Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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「柿の種」中毒の娘
娘が、秋の林間学校に行っていたので、三日間いなかった。
いつも当たり前のように隣で寝ていた娘が、横にいないという現実は、私の睡眠にこれほど影響を与えるものなのか。

火曜の夜は、一時に仕事を終えて、寝た。
しかし、二時半に目が覚めた。隣を見ると、娘はいない。
それからは、目がさえて眠れない。
焼酎を炭酸で割って2杯飲んだが、興奮して余計眠れなかった。
結局、起きていた。

水曜の夜。
一時に仕事を終えて、NIKKAの黒ラベルをストレートで飲んで寝た。
寝不足もあって、すぐ眠りについたが、四時に目が覚めた。
隣を見ると、娘はいない。
またNIKKAの黒ラベルを飲んだが、寝られなかった。
結局、起きていた。

そして、木曜の午後5時過ぎ、娘が帰ってきた。
その第一声。

「柿の種、喰いてぇ〜!」

「柿の種」中毒の娘は、亀田製菓の柿の種を毎日食べる。
我が家は、米は切らしても、柿の種を切らしたことがない。

「どうだ、面白かったか」
それには答えず、重いバッグをドサっと置いて「柿の種、柿の種」と、柿の種めがけて走っていく娘。

父親との久しぶりの語らいより、「柿の種」が大事な娘。

いい子に育ってくれたものである。


  。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。

娘が帰ってきた嬉しい日、川崎の実家から電話があった。

「来月の十日、手術するから」
母が言う。

手術! 八月にしたばかりなのに、また手術?
ちょっと待った!
俺、聞いてないぞ!

「今、始めて言うんだから、聞いてないのは当たり前でしょ」

確かに、そうだ。

詳しく聞いてみたが、今ひとつ要領を得ない。
姉が付き添っていったのだが、医師に言われるままに「手術同意書」にサインをしてしまったと言うのだ。

私の姉は、判断能力がない。
母も八十を過ぎて、ボケてはいないが、理解能力が少々落ちている。
専門的なことを言われると、二人とも思考が停止する。
私の小学五年の娘の方が、物わかりがいい。

母は、今年になって二回手術をしたが、最初の手術はしなくてもよかったのではないか、と私は思っている。
術後、母の病状がまったく改善しなかったからだ。
この時は、仕事が詰まっていて、診察に立ち会うことができなかった。
姉は、医師の話を聞きっぱなしで、頷くことしかできない人だ。
疑問点を問いただす能力がない。
そこで、しなくてもいい手術に同意した。

そのことがあったから、二回目は病院を変えて、私が担当医と徹底的に話し合って、一番負担のない手術方法をお願いした。
その結果、母は普通の生活ができるようになった。

それからまだ二ヶ月しかたっていないのに、また手術!
八十過ぎの老人が、年に三回も手術するというのは、異常事態だ。
よほどの緊急性がなければ、必要ないだろう。

しかし、母は、こうして普通に電話で会話しているのだから、緊急性があるとは思えない。
私は、担当医に直接電話して、経緯を聞いた。
担当医は、母が血を少量吐いたので、いつかはもう一度手術をしなければいけないかもしれない、と言ったらしい。

それを姉が「いつか」というのを聞き飛ばして、「ぜひ手術してください」とお願いしたらしい。
医師は、もう少し経過を見ましょう、と言ったのだが、姉はその言葉を聞かず「ぜひ」と重ねてお願いしたのだという。

そこで、「まあ、いつかはしなければ」と思っていた医師も、それに同調して手術に踏み切った、という次第。

夜遅かったが、私は大慌てで川崎の病院まで出かけて、頭を下げ、手術同意書を破棄してもらった。

大病院の医師というのは、患者を見ない。
患者の病気や身体は診るが、患者自体を見ず、カルテを見る。

私の母は、八十過ぎて大病を患っているが、普通に歩ける。階段の上り下りも、ゆっくりだが一人でできる。
日常生活で、人の助けを必要としない。

医師は、そこだけを見て、元気だと言う。
血液検査の結果や血管の状態を見ても、問題ないと言う。
だから、手術にも耐えられるはずだと言う。

しかし、母の「人様に迷惑をかけたくない」という心意気は、彼らの目には見えない。
それは当たり前のことだ。
だから、家族が医師にそれを説明する必要がある。
カルテにないことを伝えるのが、患者の家族の役割だからだ。

医師というのは、多くの場合、馬鹿ではない(はずだ)。言えば分かる(はずだ)。
つまり彼らは、こちらが伝えなければ、患者の「本質」を理解できないのだ。
患者の家族は、そういったことを面倒臭がってはいけないと思う。
医師だって、我々と同じレベルの人間だ。特別ではない。ただ、医学の知識が、我々より少し豊富なだけだ。

今回、私は医師にこう言った。

母は階段も上れるし、食事も自分で作る。気丈だ。しかし、だからといって、八十過ぎた老女の現実はそんなに甘いものではない。
最初の手術の時、回復の遅さから「寝たきり」を覚悟し、「死」さえ覚悟したという。
それを精神力で乗りきった。
しかし、一度、精神力で乗り越えたからといって、次も乗り越えられるとは限らない。
だから、次の手術がもしあるとしたら、とにかく慎重にやって欲しい。
母は、普通なら「寝たきり」でもおかしくないほど重い病なのだから、カルテ以外のところを見て治療をして欲しい。


それを聞いて、私より若い医師は、鈍そうな表情を変えることなく、「はい」と面倒臭そうに頷いた。

その表情から察すると、本当にわかってくれたとは考えにくいが、伝えるべきことは伝えた。
こちらの主張が、カルテの「見えない部分」に少しでも痕跡を残してくれたら、決して母にとって、無駄ではないはずだ。

しかし、よく考えてみると、一人で歩けるんだから手術は大丈夫ですよ、という考えは少しも科学的ではない。
何となく説得力はあるような気がするが、騙されているような気もする。
もう少し、まともな基準がないものだろうか。




2006/09/29 PM 12:33:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]

マクドナルドの珈琲で口直し
PCの調子が悪いから見てくれないか、と電話がかかってきたので、大宮の得意先に行って来た。
得意先のPCは、ウィンドウズ。
私はWINに関してはど素人、と何度も言っているのだが、ひとの話を聞かない人間は世間にたくさんいる。

本来なら断るところだが、思いがけなく丁重な言葉で懇願されたので、つい「はい」と言ってしまった。
言葉というのは、使い方次第で、簡単に人の心を変えることができる。

勉強になった。

ウィンドウズのOSは「WINDOWS 2000pro」ということを聞いて、インストーラディスクを持っていった。
PCの症状だが、WORDのドキュメントを保存すると、一応保存はされるのだが、次に同じものを開こうとすると開けないケースが、かなりの確率であるらしい。

私がWORDのドキュメントを作って保存してみると、確かに開けなかった。
何度かやってみたが、開けないことの方が多かった。
この場合、一番疑われるのは、WORDが壊れている可能性だ。
だから、WORDを再インストールしてみた。

その結果、あっけなく直った。
新規ドキュメントを作って、保存してみたが、今度は普通に開ける。

「なんだい、そんなことかい」
電話とはうって変わった軽い口調で、担当者は大笑い。
こちらは苦笑い。

丁度、昼飯時だったので「Mさん、おごりますよ」と言われて、近所の定食屋に連れて行かれた。
彼は、私が貧乏だということをよく知っている。
貧乏人は、こういうとき得である。
年下の人に奢ってもらうことに、何の抵抗も感じない。
これを図々しいと取るか、恥知らずと取るか、あるいは羨ましいヤツと取るかは、自由だ。

彼は、生姜焼き定食、私はアジフライ定食を頼んだ。
味噌汁つき、ご飯おかわり自由で、650円(税込)。
お茶は、セルフサービスで飲み放題。
贅沢な昼食である。

しかし、感動したのはここまで。

味噌汁をすすって、驚いた。具がない。味がない。
いや、ないわけではない。なめこの残骸(?)が一つだけ浮かんでいた。私はなめこだと言ったが、担当者は違うと言う。
しかし、それは些細なことだ。

私は、プロのテクニックに驚いた。
この汁、色は味噌汁の色をしているが、全部飲んでも、味噌汁を飲んだという実感がないのだ。
となりのテーブルを見て、さらに驚いた。
この味噌汁に塩を振りかけたり、しょう油を垂らす人がいる。
無料の揚げ玉を鷲掴みにして、汁碗にぶち込んでいる人もいる。
私も真似をしようと思ったが、もうすでに飲み干したあとだった。損した気分。

アジフライはどうか。
これもすごい。
油の味しかしないのだ。噛めば噛むほど、油の味しかしない。
脂ののったアジという意味ではない、油にまみれたアジである。
油のあじのするアジ。
シャレにもならない。(苦笑い)

こうなると、ご飯も期待できない。
そして、その予感は見事に適中。
三日間、炊飯ジャーで保温しっぱなしのご飯のような味。
アジフライよりはいいが、おかわりなど、とんでもない、というシロモノだ。

そして、極めつけは、アジフライのそばに小さく盛られたキャベツの千切り。
私は、これほど力なく萎(しお)れたキャベツの千切りを見たことがない。
キャベツが可哀想になった。
キャベツも、まさか自分がこんなに情けない状態で人前に出されることを、予想していなかったに違いない。
色は限りなく白に近い。そして、口に入れた時の、無惨なまでの存在感の無さ。
哀れである。気持ちが萎(しぼ)む。キャベツを食べて、気持ちが萎んだのは初めてだ。

担当者と顔を見合わせて、笑うしかない。
そして、彼は、納得するように大きく頷きながら、こう言った。

「いやー、この店、会社の近くにあるのに、うちの社員は誰も行こうとしないんですよ。話題にするのも避けてるみたいで…。その理由が今わかりました。はっきり、わかりました。すごいわ、これ!

