Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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オレ流教育
月曜日提出予定の仕事の目途がついた頃、娘が仕事部屋に入ってきた。

小学校低学年の頃は、よく仕事の邪魔をしに来たが、5年ともなると、さすがに親の仕事がわかってくる。
「この時間帯は、邪魔をしてはいけない」と、自分で判断して「今なら大丈夫だろう」と見当を付けて、顔を出す。

「あのさあ、都道府県の場所がよくわからないんだけど、どうやって覚えたらいい?」

どうやら、授業で都道府県の位置や物産に関してやっていて、それを暗記しなければいけないようだ。
娘は、算数、理科、音楽、図工は得意だが、暗記物は苦手。

いつも「面倒くさっ!」と言って、「こんなもの地球から消えてしまえばいい!」などと、毒づいている。

私も子どもの頃は暗記が苦手だったので、その気持ちは分かる。
だから、今回もこう答えた。

「無理に覚えなくてもいいよ。大人になれば自然に覚えるから、焦ることはない。今は、自分の住んでいるところさえ分かっていれば充分」
(実際、私も子どもの頃、この地図を覚えるのが苦手で、全く頭に入らなかった。しかし、今はすべて把握している。特別なことは何もしていないから、無意識に覚えてしまったのだろう)

「えー、でも、覚えないと、成績に響くぞ」
「他が良ければいいだろ。都道府県を覚えるのだけが勉強じゃない」
「あっ、そうか。そうだな、じゃあ、算数ドリルでもやるか」
「そうしなさい」

次に顔を出したのが、息子。
「あのー、化学式がよくわからないんだけど」

高校の中間試験の化学で「化学記号・化学式」が出るらしく、さっぱりわからないと言う。

「君は暗記が得意なんだから、とにかく丸暗記しなさい。何がどうした、と覚えるより、ひたすら丸暗記。それで、点が取れなかったら、しょうがない。あきらめようぜ」
「そうか、そうだね。丸暗記してダメなら、それでいいか」
「そうそう」

いい加減な親である。

ヨメは、点数や通知票の結果にうるさい(母親はどこもそんなもの)が、「わけのわからん基準で評価されても、参考にならん」と思っている私にとって、学校の評価は重要ではない。(というか、信じていない)
だから、子どもに対して、こういう接し方になる

ヨメと息子は、成績(結果)に一喜一憂するが、私と娘は、良くても悪くても、「通知票なんか、ウゼェ!」と、露骨に思っている。

たとえば、小学校5年生にも、色々な子がいる。
これは、当たり前のこと。しかし、教育界というのは、システム上そのことに目をつむっている。
お偉い官僚さんは、規格外が嫌いだから、先ず「切り捨てること」を考える。

クラスには、早熟な子もいるし、晩稲(オクテ)の子もいる。
ずっと人の陰に隠れている子もいれば、「俺が俺が」という子もいる。
たまたま表現方法を知らないだけで、他人に誤解を与える子がいる。

しかし、だからといって、人はずっと早熟なわけではないし、「俺が俺が」という子も、何かの拍子で急に物わかりが良くなったりする。あるいは、突然人間関係に目覚めて、自分の「言葉の暴力」に気付く子もいる。
それが、「成長過程」というものだ。
そして、「成長過程」には個人差がある。

だから、その「成長過程」を鋳型にはめ込んで、一緒くたに評価するというのが、気にくわない。
そして、その一番の問題点は、その評価の幅が狭すぎることだ。
その狭さは、官僚の心の狭さだ。平均点の人間を好むのは、管理がしやすいからだろう。
それに、「点数が高い子だけがいい子」という評価に偏りやすい。
私は、異端児をすべて「半端もの扱い」するのは、「教育の自殺」だと思っている。

だから、気にくわない。

学校が杓子定規なら、せめて我が家では、その鋳型を外してやろう。
そう思っている。

それが我が家の教育。というより、私の教育。
一方、ヨメは、「学校評価が絶対」というのを捨てきれない。
しかし、それはそれでいい。
私の考えを彼女に押しつける気はない。
彼女は常識人だから、非常識人の私とうまい具合にバランスが取れている。

だから、私は家族に対しては、「押しつけない教育」を貫いている。

こんな父親だからだろうか。子どもに対しては、威厳がない。
小言を言っても、怒ったふりというのを見透かされて、「またまた、カッコいいこと言っちゃって」などと、茶化される。

たまに真面目なことを言うと、「今の話、オチがないぞ」と、ガッカリされたりする。
息子などは、怒られないのがわかっているから、ひどい点数でも平気で見せる。
娘は、「ほらほら、また百点だぞ。えらいだろ」と、ダンスをしながら自慢する。

彼らは、ヨメの前では、決してそんなことはしない。
ヨメの放つ「言葉のトゲ」が怖いので、触りたくないからだ。

そんな私が唯一、ヨメに対して優越感を持っていることがある。
それは、息子も娘も、幼い頃から私にだけベタベタすること。
彼らは、ヨメに対しては、寄りかかったり、体を触ったり、ベッタリと甘えたり、ということをしない。

娘は小学5年になってもいまだに、私の膝に座りたがる。
一緒に歩いているときも、二人とも、私とだけ腕を組みたがる。
プリクラも私とだけ撮る。

彼らにとって、母親は怖い存在である。
しかし、オヤジは全然怖くない。
トモダチ感覚。名前だけの父親。

しかし、よく考えてみると、これは一般家庭の全く逆ではないか!

これで……、いいんだろうか?
喜んでいる場合では、ないのかもしれない……。

ここからは、余談。

この間、ヨットスクール校長が、娑婆に出てきて、怪気炎を揚げていた。
曰く、
「体罰は教育だ!」

しかし、始めに体罰ありき、では、暴力団よりもたちが悪い。
どんな凶暴なお兄さんでも、最初からチャカ(拳銃)やドス(短刀)で脅すヤツはいない。

体罰前提の教育は、教育ではなく「支配」だ。

要するに、小心者の王が、自分より弱いものを支配したいだけ。
あるいは、王様になれない小心者が、支配する相手を見つけて、「支配者」を気取る遊びがしたいだけのことだ。
そんな人間が、教育者を気取るから、話が「教育」というきれいごとで論議される。

もう一度言うが、それは「教育」ではない。
だから、「教育論」でもない。
ただの「ごっご」だ。

「ごっこ」を真面目に議論するほど、無駄なことはない。

「暗黒裁判」「人権侵害」など、この裁判のあり方をかなり真面目に批判している人がいることは、知っています。

しかし、私は死者が出た時点で「彼の負け」という単純な視点で判断しています。

なぜなら、彼が責任者だから。
事故があって、責任者が責任の当否を求められるのは、どの社会でも当然だと思う。

有罪となった過程で、裁判の不備があったなら、それは大問題。
徹底的に闘えばいい。

しかし、死者が出たことと、それはまったくの別ものだと私は思っている。
彼の方法で、救われた人がいたことも事実でしょう。
しかし、失敗があった場合、「こんだけ成果が上がってるんだから、たまには失敗してもいいだろ、俺のせいじゃないかもしれないし」というのでは、プロの管理者とは言えない。

優秀な自動車整備工場で、100パーセント近い整備の実績があったとする。
しかし、そのうちのたった一台が整備のミスで大惨事を起こしてしまった。
そんなとき、整備士が「ミスはたまたま。他は完璧なんだから、いいだろ」と言っても、そんな言い分は通らない。

私は、ヨットスクールの件も、そんな風に単純に考えています。


2006/05/22 AM 10:11:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | [子育て]



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