Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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教師にドロップキック
ここ数週間、ニュースで「いじめ自殺」という言葉が、飛び交っている。

人間は、弱いものをいじめる生き物である、ということはわかっていても、救われない思いでニュース画面を見ている。

その中で、いじめっ子といじめられっ子は紙一重、とコメンテーターがしたり顔で言っていた。
いじめっ子も立場が変われば、いじめられる可能性があるということを言いたいのだろうが、その意見は何の解決も与えてくれない。時間の無駄だ。

何かを改めれば、いじめが無くなるという考えもまた何の解決にもならない。
原因は一つや二つではなく、歴史や、現代の様々な媒体などが複合的に絡んだ複雑なものだと思うからだ。

ただ、私なりに無責任な解決方法を考えた。
もちろん、ただ考えただけではあるが。

昔はいじめがなかった、だから昔の教師は優秀だった、という井戸端会議的意見は無視した方がいい。
昔だっていじめはあったが、ニュースバリューが低かっただけだ、と私は思っている。
何でもニュースになる現代と、ニュース媒体の総量が少ない昔とでは、比較するには無理がある。
それに今は、インターネットやメールという「凶器」もある。

「いじめ」という言葉が、あらゆるニュース媒体を通り抜けることで、その現象は膨張し、「いじめ」がまるで流行病のように増幅される。
ニュースに乗らなければ、ここまで「いじめ」が蔓延することはなかったはずだ。
地域的な病で済んでいたはずである。
「いじめ」という言葉が、長年の報道で刷り込まれた結果、「いじめ」はインフルエンザのように規模が広がっていった。
「いじめ」が当たり前のように認知されて、いじめられる側を追いつめる。

いつの時代だって、人間が弱いものをいじめないわけがない。
それの集合体が国家や宗教などであって、パワーゲームの勝者になるためには、弱者は容赦なく排除される。

ただ、国家に想像力はないが、人間には想像力がある。
この想像力が豊かであれば、個人としてのいじめは減るのではないかと私は思っている。

いじめられた人間の感情が想像できないから、いじめが起きる。
殴られたら、「殴り返したい」と思う。しかし、殴り返せない人がいる。
「怖い」「悔しい」「痛い」。
「怖い」「悔しい」はわかっても、いじめる側の人間は、この「痛い」を想像することができないのではないか。

「痛い」は、心と体の両方だ。
私は、この二つの「痛い」、特に心の「痛い」を理解できない人間が、いじめを繰り返していると思っている。

そして、教師という存在がある。
私は、あらゆる職業のなかで、教師が最も想像力のない人種の集まりだと考えている。

彼らは、社会に出た時から「先生」なのだ。
医者も最初から先生だが、「研修医制度」で「丁稚奉公」を経験している。
しかし、教師は学校という組織のなかでの上下関係はあっても、教室の中では、最初から経営者であり支配者である。

最初から支配者の椅子に座った人間は、よほどの資質がない限り、想像力が働かないのではないか。
単に、私の偏見であればいいのだが。

普通、王様に想像力はいらない。
強くて、シンボライズされた人格が王だからだ。
シンボルに想像力は芽生えないし、教えられることもない。
想像力は、側近が働かせればいい。

しかし、教師に側近はいないことの方が多い。
校長に、教頭という役職としての側近はいるが、彼も教師のひとりであり、支配者の側である。
つまり、学校そのものが、想像力が働かないシステムになっている。

その想像力のない支配者が、子どもに「想像力」を教えることができるだろうか。
いじめられた子の、心が「痛い」ことを、支配者が想像できるのか。
私は悲観的である。

教師は、勉強を教えるプロでなくてはいけないが、支配者としての「先生」のままでは、いつまでたっても、教師の質は良くならない。
最近は、民間人を校長や教頭に登用する自治体も出てきたようだが、私にはポーズだけで終わっているように思える。
「一応、民間人にも門戸を開いてオープンな学校にしました」というポーズ。
だから、慣習の壁にぶつかって、民間人校長は孤立しているように見える。固陋(ころう)な教育界、保護者、メディアから孤立しているように感じる。
制度だけ作って、明確なサポートなし。
メディアもなぜか負の部分だけを報道しているような気がする。

話を教師の方に戻して、
これは大きな偏見かもしれないが、私は、教師に救われた生徒よりも、教師に失望した生徒や保護者の方が何十倍も多いのではないかと思っている。

私自身は、小学一年から高校二年までは、いい担任に当たったと思う。
高校三年の時は最悪だったが、12年間のうちのたった1年である。
運が良かったと思うべきだろう。

クラスには、それなりに「いじめ」らしきものはあったが、生徒同士で解決した。
運良く、想像力の豊かな子どもが沢山いたからだ。
しかし、多くの場合は、想像力のない教師の下で日々支配されているから、子どもたちに想像力がつくのは、運頼みである。

だから私は、想像力のない教師には頼らないことを提案する。
そして、そういう教師しか認めない教育委員会にも頼らない。

それらのシステムはすべて解体して、ゼロから作り直す、という考え方は単純すぎるだろうか。
「丁稚奉公」を知らない教師は、最初から王様の権利を手にする。それに反して、教育者としての義務は霞(かす)む。
生徒や親の目線にまで降りていくことは、教師の資質のみにかかっていて、誰もそれを教える環境をつくらない。
そんな心許ない教育者にものを教わる子どもは、悲劇である。

いじめをする子どもが一番悪い、これは当然だろう。
しかし、それを傍観する、あるいはそれに対処する能力がない教師もまた、同様に罪は重い。

それに、過去いじめによる自殺は「ゼロ」と報告した教育界が罪を負わないのでは、虫が良すぎる。
分析能力のない報告書は、ただの紙切れに過ぎない。
彼らは最早、教育のプロではないし、有能な学級経営者でもない。
自己の保身のみ考える、汚職政治家のようなものだ。

今の教育界こそ、「ゼロ」にすべきではないか。
教師は、支配者から降格すべきである。
私はそう思っている。



2006/11/12 AM 08:24:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]



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