ははは………。

奢っていただいたこともあり、私はすべて平らげたが、彼の生姜焼きは半分以上残り、ご飯も半分以上残っていた。

「コンビニで、おにぎりでも買っていきますよ」
彼はレジのおばちゃんの前で、これ見よがしに大声で言いながら支払いをしていたが、おばちゃんは一枚上をいく。

「そうそう、若い子はこれだけじゃ足りないもんね」

ハハハ………。

礼を言って、彼とは定食屋の前で別れた。

電車に乗ってさっさと帰ろう、と思いながら歩いていると、マクドナルドの看板が見えた。
財布には、5百円近い小銭がある。
100円珈琲を飲むという贅沢をしても、許されるはずだ。

小雨が降ってきた関係で、店内は混んでいたが、独り座るスペースはある。
マクドナルドの珈琲は、年に数回しか飲まない。
特別、美味いと思ったことはない。
不味くはないが、無難な味という印象が強い。

しかし、今日は違った。
マクドナルドの珈琲って、こんなに美味しかったっけ?
琥珀色の液体が、体中に染み込みわたるのが実感できるような、濃厚さを感じた。

私の中で、マクドナルドの珈琲のランクが、3ランク上がった日だった。



2006/09/27 AM 11:56:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

イチオシはPUSHIM
仕事中は、いつも「iTunes」で音楽を聞いている。
手持ちのCDを「iTunes」で、192kbpsの「MP3」にエンコードする。
CDに比べたら音質は落ちるが、どうせミニスピーカーで聞くのだから、音質にこだわっても無駄だ。

そんな風にして、「iTunes」には900曲近い「お気に入り」の曲が入っている。
全部通しで聞くだけで、丸3日かかるほど、曲のボリュームは多い。

曲のジャンルも、無節操だ。
小学5年生の娘の趣味もあって、J-POPが一番多い。

彼女が聞くのは、YUI大塚愛GARNET CROWaikoJanne Da Arc倖田來未宇多田ヒカル柴咲コウ上戸彩川嶋あい加藤ミリヤ山下智久……あたりか。
高校一年の息子は、Kinki KIds浜崎あゆみポルノグラフィティUVERworldTOKIO…など。

息子は、なぜか「ジャニーズ系」が好きだ。
どうして、と聞くと、歌いやすいから、と言っていた。
彼らの歌が、シロートに近いからだろう。

ふたりとも、私が数年前から、SMAPORANGERANGEだけは聞くな、と厳命しているので、その言い付けを守っている。
いい子たちである。

私が聞くアーティストで、娘と趣味が重なるのは、YUI、倖田來未、宇多田ヒカル、柴咲コウ、加藤ミリヤである。
娘は、YUIがデビューした時から大のお気に入りで、今では18曲すべてを歌詞カードなしで歌える。
カラオケボックスに行っても、彼女の歌しか歌わない。
よほど感性が合うのだろう。

私も、YUIは、きらめくような感性を持っていると思っている。
詞の中の日常的な表現の一つひとつに、等身大の彼女を見ることができる。
これは、天才だからできることで、彼女は間違いなく「選ばれた人間」の一人だと言える。

私の「iTunes」にヒップホップ系の曲は、ほとんど入っていない。
息子がたまに聞く、ケツメイシ湘南乃風だけだ。
おじさんの耳には、ラップは皆同じに聞こえる。

Dragon Ashのように、絶えず実験的でクリエイティブな曲作りをするプロは認めるが、多くのラッパーの場合、いつも同じ地点にとどまっているような気がするのだ。
韻を踏むのはいいが、言葉の遊びが中途半端で、ラップの様式に埋没してしまっている感がある。
ラッパーは、現代の「吟遊詩人」だと思っている私にとって、彼らの詞はあまりにも幼稚だ。
言葉を伝えようという意識が伝わってこない。
「詩人」からは、ほど遠い。

我が「iTunes」には、他にロック、ジャズ、ソウル、クラシックなど種々雑多な曲が入っている。
「トップ25」を見てみると、よく聴いている曲の傾向がわかる。

1位は、Kinki Kidsの「ボクの背中には羽がある」で、458回。
これは、息子が気に入っていて、繰り返し聞いていたらしい。
2位は、ケツメイシ「サクラ」の329回。
これも、息子が繰り返し聞いていた。
3位は、Kinki Kids「ビロードの闇」の275回。
4位はポルノグラフィティの「アゲハ蝶」273回。
5位は、ユンナの「ほうき星」267回。
他に、UVERworld「D-technostyle」、浜崎あゆみ「VOYAGE」、Kinki Kids「情熱」、修二と彰「青春アミーゴ」、サスケ「青いベンチ」、D-51「NO MORE CRY」が、210回から250回以上再生されている。
これらすべて、息子が好んで聞く歌だ。

こうしてみると、息子には、好きな曲を繰り返し聞く傾向があるようだ。

16位には、YUIの「feel my soul」、19位に、同じくYUIの「TOKYO」、20位に「Merry Go Round」、24位に「Good-bye Days」、25位に「Just My Way」がある。
17位に、宇多田ヒカルの「プレイバックパート2」、18位に倖田來未「Promise」22位に倖田來未「Flower」、23位にkaoru Amane「タイヨウのうた」。
これらは、娘が好んで聴いている曲だ。

「トップ25」の中で、私が好んで聞いていたのは5曲。
浜田省吾「MONEY」、「Midnight Blue Train」、「J.BOY」、Eric Clapton「LAYLA」、Chick Corea「SPAIN」である。

他に100回以上再生した曲が30数曲。
Billy Joel「NewYork State of Mine」、Queen「The Show Must Go On」、Destinys Child「Surviver」、Miles Davis「Sketches of Spain」、Janne Da Arc「振り向けば・・・」、MINMI「The Perfect Vision」、加藤ミリヤ「ソツギョウ」のほか、浜田省吾の曲が30曲以上ある。

クラシックでは、チャイコフスキーの「1812 Overture」(シンシナティ交響楽団)をよく聞く。
ナポレオンのロシア侵攻をテーマにした楽曲である。カノン砲の実音が臨場感タップリで、何度聞いても飽きない。

以前はよく同業者の友人などに、「無理して、若者向きの歌を聴かなくてもいいんじゃないの」などと、嫌みを言われたことがある。
しかし、かなり以前から注目していた倖田來未やBonnie PinkSalyuなどが、ブレイクしたこともあって、彼らが私を見る目が少しずつ変わってきた。

「ねえ、次は誰がブレイクすると思う?」
たまに、そう聞かれるようになった。

moveがいい。何年か前に注目されていたが、DOUBLEもいい。
しかし、今私が一番注目しているのは、PUSHIMだ。
圧倒的で、包み込むような情感。艶のある高音、そして低音。彼女は、黒人の真似ではないソウルを感じさせる、数少ない日本のシンガーだ。
世間の評価としては、レゲエシンガーに分類されるが、それだけに閉じこもらない器の大きさがある。
ロックを歌えば、見事にロックするし、ヒップホップな曲では、類(たぐ)い希(まれ)なラッパーになる。
歌い手としてのプロ意識の高さを、どの曲にも感じることができるという点では、彼女こそ「歌姫」と言っていいかもしれない。

倖田來未ほど一般受けするキャラクターではないので、大ブレイクは難しいとしても、少しでも彼女の存在を知る人が増えてほしい、と願っている。
今日何度目かの「I pray」を聞きながら。


2006/09/25 AM 10:08:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]

「ドウモ」で自己嫌悪する中年男
朝早い時間、宇都宮線に乗った。
湘南新宿ラインである。
7時半前後といえば、ラッシュアワー真っ直中。
久しぶりに経験する混雑だ。

しかし、むかし会社勤めをしていた時と比べると、混雑の度合いは緩いような気がする。
10年前の上りの車内は、本や雑誌を読むのも一苦労で、前後左右に圧迫感をいつも感じていた。
時に、喧嘩を売っているのかと思うほど、肘で攻撃を繰り返す無礼者がいた。

「何で、今日はこんなに混んでるんだよ!」と、不機嫌丸出しで舌打ちをする男もいた。
そう言う男は、どういうわけか、例外なく太っていた。

何で混んでるかって? 教えてやろう。それはお前が乗ってきたからだよ!

