Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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ブッチャケな追想
東京の中目黒に久しぶりに行って来た。

1年前からメールだけのやりとりをしているデザイナーがいて、機械の調子が悪いから見てくれないかと言われたので、出向くことになった。

機械は簡単に直り、持てあました時間を散策に当てた。

私は世田谷生まれの目黒育ちで、結婚するまで中目黒の自宅で暮らしていた。
だから、中目黒は私にとって、大変思い入れのある街である。

大雨の翌日には目黒川が氾濫して、必ず中目黒駅前のガード下のパチンコ屋が水浸しになったこと。

高校時代、駅前の書店で、土日だけバイトをしていたとき、たまたま高校2年の時の担任が客で来て、何となくばつの悪い思いをして笑ってしまったこと。

初めてのバイト代が入った日、母親を招待して駅近くの寿司屋で奢ったら、べらぼうに高くて、バイト代がほとんど寿司代で消えてしまったこと。

友だちと二人で目黒川沿いを歩いていたら、4人の不良グループに因縁を付けられて、大立ち回りを演じ、交番まで連れて行かれて警官に注意されたこと。

旅行費用が欲しくて、「目黒銀座(イセワキとも言った)」の奥まった駐車場で、無断でフリーマーケットを開いて、駐車場の持ち主に怒られたこと。

夜が明けて、まだ回りが白々として、寒くて、静まりかえった中を、中学の陸上部の仲間10人と「目黒銀座」の入口から突き当たりまで、100メートルダッシュを繰り返したこと。(1キロぐらいあったかな)

少し記憶をたどるだけで、過去が「思い出のスクリーン」に投影される。


駅前はかなり変わったが、商店街を歩いてみると、それほどの違和感はない。
あの時の俺。
そして、今の俺。
ただ、年を喰っただけで、昔と今の空間・時間を混在させて、普通に歩いている。

「目黒銀座」から「西銀座商店街」に入ると、居酒屋がある。
それは、26才の時、ヨメを初めて母親に紹介した居酒屋だ。
それがまだ、同じ佇まいで存在している。
入口近くの、木目の焦げたような部分が記憶通りに残っていて、思わず立ち止まって、木目を撫でてみた。

あの時、3人でビールを飲みながら、厚揚げとホッケを食べた。
「息子をよろしくね」と言いながら、母が涙を流すと、ヨメもつられて泣きだした。
男はこういう場面に弱い。
居場所がなくなったような気になる。

立ち上がって、トイレに行った。
ことさらに時間をかけて用を足したが、席に戻ると、二人して手を握りあって、まだ泣いていた。
なぜ泣くのか不思議だったが、おそらく本人たちに聞いてもわからないだろう。

二人の涙が止まるまで、ビールの大ジョッキを何杯か飲んだ。
何杯飲んだかは忘れたが、その時食べたホッケの旨さは、いまだに覚えている。
今でもホッケが大好物なのは、そのせいかもしれない。

商店街を突き当たりまで行って、左に折れる。
緩やかな坂を上って、駒沢通りを渡ってしばらく行くと「中目黒4丁目」になる。
両親は川崎へ越してしまったので、ここにはもう実家はない。だからここは、故郷(ふるさと)とは言えない。

ただ、27年間住んだ街。
道を歩いていて、よみがえるものは幾つかあるが、切なさのようなものはない。
体に染み込んだ道筋をトレースしながら、当たり前のように歩いていく。

住宅街にはいると、平日の昼間なのに「ガレージセール」をしている家があった。
外人が立っている。
おそらく、土日もやっていたのだろうが、すべてを売り切るまでやるつもりなのだろう。品数は驚くほど少ない。
数えると、8点ほどがガレージの前のシート上に置かれていた。

外人と目があった。
40歳前後だろうか。それほど背は高くない。だが、横に広い。要するに、肥満している。

「どうぞ、見ていってください。ベンキョーしますよ」

外人の口から流ちょうな言葉で、「ベンキョーしますよ」というのを聞くと、可笑しい。
つい笑うと、「土日に来てくだされば、もっといいのが沢山ありました。残念ですけど」と正確な発音で言って、紙コップに入ったコーヒーを渡してくれた。

