしやすいから、皆を同じスタート地点に立たせたがる。
体育大出身の体育教師は、オレができたんだからコイツもできる、コイツができたんだからアイツもできる、だから「できないやつはやる気がない」という思い込みでスポーツをやらせているように思える。
他人と同じことができないと「やる気がない」生徒に見られる。しかし、それは教師や親の思い込みであり思い上がりである。

教師も親も自分は頑張らないくせに、ひとには頑張りを強要する。
「がんばってー!」
「もっと、頑張れ!」
「手を抜くなー!」


先日のマラソン大会でも、「無理すんなよ。力抜け」などと言っている父兄は私だけである。
言われた児童は、キョトンとしてこちらの顔をマジマジと見る。
「何言ってんだ。このオッサン」という顔をする子もいる。
しかし、それでも私は「頑張れ」とは絶対に言わない。

息子の通う高校では、マラソンを完走しないと体育の単位を取れないという。
愚かしいことである。
教師は、監獄の看守ではない。
それなのに、なぜ生徒を檻に入れたがるのだろうか。確かに皆に同じことをさせておけば優劣がわかりやすいし、管理がしやすい。
しかし、それは教師側の都合に過ぎない。

誰も個人を尊重しようとしない。
みんなが頑張っているんだから、という根拠のない押し付け。
頑張っているように見えない子は、やる気がないという決め付け。

高校野球でもそうだ。
誰も彼の肩を壊す権利はないのに、連戦連投の投手に「頑張れ」と言う。

箱根駅伝でも同じ。
関東の大学しか出ないローカルな大会に過ぎないのに、まるでそれが頂上決戦であるかのようにマスコミが煽りたて、「頑張れ」の連呼。
結果、箱根駅伝をピークにして伸び悩んだ選手が何人いたことか。

懸命に練習を積んで選ばれたアスリートたちに、「頑張れ」などと言うのは、応援とは言わない。
彼らは充分に頑張ってきたから、その場所にいるのだ。
そして、子どもに安易に「頑張れ」などというのも、応援ではない。
アスリートや子どもたちを檻に入れて、檻の外からものを言うことはやめろ、と言いたい。

頑張ったかどうかは、他人が決めることではない。
政治家や出世欲の強い人などは、自分から「頑張っています」と見せつける人種ではあるが、それは例外だと思いたい。

極端なことを言うなら、ひとは他人に頑張っているように見られるために何かをするわけではない。
少なくとも、私はずっとそうだった。

だから、
「チカラ、抜けよ」
私は、自分の子どもたちには、いつもそう言っている。

その結果、二人とも随分とユルいキャラになってしまったが……。



2006/12/10 AM 10:05:20 | Comment(8) | TrackBack(0) | [子育て]



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