赤羽駅では降りる人が多い。
身動きができる程度に、まわりにスペースができる。
吊革につかまりながら、バッグから眼鏡を取りだし、読みかけの文庫本を読むことにした。

志水辰夫の「飢えて狼」である。
志水氏のデビュー作。壮大な冒険小説だ。
氏の「背いて故郷」というのを2ヶ月前に読んで、文体の密度の濃さと物語の着想に惹かれた。

もう一冊読まなければ、と思っていたところ、BOOK OFFの100円コーナーにあったものを、ためらうことなく購入したものだ。

物語は、冷戦時代のロシア(北方領土)を舞台にしている。
まだ半分も読んでいないので、主人公の動機付けが明らかになった程度だが、少しもぶれることのない文体は骨太で、デビュー作にもかかわらず、風格を感じさせる。

物語に入り込んでいたせいで、気が付いたら、電車は恵比寿駅を過ぎていた。
見渡すと、車内はかなり空いていた。
空いている座席はなかったが、立っている人は数えるほどだ。
眼が疲れたので、眼鏡を外し、文庫本と一緒にバッグにしまった。
見慣れた車窓の風景を見る。

懐かしの目黒駅を通過。
母校の「目黒三中」がここにある。
20年以上、行っていない。
秋は、運動会の季節。
当時の運動会は、「体育の日」に決まっていた。
だから今頃は、リレーの練習をしていた。
しかし、最近は9月が多い。娘の小学校の運動会は先週の土曜日だった。
時代は変わる、ということか。

大崎駅。
目の前の座席が空いた。
座ってすぐ、バッグから握り飯を取りだした。
朝食を摂る余裕がなかったので、高校一年の息子の弁当を作るついでに、握り飯を作って持ってきたのだ。

握り飯は4つ。
中身は、梅干し・おかか・タラコ・肉ミソである。
海苔がすべてに巻いてある。
その中のタラコを食べる。
真正面に座った若い女の子がこちらを見ているようだが、知ったこっちゃない。

ステンレスボトルに入れた熱い「烏龍茶」をフタ兼用のカップに注いで飲む。
アイスコーヒーを「珈琲」と認めないように、冷たいお茶は「お茶」ではない。
冷たいお茶には、濃厚な「風味」がない。
風味のないものを「お茶」というべきではない。

タラコの次は、おかか。
朝食はここまでで、残りは昼食として食べる。
鮭フライも持ってきた。自家製のタルタルソースがかかっているが、これも昼食用だ。

電車は、新川崎駅を過ぎた。
戸塚駅で横須賀線に乗り換えて、横須賀まで行く。
同業者から仕事を貰うためである。

横須賀駅到着まで、あと一時間近くかかる。
乗り換えがあるから、寝るわけにはいかない。
一度寝たら、起きる自信がない。
昔は、目的の駅の手前で必ず目が覚めたが、最近では乗り過ごすことが多い。
年は取りたくないものである。

正面を見ると、先ほどの若い女の子がまだ座っている。
眼鏡を取ると、3メートル先は、ぼかしの世界である。
よく見えない。
しかし、動きや気配はよくわかる。
彼女が私の顔を指さしているようだ。

私は有名人ではないので、指さされることに慣れていない。
だから、少しムッとした。
しかし、怒るわけにはいかない。
私を指さしているのではなく、指の運動をしているのかもしれないし、私の後ろの何かを数えているのかもしれないからだ。

苛ついた気持ちを抑えているうちに、電車は横浜駅の手前まで来た。
女の子はここで降りるらしい。
ゆっくりと立ち上がった。
そして、なぜか私の方に歩いてきたのだ。
手が伸びる。
私はとっさによけようとしたが、彼女の「ごはん粒が」という声を聞いて、間抜けな声を出した。

「ほぇっ」

彼女の人差し指は、私の唇の右下を示していた。
保母さんのような笑顔で、私を見ている。
触ってみると、ごはん粒が二粒、貼り付いていた。
こんなときは、なぜか「ありがとう」という言葉が出にくい。

「すみ」まで言ったが、「すみません」というのも、このシチュエーションではおかしいと気づいて、「ドウモ」という言葉で誤魔化した。
彼女は、保母さんの笑顔を保ったまま、降りていった。
そんな自分に舌打ちをする。

「ドウモはないよなぁ、まったく」
戸塚駅に着くまで、首を傾けながら、ひとりブツブツ呟く中年男。

こんな中年にはなりたくなかったんだが……。



2006/09/23 AM 08:45:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

青い空があった
大宮の取引先での打ち合わせが、予定より早く終わった。
天気はいい。のんびりするには丁度いい気候だ。
日差しは強いが、日影は空気が乾燥していて、心地よい。
そこで、ソニックシティ前の公園のベンチに座って、ステンレス水筒に入れた熱い珈琲を飲んだ。

私は、どんなに気温が高い時も、熱い珈琲しか飲まない。
アイスコーヒーは、名前はコーヒーだが、あれは珈琲ではないと思っている。
強いていえば、清涼飲料水か。
珈琲は、喉の渇きを癒すために飲むものではない。
つかの間の「安らぎ」を得るために飲むものだ。
アイスコーヒーとは、そこが決定的に違う。

つかの間の安らぎを得るため、「ブラジル」ベースのブレンド珈琲を飲みながら、何気なくまわりを見回してみた。
午後2時前だが、結構サラリーマンの数が多い。
そして、ほとんどが所在なさげに、ベンチに腰掛けている。

その中で、一人だけノートパソコンに向かっている人がいた。
メールをしているか、あるいは「株価チャート」でも見ているのだろうが、高級そうなスーツに身を包んで、有能なサラリーマンを演じている姿を見ると、苦笑を禁じ得ない。
さらに、銀縁眼鏡とくれば、肩をすくめるしかない。

それほど忙しいのですか、大変ですね。
でも、せめて公園では、休みましょうよ。
安らぎの時間と空間を求めて来ているのに、あなたひとり忙しいフリは野暮というもの。

ほんの少しだけ、自分の心の時を止めて、まとわりつく柵(しがらみ)から解放されるのは、こんな時だけ。
脳の中をアルファ波で充満させて、脱力感に身を任せるのは、決して悪いことじゃない。

液晶画面に映った文字や画像は、右脳も左脳も刺激しない。
薄っぺらい世界に、四角いドットをきざむだけ。
液晶画面が、ひとの心を解放することはない。

だから、閉じなさい。
早く、閉じなさい。
閉じたとしても、あなたの世界が止まるわけじゃない。ほら、早く。


そう念じていたら、彼は突然PCを閉じた。
そして、スーツの内側のポケットから携帯電話を取りだした。
ボタンを押して、相手が出るのを待つ。
数秒後、相手が出たのだろう、かん高い声で話し始めた。

彼の声は、5、6メートル離れたこちらにも聞こえてくる。
「予想通り」というフレーズを3回繰り返していた。
そのあと、かん高い笑い声が続いた。
そして、黙った。電話の相手が話しているのを聞いているようだ。
何回か頷いていた。

そして、彼は頷きながら、スーツの右ポケットから、煙草のパッケージを取りだした。
だが、その時、膝のバランスを崩したようだ。
膝の上に置いたPCが左に傾いた。
煙草とPCと、どちらが大事だ。

私だったらPCを取るが、彼は「両方大事」と思ったのだろう。
両手でPCを支えようと思ったが、左手には携帯電話を持っていた。
だから、左手はアクシデントに対応できなかった。
右手を使えば簡単に掴めたが、煙草にこだわったために、PCの傾きを抑えるタイミングを、わずかの差で逃した。

その結果、PCは地面に落ちた。
私の耳には、落下した音が聞こえなかったから、それほどダメージはないように思えた。
しかし、彼のショックは大きかったようだ。
彼は、携帯電話を左手に握りしめ、右手では煙草のパッケージを握ったまま、口を大きく開けて、固まっていた。

数秒固まったのち、われに返った彼は、携帯電話の電源を切ってベンチに置き、煙草のパッケージもベンチに置いた。
そして、PCを慌てて拾い上げた。

そっと、PCを開く。
首を心もち前に傾けて、心配そうに画面をのぞき込む。
右足は、貧乏揺すりを繰り返している。
ベンチに置いた煙草に手を伸ばしかけたが、またバランスを崩したらまずいと思ったのだろう、途中でやめた。
貧乏揺すりがさらにひどくなった。PCが、荒波を行くボートのように波打っている。
またPCを落とすのではないかと、人ごとながらハラハラした。

しばらくたつと、彼の肩から力が抜けるのが見えた。
その後、肩を上下して、首を小さくのけ反らせた。
大きく息を吐く。
安堵の表情。

PCは、無事起動したようだ。
貧乏揺すりが、止んだ。
そして、壊れ物を扱うように、そっとPCを閉じた。

彼は、ベンチ右に置いた煙草のパッケージをポケットにしまい、左に置いた携帯電話をスーツの内ポケットにしまって、PCはバッグに入れた。
そして、一度両手で髪をなでつけ、空を見た。

その時、まるで初めて、空の青さに気づいたように、彼はそれをじっと見つめた。

彼は、となりにそびえるソニックシティなど眼中にないように、空に見とれている。
見上げている時の彼の横顔は、ほとんど無防備で、素に近いような気がした。
口は半開きだ。
小さな風が吹いて、彼の前髪の形を崩しても気に留めることなく、彼はそのままの形で空を見上げていた。

彼の横顔には、「安らぎ」があった。
そんな彼の顔を見ながら、私はもう一杯、熱い珈琲をカップに注いだ。
熱い液体を喉に流し込みながら、私も上を見上げた。

私たちの上に、CGで描いたような青い空があった。


2006/09/21 AM 07:27:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

アベ氏は「タカ」になれるか
ニュース番組に総裁選3氏が出ていた。
筋書き通りのドラマを見ているようで違和感があったが、茶番だと思えば何でもない。
結末は、どうせ「水戸黄門」のようにわかりきっている。

そんなことより、いま私が気になるのは、アベ氏が前任者の方針を継いで、「ぶら下がり記者会見」をやるかどうか、だ。
メディアは、何としてでも「ぶら下がり記者会見」の権利が欲しいだろうが、私はアベ氏にはその手法は取らないで欲しい、と願っている。

なぜなら、政権を利するだけの会見は、フェアではないからだ。
あれは「報道」ではなく「宣伝」に過ぎない。

前任者は、「ぶら下がり記者会見」の恩恵を最大限受けて、政権を維持した。
実態の伴わない、勢いだけのフレーズを散りばめて、自己PRの種とした。
毎日、内容のない「ひとりごと」を電波に乗せて、支持率アップの材料とした。