「ああ、どうも」と言って飲むと、すごく甘い。
最初から砂糖が大量に入ったコーヒーだった。
「疲れたときは、コーヒーに砂糖を沢山入れて飲むと、すぐ疲れが取れます」
そう言って、彼はコーヒーを一気に飲んだ。

だから太るんだな、と思いながら、セール品に目を移すと、CDがあった。
見覚えのある表紙。
手に取ってみた。
ハービー・ハンコックの「ニューポートの追想」だった。

私が昔持っていたのは、CDではなく、LPレコードの方だった。
2枚組のライブ盤だ。

中・高・大学とずっと、陸上の短距離をやっていた。
大学3年の夏に、膝を痛めて、さらに腰も痛め、走れなくなった。
治療に専念しようと思ったが、何もしていないのはつらい。

何年間も体をいじめ抜いてきたから、何もしていないときの心の空洞、体の渇きというのが、我慢できない。
そこで、大学の「ジャズ研」に顔を出すようになった。
ジャズよりもロックの方が好きだったが、「ロック研」がなかったので、「ジャズ研」で我慢した。

ここでウッドベースを弾いてみないかと言われ、「はい」と答えた。
素人が簡単に引けるものではないが、「はい」と言ったら、なぜか全員から拍手をもらった。

そして、毎日5時間以上の練習をして、初めてマスターしたのが「ニューポートの追想」の中の「アイ・オブ・ザ・ハリケーン」だった。

「これは難しいから、もっと簡単なものにしたらどうか」と言われたが、簡単なものを簡単にマスターしたら、私の性格として、すぐに飽きる。
だから、難しい曲に挑戦した。

実際の「アイ・オブ・ザ・ハリケーン」のベースは、エレクトリック・ベースだが、ウッドベースしかなかったので、弾きやすいようにアレンジして覚えた。

自分のパートを必死で覚えて、ピアノ、ドラム、ソプラノ・サックスと実際にセッションをしたとき、途中のインプロビゼーション(即興演奏)で、完全に置き去りにされた。
焦ったが、キャリアと才能の無さは、どうしようもない。開き直って、ドラムと同じリズムをはじき続けた。
すると、ピアノとサックスもそのリズムに合わせてリードしてくれた。

20分以上のセッションが終わると、まるで100メートルダッシュを50回繰り返したくらいの疲労感に襲われた。
しかし、その疲労感も周りの拍手で、すぐに消えた。
両腕に、その時の心地よさがよみがえってきて、思わず左の掌(てのひら)を見る。

「それあげるよ」と、突然言われて、彼の方を見た。
私が驚いて、「いや、それはちょっと、いやそれは…」とうろたえていると、クマのような毛むくじゃらの手が私の右手を掴み、CDを掌に押し込まれた。

「昔を思い出していましたね。そんな思い出のあるものなら、あげるよ。思い出を売るつもりはないからね。お金はいらない」

しかし、それは私の個人的な思い出で、このCDに対する思い出ではない。
まして、今日初めてあった人に甘えるのは、気分のいいものではない。
私がためらっていると彼は、「じゃあ、これ買ってください。買ってくれたなら、そのCDあげますよ」と、デジタルのクッキングスケールを指さした。
外見はそこそこ綺麗だが、「あまりふっかけられても困るな」と思いながら、「千円なら」と答えた。

「えー! そんなに高くなくていいよ。ブッチャケ、300円で、オーケー」
その顔で「ブッチャケ」と言われたら、笑うしかない。

「じゃあ、ブッチャケ、300円で」と言って300円払ったら、「コーヒーもう一杯どお?」と言われたので、「それは、ブッチャケ、勘弁して」と手を振って、別れた。

50メートルほど歩いて振り返ると、軽くジャンプしながら手を振ってくれた。
まるで、トドがジャンプをしているような感じだ。

中目黒4丁目の住宅街から山手通に出て、中目黒駅まで歩いて戻った。

代官山駅か恵比寿駅、あるいは目黒駅まで歩いて、思い出に浸ろうかとも思ったが……、思い出は、ほどほどがいい。

思い出に浸りすぎると、ブッチャケ、おなかが一杯になって、胸焼けを起こす。



2006/05/17 AM 11:22:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | [日記]



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