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● ひとはヤドカリ |
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誰にでも苦手な人はいる。 私が唯一苦手とする、Sデザインのスドウさんから電話がかかってきた。
スドウ氏は中堅デザイン事務所の社長だったが、半年前に息子に社長の座を譲ると宣言した。 半年前、呼ばれたので行ってみたが、親父そっくりの息子から「あんたに仕事を出すつもりはない」と失礼なことを言われた。
もうすでに忘れていたことだったが、電話でスドウ氏の声を聞いて、その時の屈辱感がよみがえってきた。 スドウ氏の声を聞いた途端、自分の顔が少し歪んだような気がしたが、首を一回ポキッと鳴らすと、すぐに落ち着いた。
「Mさんかね」 いつものことだが、いかにも大物ぶった物言いが、少々気に障る。 隠居したはずなのに、いったい何の用だ。仕事の話でないことは確かだ。 スドウ氏が、暇つぶしに電話してくるとも思えない。 今まで、親しく話をしたことは一度もない。 向こうが一方的に喋って、独演会を開くだけである。 スドウ氏はいつだって、こちらの言うことなど、聞く耳持たない。
窓の向こうの青空を見ながら、私はずっと黙っていた。 私は半年前の私ではない。 今の私は、自分でも不思議に思うのだが、投げやりである。
長年、私にストレスを与え続けてきた姉に対しても、平気で無視を決め込むことができる。 「お前の相手なんかしてやるか!」と思えるようになった。 以前は、姉の奇行に関して怖れて逃げ腰だったが、今はそんなことはない。 むしろ、「俺に頼るな!」とキッパリと言えるようになった。 私の中で、何かが変わった。 切っ掛けは、つい最近の「プチ家出」だが、これで吹っ切れたようだ。
「もしもし」と言われたが、まだ黙っていた。 「Mさんのお宅だよね。もしもし、もしもし」 少しうろたえているようだ。 スドウ氏の初めて聞く、うろたえた声。
こちらの勝ちである。 勝負事は、先にうろたえた方が負けだ。
「はい、Mです」 私が答えると、スドウ氏は「ああ、忙しかったの……、かな」と、大物気取りの声を出したが、もう遅い。 電話の声というのは、時に人間の感情が生で響く。 慌てて繕っても、本質が見えてしまったら、怖れることはない。
「仕事の話ですか」 冷めた声で答える。 「まあ、そういうことになるかな。先ずは、見積もりだが」 ことさらに低い声で威厳を保とうとしているのが見え見えで、笑いたくなる。
「社長の座は、息子さんに譲って、隠居なさったんじゃないんですか」 我ながら、よくこれほど突っ放した言い方ができるものだと感心した。
「いや、確かに息子に譲ったが、これが頼りなくてね。この間なんかも……」 スドウ氏は、自分の話に酔うタイプだ。 自分の話をすべて相手に聞かすまで、話をやめない。 こちらが話の腰を折っても、お構いなし。エンディングまで一気に突っ走る人だ。
これを電話でやられたら、たまらない。 以前の私なら聞いてやったが、今はそんな無駄なことは願い下げだ。 だから、彼の話にかぶせて、こう言った。 「息子さんへの愚痴は、今回の仕事の話と関係ありますか。あるのなら伺いますが、もしないのなら、切らせてもらいますよ」
スドウ氏が、一瞬言葉に詰まった。 以前の私と違うことに気づいたのだろう。 「いや、だから、息子がさ、まったく…、役に立たなくて……この間も…」 同じ言葉を繰り返している。
「申し訳ないが、切りますよ」 本当に切った。
これは、クライアントに対して、かなり失礼なことだとは思うが、電話で何十分も彼の息子に対する愚痴を聞く義務は、私にはない。 これで、スドウ氏に対する苦手意識は、完全に消え去った。 簡単なことだった。 いままで、なぜあんなに遠慮していたのか、不思議である。
先月、一週間ほどだが、独立してから一番の暇な時間を過ごした。 その時に、仕事をいただく有り難みを痛切に感じた。 フリーランスは、仕事がなければ、無職に等しい。 だから、これはかなり堪(こた)えた。 まわりのうろたえぶりも、鬱陶しかった。
しかし、逆に「仕事がなくても、俺は俺だ」という開き直りも生まれた。 フリーランスの自分と、仕事をしていない時の自分は重なってはいるが、すべてが重なっているわけではない。
どちらが本当の自分かと言われれば、仕事をしていない時の方が、生の自分である。 つまり、フリーランスの私は、「ヤドカリ」なのだ。 たまたま、フリーランスの殻を背負っているに過ぎない。
他の人も、おそらくそうに違いない、と私は思っている。 サラリーマンという殻を背負っていたり、社長、政治家、教師という殻を背負っている。 殻だから、それは本質ではない。 仮の姿である。仕事を辞めたあとも、殻を背負うことはできない。
仕事を辞めたあとで、殻の重さにこだわり続けるか、あるいは「スッキリした」と思うかで、その人のその後が決まるのではないか。
俺は、フリーランスの殻を背負っているだけだ。 そう思ったら、気が楽になった。
仕事が来なくても、俺は俺だ。 いざとなったら、フリーランスの殻を抛り捨てればいい。 私の本質は、そうなっても何も変わらない。 そう思ったのだ。
そして、相手も殻を背負っていると思ったら、何てことはない。 全員、同じ「ヤドカリ」じゃないか。 たとえ、本質を見せないようにして、必要以上に大きな殻を背負っていたとしても、それもただの殻である。 あるのは、大きいか小さいかの違いだけ。 大きい殻を背負いたいのなら、背負えばいい。しかし、殻は殻だ。
スドウ氏も、また「ヤドカリ」だ。
そのヤドカリからすぐに、電話がかかってきた。 「アンタ、本当にMさん?」 初めて聞く、スドウ氏の戸惑いを含んだ声である。
私はそれには取り合わず、「仕事の話ですよね」と念を入れた。 「ああ、B4の4色のチラシ裏表だが、急いでいる。とりあえず、今日中にファックスで見積もりをお願いしたいのだが」
「わかりました。夕方5時までにファックスを送ります。ただ、急いでいる、と漠然と言われても予定が立たないので、校了日を教えて下さい」 「22日に折り込みを入れたいので、17日朝が校了だな」 「了解しました」 「アンタ、ホントに…」とスドウ氏がまた言ったが、「失礼します」と言ってすぐ切った。
おそらく、スドウ氏相手の電話としては、最短記録だろう。 いつもは、10分以内に終わることはありえない。 毎回、その時々のニュースに関して、自説を滔々(とうとう)と述べるのだ。ピントのずれた評論ほど、聞き苦しいものはない。大変なストレスである。
それから解放された喜び。
おそらく見積もりだけで終わるだろうが、私はいま、かなり清々しい気持ちで仕事をしている。
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2006/11/14 AM 08:32:57 |
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