それをメディアは、「ソーリの声」として、まるで大切な宝物のように、金の台座に押し上げるがごとく扱っていた。
その「お言葉」を崇(あが)める姿は、とても民主国家のメディアのものではない。
なぜ、ここまで無批判になれるのか、私には到底理解できない光景だった。

アベ氏がソーリを継ぐに当たってのメディアの予測記事にしても、いつもながらではあるが、単なるリポートに終始している。

海外メディアがどう思っているか、を伝える記事でお茶を濁している。
諸外国メディアの論調を伝えるだけで、他人の意見を書き写す作業しかしない。
あるいは、国内の有力者の論評を伝えるだけという、いつもながらの芸のない報道方法も。

立候補者3氏の政策を伝えることは、当然のこと。
誰がどういう政策をとっていて、その違いはどこにあるかを伝えることも、メディアとしては当然のことだ。
しかし、メディアにはそこから先の「論」がない。
「アソウ氏の政策には日本の未来像が見えない」と○○氏が批判した、というのは「論」ではなく、ただの「記事」である。
また、支持者に判断させて、○×で判定させるだけ、という思考能力ゼロの記事もあった。
もうそろそろ、メディアは人の意見の陰に隠れるのをやめたらどうか。

権力に阿(おもね)ることだけ覚えて、自らの言葉を使うことを忘れたメディアは末期的だ。

コイズミ氏は、政権初期から人気取りの道具として「会見」を利用していた。そして、任期が切れる寸前に、「もうお役ご免」と言って、会見の回数を削減した。
こんなことをされたら普通は「虚仮(コケ)にされた」と憤るはずなのだが、メディアは回数を減らされたことに、ただうろたえるだけだった。

コイズミ氏は、「同じ質問ばかりだから、2回は無意味じゃないかと思った」と、今さら言っているが、それがあったからこそ、彼は高い支持率をキープできた。
もしこの「(言い訳と強弁のための)会見」がなければ、歴代のソーリと同じ末路をたどったに違いない、と私は思っている。
コイズミ内閣に限っては、メディアは「会見」の中で、内閣の「弁護士」の役目を担っていた。

しかし、任期切れの段階になってしまえば、「会見」を辞めたとしても支持率に影響を及ぼすことはない。
コイズミ氏にとって、「会見」を義務化する必要は、もはやない。

つまり、メディアは、捨てられたわけだ。

「思い人」に捨てられたのに、気付かないメディアこそ、「あはれ」である。

そして、新しい「思い人」をアベ氏と定めたメディアは、「ぶら下がり記者会見」にすべてを託すだろうし、アベ氏は今の人気を維持するために、それを受け入れるかもしれない。

ただ、アベ氏が骨の髄まで「超タカ派」であるなら、こんな軟弱なメディアは相手にしないで欲しい。
前任者のように、まるでお調子者のプレイボーイ(死語?)のごとく、メディアを弄(もてあそ)ぶことはやめてほしい。
言葉だけでなく、筋の通った行動でこの国をリードして欲しい。

中身のないメッセージを毎日電波にのせることなどせずに、政策の魅力で無党派層を引きつけて、掲げた政策から逃げないでほしいものだ。

「私は何としても8月15日に、靖国神社に参拝する!」
そう言いながら、4年間公約を守らなかった男がいる。
そして、任期が切れる寸前に、厚顔にも「公約はまだ生きている」と宣言して、胸を張って参拝した男がいる。

年金問題で追求されたとき「人生いろいろ」と言って世間をバカにした男がいる。
「大きな問題を処理するためには、この程度の約束を守れなかったというのは大したことではない」と開き直った男がいる。

特殊法人や財政投融資制度を骨抜きにして、史上に名を残すために「郵政改革」をひたすら主張した男がいる。

そして、改革をただ「言葉だけのレベル」に落とし込めた男がいる。

そんな男を模することは、「超タカ派」の名折れである、とアベ氏には思って欲しい。
そうでなければ、彼の同郷の先達「吉田松陰」に笑われるだろう。

鷹は鷹らしく…、私はそう願っている。(私自身、タカ派とは肌が合わないが…)



2006/09/19 AM 11:35:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

まさか、まさか……だよ
最近、訃報が多い。

最近では年に数回しか仕事が来ないが、独立当初は週に一回のペースで仕事を出してくれる会社があった。
ほとんどが急ぎの仕事なので、前夜もらって、次の日の夜届けるということが多かった。

届けるのは、大体が午後11時過ぎ。
ビルの守衛さんに挨拶をして、中に入れてもらう。
ほとんど毎週のことなので、守衛さんと当然のように顔見知りになる。

守衛さんの名は、ナカタニさんと言った。
60歳近かったが、細身のわりに筋骨隆々としていて、血色もいい。
声はバリトンで、気持ちいいくらい声がよく通って、明瞭な話し方をする人だった。

彼は、歴史小説が好きで、いつも司馬遼太郎藤沢周平海音寺潮五郎池波正太郎などの文庫本を、仕事の合間に守衛室で読んでいた。
私も歴史小説をよく読むので、それをきっかけにして、ナカタニさんとは話が弾んだ。
藤沢周平の存在を知ったのは、ナカタニさんに本を借りたからである。

ナカタニさんとは、本の貸し借りをすることが多かった。
私は、彼から藤沢周平や山本周五郎、池波正太郎の本を借りて読んだ。
私は、ナカタニさんが一度も読んだことがないという隆慶一郎北方謙三京極夏彦などを彼に貸した。
彼は特に、隆慶一郎の「一夢庵風流記」を気に入ったようだった。
京極夏彦の「巷説百物語」も面白い、と言っていた。

「歴史小説にはロマンがあるよね」とナカタニさんは言っていた。
「ロマン…、ですか? それって死語じゃないですか」
「え? 死語って何?」

私が意味を教えると、気持ちの良いバリトンで笑っていた。
細い弓のような目で笑う顔が、少年のように爽やかだった。

そのナカタニさんが亡くなった、と聞かされた。
半年ぶりに行った得意先の守衛室で、若い守衛に呼び止められたときのことだった。
彼は、ナカタニさんが守衛を辞める半年前から、一緒に働いていた。
だから、私とナカタニさんが親しいことを知っていたのだ。

「信じられないよ。先月突然ここに立ち寄って、世間話をしていったんだよ。血色は良かったし、声にも張りがあった。狭心症で亡くなったらしいけど、一度もそんなこと聞いたことなかった。ほんと、信じらんないよ」

それを聞いたとき、軽く地面が揺れたような気がした。
めまいに似た感覚。
突然、前に一度だけ腕相撲をしたときのことを思い出した。

「僕はね、腕相撲では負けたことがないんだ」
ナカタニさんは言ったが、二分以上の長い攻防の末、私が勝ってしまった。
「まいったよ。Mさん、人は見かけじゃないねぇ。まさか、まさか……、だよ」

心臓の弱い人は、力仕事のあとは顔が蒼白になる。
しかし、腕相撲のあと、ナカタニさんの顔は赤く上気していた。
だから、心臓に持病があるとは思えなかった。

まさか、まさか……、だよ。

右の掌を見てみた。
腕相撲をしたときのナカタニさんの手の感覚が、よみがえってきた。
その手は熱かった、ような気がする。

ナカタニさんは、何歳だったんだろう。

「67歳でした。まだ若かったですよ。俺のじいちゃんより若かったのに」
まるで私の心がわかったように、若い守衛がつぶやいた。

ナカタニさんに最後に貸した本は、北方謙三の「三国志」第13巻だった。
それを返してくれたとき、ナカタニさんはこう言った。
「僕は、生まれ変わったら歴史小説家になりたいな。それも、壮大な歴史ロマンを書く小説家がいい」

「それなら、生まれ変わらなくたって、今からでも書けるじゃないですか」
私がそう言うと、はじめて気付いたように大きく頷いて「ああ、そうか、そうだよね。小説家に定年はないものね」と笑っていた。

あれから二年。
ナカタニさんは、壮大な歴史ロマンを書きあげたのだろうか。




2006/09/18 AM 10:48:11 | Comment(10) | TrackBack(0) | [日記]

映像は先入観の餌食になる
遅ればせながら、ジブリの「ハウルの動く城」を観た。
以前、テレビで放映したものをビデオに撮っておいて、今頃観たのである。

「ハウルの動く城」は、インターネットでレビューなどを読んでみると、あまり評判が良くない。
しかし、ネットの評判はあまり当てにならない場合が多い。
観てもいないのに、「つまらない」と断定する人がいるから、そのあたりは差し引かなければならない。

ただ、今回はネット以外にも、「映画評論家(評判家?)」と称する人たちの評価もあまり高くなかったような気がする。
反戦の主張が中途半端で、何を言いたいのか伝わらない、というものがいくつかあった。

若いヒロインの声を60過ぎの倍賞千恵子が演じるというのが不自然、という「感想文」を書く評論家もいた。
原作に忠実ではない、という見当はずれのことを言う人もいた。
しかし、原作は原作であって、映像に転じれば、それは「別物」というのが、映画の世界の常識ではなかったか。

このような先入観を持って映画を観るというのは、ネット社会ではもう当たり前のことになっていて、そういった雑音をすべて受け入れた上で「覚悟して観る」というのが、現代の正しい映画の見方である。

映画というのは、映像を見せるものである、という単純な見方しかできない私にとって、この映画を観た感想は、「満足」の二文字で単純に表すことができる。
「映像」の中には、当然「ストーリー」も含まれる。

先ずは、滑稽な姿をした城が動く様がいい。
卓越したイマジネーションを感じる。
ダイナミックに、コミカルに動くこの映像は、ジブリにしか創ることはできないであろう。
それだけで、最大限の評価をしてもいいのではないか。

倍賞千恵子の声にしても、たいしたものだと思う。
倍賞千恵子の実際の歳に必要以上の先入観を持つ人には、それがこだわりになって、物語に没頭できないだろうが、それは個人の感性の問題である。
私は物語に没頭したから、まったく気にならなかった。
見事である、と賛辞を送りたい。

倍賞千恵子は、紛れもなくソフィを演じていたと思う。
木村拓哉も悪くない。「棒読み」「鼻の詰まったような声が変」などという悪意に満ちた感想は、井戸端会議的主張に過ぎない、と私には思える。

反戦の主張が中途半端、という評があったが、私は普通に恋愛映画として見たから、正直なところ、その評価の意味がわからない。
一つの作品では、いくつものテーマを要求してはいけない、と私は思っている。
私はこの映画は、「ソフィの恋愛」をテーマにしたものだと思っているから、それ以外のことに細かい意味を求めない。

エンターテインメントとしてテーマが破綻していなければ、枝葉末節は物語を支える「伏線」に過ぎない。
伏線にまで、テーマを求めるのは、見当違いというものだろう。

娯楽大作として、この「ハウルの動く城」は破綻なく、見事なダイナミズムを見せてくれる。
だから、傑作である、と私は思うのだ。
他の誰が、こんな作品を創ることができるだろう。

ネットでは、ジブリの作品は「もう飽きた」と評する人が意外と多い。
つまり、「飽きた」という、作品の正当な評価とは関係ない部分で評価しているのだ。
飽きたら、観なければいい。
新しいものに飛びついて、そしてまた飽きればいい。それは、ご自由に、と言っておく。

ジブリの新作「ゲド戦記」も、評判があまり良くないようだ。

先日、作者が作品に対して批判した、などというニュースもあった。
作者が、「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」と比べて、細密な正確さや斬新さがない、あるいは、一貫性に欠けている、などと言っていると報じられた。

これを読んで、私は「となりのトトロ」などを引き合いに出すのは、フェアではないと思った。
「となりのトトロ」は外人から見れば、エキゾチックに見えるだろう。「千と千尋の神隠し」は、エキゾチックで、しかも幻想的に見えただろう。

だが、「ゲド戦記」は、原作者である彼が書いたものだ。
比較するのは、見当違いだ。
原作に忠実でない、原作の倫理観の表現が不十分だと言うのなら、誰にも映画化の権利を与えるべきではない。
紙の世界だけに閉じこめておくべきだ。
彼の読者のためにも、映画化すべきではなかった。

だから、私には原作者の言っていることは、「戯言(たわごと)」にしか聞こえない。
あるいは、政治の世界で言うところの「ネガティブ・キャンペーン」か。

こんなアンフェアな「戯言」が一つの評価の基準になって、まことしやかな「否定的感想文」がネットに充満するとき、映像作品は、巨大な先入観の餌食にされる。

「ゲド戦記」を観に行く時間はないが、DVDで発売されたら、観てみようと思う。

先入観をタップリ頭に詰め込んで、映像に浸るのは、もう慣れてしまったから。




2006/09/16 AM 09:10:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | [映画]

パンツのゴムが切れた日
火曜日、熊谷の得意先に行った帰りの電車。
午後3時過ぎ、車内は「籠原始発」だから、空いていた。

私が乗った車両には、誰もいない。
そして、いないまま発車した。
文庫本を読もうと思ったが、眼鏡を家に忘れてきた。
眼鏡がなければ、一行も読めない。

何となく車窓を見ながら、熊谷駅に着いた。
そこで乗ってきたのが、高校生四人組だった。
必要以上にシャツのボタンを外し、腰より下でズボンをはく男たち。
四人のうち、三人までが、毛を立たせている。

車両内は、いまだにがらがらの状態。
しかし、彼らは入口に座り込んだ。
意味がわからないが、これが今どきの高校生の間では、流行っているのかもしれない、と思った。

私は世間の大人と同じように、若者には甘い。
人様に迷惑をかけなければ、陰で煙草を吸おうが、酒を飲もうが許してやる。
たとえ、彼らの肺や肝臓がボロボロになっても、それは自己責任だ。
死にたければ死ねばいい、と思いながら、2メートル先の若者を見ていた。

四人のうち、二人の声がでかい。
一人は身体もでかい。
こいつがきっと、リーダー格だろう。
自然と肩をそびやかす姿は、虚勢を張っているのが見え見えで、可愛い。

四人のうちの二人は、ほとんど聞き役のようだ。
相づちを打ちながら、高い声で笑っている。
何が面白いのかは、理解不能。

この車両には、私たちしかいないので、彼らの存在は誰にも迷惑をかけていない。
だから、ただ何となく、彼らを見ていた。
目が悪いので、2メートル先でもぼやけてしか見えないが、車内の風景として、格段目障りでもなかった。

しかし、行田駅に着くと少し状況が変わった。
彼らのそばのドアから人が乗ろうとしたが、彼らの姿を認めて他のドアへ回っていった。
それを見て、私の心に小さな「さざ波」が立った。

次の吹上駅。また、同じようなことがあった。
彼らがいた関係で、他のドアから入った人が、またいたのだ。
私の心の「さざ波」は、はっきりとした波になった。

北鴻巣駅。
私は立ち上がった。
そして、彼らの前に立ち、「ごめんな」と言って、前を通ってホームに降りた。
そして、隣のドアから入って、またもとの場所に座った。

身体のでかいリーダー格の男が私を見ている。
降りる駅を間違えた、と思ったかもしれない。

鴻巣駅。
また私は立ち上がった。
そして、「ごめんな」と言って、先ほどと同じことをした。

若者が睨んでいる、ようだ。
そして、立ち上がった。
「あのよー」と言われた。
「おっさん」とも言われた。

「おっさん」と言われたら、返す言葉は一つしかない。
「なんだ、坊や」

彼の顔が明らかに険しくなるのがわかった。
見上げると、50センチほど前に顔がある。
陽に灼けた顔。
よく見ると、かなりブツブツがある。

坊やは、大きく息を吸うと、「何やってんだよ」とさらに顔を近づけた。
肌が汚い。女の子にはもてない顔だ。可哀想だ。
両手を見てみたが、握りしめたこぶしの上側の筋肉がいい形をしていた。
腕っ節は強いかもしれない。

「入口が邪魔だった。ただそれだけ」
「なんだよ、誰にも迷惑はかけていないじゃねえか」
見解の相違、という言葉がある。
しかし、目の前のブツブツには、きっと理解できないだろう。
言うだけ無駄だ。だから、こう言った。

「じゃあ、俺も、迷惑はかけていないな」

ブツブツの顔がさらに近づいた。ほとんど前屈みである。
剃った眉毛のあとが、青々として醜い。
顔一面にブツブツが浮き上がっている。見るに耐えない。

「迷惑だろ、降りるわけでもないのに、二度も俺たちの前を通ってよ」
「迷惑だと思ったら、なぜ通した。嫌なら阻止すればよかったんじゃないか」

眉間に皺が寄る。目が細くなる。
ブツブツの背は私より低い。だが、体重は私がライト級だとしたら、スーパー・ミドル級以上か。おそらく20キロ近く重いだろう。
パンチの差は歴然である。
ただし、相手がボクサーの場合は、だ。

ブツブツの身体が動く寸前、私は言った。
「俺、ボクシングやってるけど」

これは実に微妙な言葉である。
嘘ではない。
10数年前に確かにボクシングジムに通っていた。
ただし、今はやっていない。

ボクシングの経験があるという意味であれば、嘘ではないが、今現在、と取られたら確実に嘘である。
ブツブツは、私を見た。

私の外見は、ヒョロッとした優(やさ)男である。
普通に見る限り、私とボクシングは結びつかない。
普通は、侮(あなど)る。
彼もそう思っただろう。
顔に冷笑が見えた。

おっさん、冗談はよせよ。その弱々しそうな身体で、ボクシング? 笑わせんなよ。

だが、私にも特技がある。
目だけに、凶暴さを出すという、高等テクニックである。
友人の尾崎に教わったものだが、これは簡単にできるものではない。
すべてを投げ出す覚悟が必要である。

どうなってもいい、という気持ちを目にだけ籠めるのだ。
殺気、とは違うが、目だけで覚悟を表現するのだから、これが意外と難しい。
練習したわけではないが、覚悟の持ち方だけは、尾崎に教わった。

ブツブツの目に、かすかに脅えが見えた。
こうなったら、最初に怯(ひる)んだ方が負けである。
私が膝の上に載せたバッグを座席の横に置いて立ち上がる振りをすると、今まで様子を窺っていた三人のうち、一番声が大きいのが来て、ブツブツの腕を掴んだ。

「行こうぜ」
ブツブツは私の顔を見ずに、素直に他の三人と隣の車両に移っていった。いい子だ。
四人とも、私の顔を一度も見ることなく、今度は行儀よく座席に腰を下ろした。

それを見て、尾崎だったら、あんな高校生の行為など、抛っておいたに違いない、と思った。
そのあたりが、喧嘩の達人である尾崎と、私の違いだ。
あの程度の高校生なら、尾崎の場合、凄みのオーラを滲ませるだけで、竦(すく)ませていたことだろう。

尾崎と私とでは、風格と人間の器が違う。
細かいところで、我慢が効かない。
私は、小さな人間である。

若い子どもたち相手に、楽しいゲームができたことだけで、少しいい気になっていた。

家に帰って、部屋着に着替えようとしたときのことだ。
自分の情けない現実に気付かされた。
落ち着いていた、と思っていたのだが、知らない間に下っ腹に力が入っていたのだろう。

パンツのゴムが切れていたのだ。




2006/09/14 AM 09:56:01 | Comment(2) | TrackBack(0) | [日記]

ジャブだけでKOされるメディア
形ばかりの「自民党総裁選」が始まった。

アベ氏に決まっているのに、何を無駄なことを…、と言ってはいけないのか。
総裁選前のアベ雪崩現象は、マスコミの事前の「人気投票」も手伝って、予想通りの展開になった。
議員先生方とメディアは、アベ氏をどうしても総裁にしなければ気が済まないようだ。

議員は大臣のポストが欲しい。
メディアは、「ぶら下がり記者会見」の権利が欲しい。
新総裁には、へそを曲げられては困る。だから、「仲良し関係」を築きたい。
政策などは、どうでもいい。
彼らが心配しているのは、いかに時流に取り残されないようにするか、だけ。

私の知る限りのアベ氏は、明瞭な意思表示をしない男に見える。
靖国参拝などに関しても、逃げている印象がある。
そのくせ、アジア外交に関しては、表面上は強面(こわもて)ぶりを演じている。

都知事イシハラと似ている、と言ったら意外に思うかもしれないが、私の感覚ではそれに近い。
イシハラ氏はボクシングで言えば、ジャブが得意だ。
威勢のいい言葉を最初に投げつけて、相手を立ち止まらせる。

日本のメディアは、イシハラ氏のジャブに怯(ひる)んで、シッポを巻く。
小心さを隠す(反論されるのが怖い)ためのジャブに過ぎないのだが、国内では有効だ。
しかし、国際的にはジャブだけではダメだ。
ストレートやフック、アッパー、ボディとパンチが繋がらなくては、相手にしてくれない。
それが「外交のテクニック」というものだ。

イシハラ氏が政治家として何もなし得ていないのは、ジャブしか打てないからである。
言葉だけで、実力が伴わないことを、諸外国に見透かされている。
アベ氏もそのあたりが似ている、と私は思うのだ。

アジア、特に北朝鮮に対して、ジャブは放つが、それだけだ。
有効打が続かない。
イシハラ氏と同じように、言葉だけだから、諸外国にとっては与(くみ)しやすい。

そのことはメディアも薄々気付いているだろうが、彼らは強面に弱い人種だから、首をすくめるだけである。
そして、新しい総裁に対し、すり寄っていく。
その結果、彼の威勢のいい言葉だけを伝える。

まるで、ジャブだけは一級品の亀田興毅を「大スター」扱いしたときのように、遠巻きにしながら、ご機嫌を取る。
そして、ひとたび墜ちれば、完膚無きまでに叩く。
ただし、政治家に関しては、彼らが腰縄をかけられるまでは、メディアは寛大で辛抱強い。

まだ反撃する力が相手に残っている間は、じっと様子を見る。
報復が怖いから…………。

アベ氏を見ていると、政治家としての資質はあるように思える。
彼は、人に言葉尻を捉えられないように、曖昧な発言しかしない。
経済に関しては、踏み込んだ発言をしない。
意味のない笑顔で、好感度アップを狙う。
他人の意見は聞いているふりをして、実は聞いていない。

さすが政治家の家系で育っただけのことはある。
しかし、政治家としての資質は、それだけだとも言える。

彼がもし本当の政治家としての気概を持っているなら、コイズミこそ斬るべきだ。
その上で、アベ流を創生するなら、政治家らしくない政治家として、歴史に名を残すだろう。

しかし、前任者に「いいとこどり」だけされて、政権をぶっ壊されたら、ピエロである。
ただ、ピエロは可笑しくも悲しい役どころだから、あれはあれでけっこう難しい。

前任者は「大根役者」。
そして後継者は、ピエロ。
いずれにしても、三文芝居はまだまだ続くのか。


2006/09/12 AM 09:53:49 | Comment(0) | TrackBack(1) | [メディア論]

不器用すぎる親子
東京の広告代理店からポスターのデザインを頼まれた。
ある商店街の秋祭りのポスターである。
はっきり言って、難しい仕事ではない。
昨年撮影された、神輿を担いだ集合写真を大きく扱って、あとは場所と日にちを提示するだけのA1サイズのポスターである。

誰でもできる、想像力や工夫を必要としない仕事だ。
しかし、仕事は仕事。
手を抜くと、後味が悪い。

そこで、早めに仕上げ、サンプルとしてレーザープリンタのA3ノビで分割してプリントし、4枚貼り合わせてA1にしたものを、クライアントに見せた。

「Mさん、わざわざA1でプリントしてくれたんだぁ。別に縮小したものでも良かったのに…。校正ができればいいんだから、A3でも構わなかったのに」

「いやいや、これはA3ノビを4枚貼ったものです」と私が言ったら、「まさかぁ、こんなにキレイにいくわけが……」と言って、担当者はサンプルに目を近づけた。
そして、「おーい、サクライ」と大きな声で同僚を呼んだ。

「見てみろ、これ」
呼ばれたサクライさんは、担当者が指し示すものを見て「ああ、いいねえ」という、素っ気ない感想を漏らしただけ。

担当者は、じれったそうに「バカ! もっとよく見るんだよ。これ貼り合わせてあるんだぜ」と言って、サクライさんの頭を抑えつけるようにして、ポスターに近づけた。

「ええー! アリャリャ!」
サクライさんは、お笑い芸人並みのリアクションで、大きくのけ反った。

おそらく30センチぐらい目を近づかせなければ、これが貼り合わせたものだということを判断することはできないだろう。
自慢ではないが、それほどよくできた貼り合わせである。

「Mさん、器用ですねえ。芸術ですよ」
と誉められた。
その結果、このポスターは校了になったら、20枚を大型インクジェットプリンタでプリントする予定だったが、これほど精密にできるなら、貼り合わせの方が安くつくということで、すべてを貼り合わせで誤魔化すことになった。

そのうちの2枚はパネル貼りにして、残りはラミネート加工して商店街に貼るらしい。
貼り合わせの他、このパネル貼りも私の仕事である。
A1のパネル貼りは難しいが、ある方法を使うと、貼った面がシワにもならず、空気が入ることもない仕上がりになる。
パネル貼りで失敗したことは一度もない。

「Mさん、どうしたら、そんなに器用になれるんですか」
と聞かれたが、私は曖昧(あいまい)に笑うだけだ。

実は、私は人一倍不器用なんですよ、といっても謙遜か嫌みにしか聞こえないだろうから…。

しかし、本当に私は不器用である。
子どもの時から、それは変わらない。
不器用は直らないものだ。

しかし、不器用を不器用に見せないよう、工夫することはできる。
それが、根気である。
我が家の高校一年の息子と小学五年の娘は、私の血を受け継いだのか、不器用である。
それに対して、ヨメは裁縫や編み物などが得意なので、器用な部類に入るだろう。

息子は、根気がないので不器用丸出しだが、娘は根気がある。
だから、ヨメも彼女のクラスメートも、彼女のことを不器用だとは思っていないようだ。
私ひとり、「あー、俺に似て不器用で、可哀想なやっちゃ」と嘆いているのである。

小学五年になると、家庭科で裁縫の授業がある。
娘は、学校から帰って来るなり、私にこう聞いた。
「ねえ、玉止めって知ってる?」
「ああ、何となくね」
「じゃあ、やってみて」

やってみた。
それを見た娘は、「もう一回」と言った。
もう一回やった。
「そうか、そうやるのか」

どうやら、彼女は授業で「玉止め」ができなかったらしい。
聞いてみると、女子の8割はできていたという。
娘は、できない2割に入ったことが悔しかったのだろう。

彼女は、一時間ほど自分の部屋に籠もった。
そして、出てきて、嬉しそうに「見て見て」と言った。
上手に「玉止め」ができている。

一人で懸命に練習したのだろう。
額に汗が浮かんでいる。
それを見ると、「この子は本当に俺に似ているな」と思う。
自分が不器用なことが悔しくて、ひとが見ていないところで、それを懸命に克服しようとする。
そして、人前では何ごともなかったように、振る舞うのである。

ヨメは、自分の娘が不器用だということに気づいていないから、「玉止め」ができないなどと聞かされたら、こう言うに決まっている。
「何でこんな簡単なことができないの。真剣に先生の言うこと聞いてるの? 真面目にやらなきゃ駄目だよ」

こんなことを言われたら、娘は確実にヘコむ。
だから、同じ悩みを共有する親父にだけは、うち明けるのだ。

こいつなら、私の苦しみがわかってくれる(?)。

娘は、高熱で苦しんでいても、決してひとには言わない。そのことを懸命に隠す。
怪我をしても、平気な振りをする。
ひとから罵られても、顔色を変えない。ひたすら我慢する。
誤解されても、言い訳はしない。

要するに、可愛くない人種である。

娘のこれからの人生、この性格で苦労するかもしれないが、私はそれでいいと思っている。
なぜって、私がそうやって生きてきて、格別不都合を感じなかったから。
自分が器用なことをひけらかすやつはたくさんいるが、そんな奴らは抛(ほう)っておけばいい。

器用か不器用かは、その人の個性であって、優劣を決める尺度ではない。
そして、器用なやつが高尚な人種であるという根拠など、どこにもない。
器用で損をするやつもいれば、不器用で得をするやつもいる。

それは、どっちにしても、大したことではない。

娘は、私が料理の時に見せる素早い包丁さばきや、ギターをスリーフィンガーで弾くのを見て、「こいつにできるなら、私にも絶対できるはず」と密かに思っているはずだ。

こんな不器用なダメ親父でも、娘には身近な目標になっていることに、私はこの上ない満足感を持っているのである。



2006/09/10 AM 09:42:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | [子育て]

娘と過ごした八月
学校の夏休みが終わって、一週間以上がたった。
正直、気が抜けている。

高校一年の息子は、夏休み中、部活や合宿があったので、忙しい毎日を送っていた。
それに対して、小学五年の娘は、夏休みの最初こそ、友だちと遊んだりしていたが、八月になると夏風邪を引いて、それが予想外に長引いた。

咳が三週間以上続いた。
泣き言を言わない子なので、こちらが症状の重さに気付くのが遅れて、医者に連れて行ったときは、気管支炎になる寸前だった。
申し訳ないことをした。

その結果、娘は八月いっぱいをほとんど、家で過ごすことになった。
パソコンをいじる時間が増えた。

我が家にはウィンドウズ2台とマック3台のPCがある。
ウィンドウズは、ヨメと娘が一台ずつ使い、マックは私が使っている。
娘はいつもなら、自分のPCを動かすのだが、この夏は私の仕事部屋のマックを使って、インターネットやお絵かきソフトを動かしていた。
ウィンドウズよりマックの画像の方がキレイだという理由で。

三台のうち一台は、「Tiger」を使って、「iTunes」で音楽を流しっぱなしにしている。
これはG3/300MHzに800MHzのアクセラレーターを付けて、使っているものである。
ほとんどMP3プレーヤー化していて、たまにAGFAのスキャナを使うときに活躍する程度である。

この夏、娘はこのPCをいたく気に入っていた。
このPCには、「iTunes」の他に、AdobeのPhotoshop,Illustrator,GoLiveのCS版とShade8が入っている。
娘は、この中のPhotoshopとIllustratorを連日動かしていた。

つまり、八月いっぱいは、ほとんど私の隣にいたことになる。
仕事の邪魔をする子ではないので、仕事に支障をきたすことはない。
「iTunes」で、お気に入りのYUI倖田來未ジャンヌダルクを聞きながら、「ベジェ曲線」と格闘していたのである。

マウスではやりにくいだろうと思って、ペンタブレットを買って取り付けたが、使ってみた結果、マウスの方がしっくり来るということで、ペンタブレットはお蔵入りになった。

PCでお絵描きするに当たって、基本的なことは私が教えたが、娘はマニュアルも読まずに、独自の方法で「オリキャラ(オリジナルキャラクター)」を書くことに熱中した。
そして、私の仕事が一段落したのを見計らって、「おまえ、よくこんな面倒臭いソフト使ってるな」といいながら、疑問点を聞いてくる。

教えたあと、娘はうまくいかなかった箇所を、何度も繰り返して練習していた。
私よりはるかに根気が続くようだ。
見直した。
冒頭の画像は、フォトショップで作った始めての作品である。
たいしたものだ(親バカ)。

昼は、一緒に料理タイム。
我が家のメシは私が一手に引き受けている。
夕食は工程が複雑になるので、娘は邪魔になると悪いと思ったらしく、「昼メシ作るの手伝ってやるぞ、教えろ」と言って、昼飯の時だけキッチンに立つようになった。

シーフードスパゲッティ、ドリア、ラザニア、グラタン、リゾットなど、イタリアンを中心に教えていった。
時に強力粉を使ってパンを焼いたり、ホットケーキミックスを使ってドーナツなどを作る。

娘は、私に似て不器用である。
ただ、根気を持続させるという能力は人一倍持っている。
だから、集中力が高い。
メモを取りながら、料理を覚えていった。
小学校のクラブでは、「料理クラブ」に入っているから、これらの料理はきっと彼女にとってかなり役に立ったと思う。

「こんな簡単に美味い料理が作れちゃっていいのかよ」
と言いながらも、娘は嬉しそうだ。

そんな八月だった。
しかし、学校が始まると、当然ながら娘は学校へ行く。
私のそばで懸命にフォトショップを動かしている姿を探しても、今はない。

最初のうちは、その状況に慣れることができなかった。
気が付くと、いつの間にか娘の姿を探しているのだ。
そして、いないことに気付いて、ため息が出る。

「おまえは、娘が結婚したら、絶対泣くだろうな」
とみんなから言われる。

あー、絶対泣くさ。
もしかして、この世の終わりが来たと思うかもしれない。

だが、今は実感がない。
娘に彼氏ができて、彼氏を紹介されて、そして結婚。
このお決まりのパターンを想像することができない。

娘は、野蛮な馬鹿が嫌いだ。
そして、小学生の男の子のほとんどは「野蛮な馬鹿」だから、今は安心である。

「あいつら、同じ人間とは思えないぜ」
と嘆く娘に、当分は彼氏ができる気配はない。
しかし、いつかはきっと……。

いや、そう思うことがすでにおぞましい

だから、今はただ、早く冬休みが来てくれないか、と思う今日この頃である。



2006/09/08 AM 11:39:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | [子育て]

デジカメの画像はクセモノ
チラシやカタログなどの仕事の場合、得意先から、先方で撮ったデジカメの商品画像を使って欲しいというケースが増えた。
一見、こちらの手間が減って楽そうに見えるが、意外とそうでもない。
ひどい画像が多いのだ。
大体が、暗い。ぼやけている。メリハリがない。
蛍光灯の灯りで撮っているから、まったく奥行き感がない。

当然のごとく、フォトショップで加工するのだが、あまりひどいと修正が効かないことがある。
ベタ部分が潰れているものは、どういじっても潰れたままである。
「この暗い部分には溝が掘られているはずなのに、その溝が見えない」
と抗議されても、最初から映っていないものを、どう修正しろというのか。
想像で溝を書けと言われても、現物がなければ書けない。

フォトショップは万能ではない。
私など、自慢するわけではないが、欠陥だらけのデザイナーである。
そんなこと、できるわけがない(開き直り)。

そんなに大事な商品なら、専門家に任せて欲しい。
はっきり言わせてもらうが、シロートがいい写真を撮れる確率など、よほどの幸運がない限り、ゼロに近い。

デジカメは簡単に撮れる。
仕上がりも綺麗になった。
だから、デジカメ万々歳! というのは、シロートの発想である。

この件に関しては、メーカーも悪い。
誰でも綺麗に撮れるような宣伝をして、勘違いを助長している。
スナップ写真なら、それでもいいかもしれないが、仕事で使うことを前提にするなら、スナップ写真のような画像では見る人に失礼だろう。

簡単に撮れる、イコールいい写真が撮れることではない。
そのあたりを勘違いしている人があまりにも多すぎる。
デジカメの2.5インチの液晶モニタで綺麗に見えたからといって、そのまま印刷物用に使えるわけではないのだ。

誰でも気軽に扱える、誰でもいい写真が撮れる、と宣伝するメーカーの戦略に乗せられて、デジカメは市民権を得たが、それはあくまでもパーソナルな分野に限られる。
商品の良さをアピールする商品画像の場合は、シロートに撮ってもらっては困る。迷惑だ。

クライアントは神様です、という人なら、それがどういう結果をもたらそうが、言いなりになるだろう。
しかし、少しでも良いものを作りたいと思っている「ひねくれデザイナー」としては、「シロートが手を出すんじゃネエよ」という気概を捨てるわけにはいかない。

そこで、今回は、知り合いの印刷会社の「撮影用ブース」を借りて、商品を撮り直した。
これは、元々は私が自作したものだ。
我が家は、自慢ではないが大変狭いので、印刷会社さんの一室を借りて、そこに置かせてもらっている。

横幅80センチの立体ボックスを作って、その中に2種類のバックスクリーンを交換して使えるようにしたものである。ライトは「ドイト」で適当なものを買ってきて据え付けた。
バックスクリーンは青と、薄いグレーのグラデーションの2種類を、商品に合わせて使っている。

私が商品画像9点を撮っていると、印刷会社の社長が寄ってきて言った。
「Mさん、ついでにこれも撮ってくれないかな」
見ると、立派な書道の掛け軸である。
自分で書いたものらしい。
躍動感溢れる書体で、「忍耐」と書いてある。
右隅に社長の落款が押してある。

要するに、自慢である。
おそらく、褒めてもらいたいのだろう。
だが、社長は相手を間違えた。

私の母は、書道の達人だ。
だから、書を見る目は肥えている。
母と比べたら、この程度の作など、赤子と大人の違いがある。

私は正直者だ。
だから、「はい、撮っておきます」とは言ったが、褒めたりはしなかった。
社長は明らかに気分を害したように、私をにらみ据えて、その場を離れた。

「忍耐」は書だけか!

こちらは真剣勝負で、商品撮影をしようとしているのだから、それに集中したい。
しかし、ヒマな中小企業の社長には、それが理解できない。
自分の作が褒められることを期待していたものだから、私は完全に悪者になった。

撮影を終わって、帰りの挨拶をしたときこう言われた。
「あの撮影用ブース、邪魔だから持って帰ってくれないかな」

私は、そういうことをストレートに受け取るタチだから、素早く折り畳んで持ち帰ろうとした。
すると、社長は慌てて、「冗談だよ、冗談。これ意外と活躍してるからさ、置いといて構わないよ」と言った。

デジカメも面倒臭い機械だが、人間もけっこう面倒臭いものである。



2006/09/06 AM 08:45:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | [Macなできごと]

「てんや」で990円の贅沢
日曜日だったが、仕事の打ち合わせで、大宮に出てきた。
11時からの打ち合わせは、予想より長引いて2時間近くかかった。
終わったあと、携帯電話の時計の表示を見てみると、1時5分前だった。

朝飯を食べないで出てきたので、かなり腹が減っている。
昼飯を食わねばならない。
いつもなら、財布には4百円前後しか入っていないから、食うものは決まっている。
駅の立ち食いそば屋で「かき揚げそば」を食うか、ホカ弁屋で「のり弁当」を買って公園で食うか、コンビニでおにぎりを買って、ホームのベンチで食うか、あるいは昼飯抜きか、のどれかである。

しかし、今日は珍しいことに、財布の中に千円札が入っている。
だから少し贅沢ができる。

なぜ、千円札を持っているか。
得意先でデータをコピーするために、プラスチックケースに入ったMOを持ってきたのだが、MOを取り出そうとケースを開いたら、一枚の千円札が折り畳んだ状態で入っていたのだ。

私は必ず、MOを買うと、ケースの外側にマーカーで番号を書いておく。整理しやすいように、使った順番を書いておくのだ。
このケースには、「191」という数字が私の筆跡で書いてあったから、間違いなくこれは私のMOである。
MOのケースに千円札を入れた記憶はまったくないが、このMOが私のものである以上、この千円札は私のものであるはずだ。

だから、この千円札は、私が使ってもいいという理屈は正しい(はずだ)。
この推理と結論は、おそらく間違っていないと思う。
この推理は、どこも破綻していないという自信がある(?)。

そこで、贅沢をしようと思って、大宮ソニックシティの界隈をぶらついてみた。
日曜日の昼過ぎ。人は多い。どこの店も混んでいそうだ。
界隈には、ラーメン屋、中華料理屋、寿司屋、ファーストフード店、洋食屋などがあって、バラエティに富んでいる。
どれもうまそうだ。しかし、よく考えてみると、千円というのは中途半端な金額である。
私にとっては、かなり贅沢な金額でも、気取った店や客にとっては、ステータスにはなり得ない金額である。
中には「ランチ1480円」などという、気の狂ったような金額を、得意気に飾った店もある。

贅沢な世の中になったものである。

しかし、本当は私の心の中では、すでに決まっていたのだ。
かなり以前から、財布に余裕があったら入ってみたいと思っていた店があった。

天丼てんや」である。
安くて旨い天麩羅を出す、と言われている店だ。
しかし、安いとはいっても、さすがに4百円では食えない。だから、諦めていた。

だが、今日は違う。
千円札を持っているのだ。
店の前を2回、挙動不審者のごとく往復して、意を決して入ってみた。

入って最初の印象は、明るいこと。
そして、奥行きが結構ある。
「へ、らっしゃい!」という掛け声とともに、カウンターに案内された。

お茶を前に置かれた。
そして、店員は何も言わずに離れていく。
ゆっくり考えて注文してくれ、ということだろう。
しかし、頼むものは最初から決まっていた。
ただ、それが千円以内でおさまるかが問題だった。

メニューを取って素早く金額を計算した。
暗算は得意だ。ほとんど間違えたことがない。
スーパーなどでも、買い物しながら電卓なしで計算して、予算内に必ず収める。計算結果は、1円と狂ったことがない。
もっとも、買う金額が少ないので、ハズしようがないとも言えるが……。

今回もほぼ1秒で計算した。
990円。
「野菜天丼(500円)」に「キスの天麩羅(90円)」をトッピング、そして「生ビール(400円)」。
見事なものである。

店員を呼んで、誇らしげに、この3つを注文した。
そして、茶をすすろうとしたら、「へ、待ち!」と言われて、生ビールがやってきた。
20秒もかかっていない。
見事なものである。

生ビールを飲みながら、右隣を見てみると、頭髪の薄い60年配の男の人が天丼を食っていた。
スポーツ新聞を読みながら、天丼を掻き込んでいる。
私はこういう光景が好きではない。
本やマンガを読みながら食事をしたり、テレビを見ながら食事をするという神経がわからない。

メシを食うことと、本を読むこと、テレビを見ることというのは、まったく別の行為ではないか。
それをなぜ一緒にやろうとするのか。
おまえ、そんなに忙しい人間なのか! 何をそんなに急いでいるのだ!
そもそも、何かをしながら飯を食うなど、作ってくれた人に対して失礼ではないか!

だから、私はラーメン屋や定食屋などに雑誌や新聞が置いてあったりすると、「ああ、この店は味に自信がないから、こんなものを置いているんだな。それをサービスと勘違いしてるんだな」と考えて、食欲が一気に落ちる。

このように批判的な目で観察していると、禿げた親父は、天丼を食い終わったあと、私が想像したとおりのことをし始めた。
爪楊枝を取って、シーハーシーハーやり始めたのである。
そのあと、ご丁寧にお茶で口をブクブクさせている。

マンガだな、と呟きながら、生ビールを飲んでいると、私の席に天丼がやってきた。
ルックスは見事なものである。
それぞれがいい色をしている。
盛りつけも上品だ。
あとは、私が作る天丼と比べて、どの程度美味しいか、だ。

まずは、カボチャからいってみる。
箸でつまんだだけで、サクサクした感触が伝わってくる。
カボチャは薄く切ってあるが、しなっとしていない。
一口食べてみる。熱いが、うまい。
タレの乗ったご飯の部分を食べてみる。熱いが、やはりうまい。
合格である。

ナス、いんげん、いも、キスなどを食べてみたが、私の作るものより、美味い。
素材の味が損なわれていない。
私が作ると、たまに揚げすぎたりして、素材が柔らかくなることがある。
外側はカラッとしていても、中がしっとりし過ぎる場合があるのだ。
さすが「てんや」だ。
見事なものである。

食べ終わって、となりを見ると、シーハーシーハー親父は、爪楊枝をくわえながら、ふんぞり返ってスポーツ新聞を読んでいる。
入口には、席が空くのを待っている客が二人。
食い終わったら、さっさと席を立つのが、こういう店の礼儀だろう。
無神経なやつだ。

私は、すぐに席を立った。
それと同時に、隣の禿げ親父は、大きなゲップをした拍子に爪楊枝を飛ばした。

絞め殺したくなる衝動を、かろうじて抑えながら、私はレジで誇らしげに千円札を出した。



2006/09/04 AM 10:33:59 | Comment(0) | TrackBack(1) | [日記]

モザイクの世界
事件の被害者というのは、死に損である。
自分の意思にかかわらず、その人の時が突然に止まる。いや、停止させられる。
昨日から今日へ、当然のように流れる時の流れが、その人だけ遮断されるのだ。

理不尽としか言いようがない。

犯罪者にも事情はある。
だからこそ、弁護士という職業が儲かっている。
その道理はわかる。
やむを得ない犯罪というものがあるのかもしれない、という想像力を働かせることはできる。
その人たちの言い分を聞くことは、決して無駄ではないだろう。

しかし、そんな現実を差し引いても、被害者は、無惨だ。
未成年者の場合は、特にそれを強く感じる。

犯罪者は未成年の場合、顔も名前も出ないのに、被害者は出てしまうのだ。
名前と顔を晒(さら)され、近所の風景も晒され、友人知人や恩師の他に、野次馬的な第三者までもが登場人物に加えられる。
彼らは好むと好まざるとに関わらず、犯罪劇の登場人物にさせられるのだ。(中には、積極的に登場したがる人もいるようだが)

未成年の被害者は、過去の写真を探し出され、衆目のもとに晒される。
映像があれば、その映像も晒される。
晴れやかな笑顔で日常を飾る彼らの姿と、いったいその犯罪とどんな関係があるのか。

こんなにも罪のない彼らの日常を壊した犯人が憎い。
犯罪に巻き込まれなければ、彼らはこの先もこの笑顔を人に見せることができただろう。
犯罪者は彼らからその機会を奪ってしまった。何と痛ましいことか…。
メディアは、この映像を使って、そう訴えたいのだろう。

だが、そんな映像などなくても、犯罪の酷(むご)さを伝えることは可能なはずだ。
被害者の日常を晒すより他に、手法を持たないニュースメディアというのは、確実に凶器である。
刃を被害者の方に向けている。

他の局と少しでも違う映像こそ特ダネである。
まるで、被害者にプライバシーなどない、と言わんばかりだ。

被害者たちは、関係者たちへのインタビューの中で、彼(彼女)の日常生活を暴かれ、たった数人の評価で、その人格を特定される。

明るい人だった。
優しい人だった。
礼儀正しい人だった。
取っつきにくい人だった。
派手な人だった。
トラブルをいつも抱えた人だった。

被害にさえ遭わなければ、彼らはそんな風に片方の視点だけで人格を定義されることなど、なかったに違いない。
たった数人の声が、彼らの人格を決定づける。

そして、未成年の犯罪者は、モザイクの向こうでどんな顔をしていても、晒し者にはならない。
たった数人の評価で人格を特定されるのは、被害者と一緒だが、奇妙なことに、彼らはモザイクの世界で完全に守られている。

被害者には未来がない。
しかし、犯罪者には未来がある。
未成年者なら尚更だ。
その未来を、モザイクで守ろうということなのだろう。

しかし、被害者に未来がないからといって、被害者の過去を晒し者にするという手法が、平然と常態化するというのが、私には理解できない。
だから、私はこう思う。

被害者は、二度殺される。

そして、犯罪者は、モザイクの世界で、たやすく未来を手に入れる。
さらに、メディアは報道しっぱなしで、終わる。



2006/09/02 AM 10:01:06 | Comment(1) | TrackBack(0) | [メディア論]



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