Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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気にくわない
「俺たちの時代にシゴキなんてあったかな?」
大学時代の陸上部の仲間サエキが、友だちの近況報告の後、突然言い出した。
彼は、前歯が突出しているので、みんなから「出っ歯」と呼ばれていた(小学生並み。あまりにもネーミングセンスがないと今では反省している)。

「俺は殴られたことはないが、お前は何度か殴られていたような気がするが」
「ああ、でもあれは『愛のムチ』だよ。シゴキじゃない」

そうだろうか。
体育会系のクラブでは、鉄拳制裁は日常茶飯事のようだが、それは本当に「愛のムチ」なのだろうか。
「愛の」とついた時点で、暴力が美化されていないか。

私は仲間も後輩も殴ったことがない(威張るほどのことではないが)。
サエキが後輩を殴るところも見たことがない。

私は、自分たちがコントロールできない人間を「愛のムチ」と言って殴るのは、殴る方に原因があると思っている。
つまり、教える側の説明能力不足。あるいは、腹いせ。

これは極端な話かもしれないが、同じ大学の柔道部の友人は、大学1年の時、髪の毛が5ミリ伸びただけで「たるんでいる!」と言って、殴られたという。
さらに、柔道着を綺麗に洗濯して、真っ白な状態で道場に出てきたら、「ファッションショーをするつもりか!」と言って、殴られたという。

たちが悪い。
これでは、ただの言いがかりだ。
これは、殴りたいやつは、どんな些細なことでも理由をつけて殴る、という典型である。
そこに「愛」など、あるわけがない。

「愛の」と言った時点で、殴ることに対する言い訳になっている。
彼らの頭の中の構図では「自分もそうやって殴られて強くなったのだから、俺だって後輩を殴ってもいいんだ」という意識があるのだと思う。

後輩の時は、我慢して殴られていた。だが、俺が先輩になったら、後輩に同じことをしてやるぞ。
つまり、歪んだ伝統の連鎖の中で彼らは生きているのだ。
その歪んだ伝統を断ち切らないと、シゴキはなくならない、と私は思っている。

私がいた陸上部では、2年生が1年生を教える習慣になっていた。
2年生は、後輩に教えることによって、自分の練習方法を再確認して、悪いところは改めて、後輩と一緒に試行錯誤を繰り返す。
そして、3年4年は、後輩の指導はせずに、自分の練習に専念する。その方が、練習の質が上がるからだ。

3年4年が、後輩の練習に口を挟むことは、ほとんどなかった。
それは、極めて合理的な練習方法だった、と今でも思っている。

ただ、そんなときでも、陸上部OBの顧問から「たるんでいる」という鉄拳が下ることがあった。
そんなときは、完全ボイコットをした。
1年2年のうち誰か一人でも先輩や顧問に殴られたら、全員で示し合わせて、練習に出ないようにした。

もともと実業団に入りたいという希望を持っている部員が少なかったから、練習に執着していなかった。
それに、他の競技と違って、走ることはどこででもできる。
ボイコットの最中は、1年2年全員で駒沢公園に集合して、自主練をした。

部にこだわる必要がないという点では、我々は恵まれていたと思う。
2週間も部の練習に出ないと、必ず顧問がご機嫌伺いに来た。
話し合いをして、顧問は不承不承ではあるが、鉄拳制裁を詫びる、ということで一件落着した。
何度か、そんなことを繰り返すと、それが部の伝統になる。

その結果、私が3年になると「愛のムチ」は、ほとんどなくなった。
時に勘違いした別の熱血顧問が、部員を殴ることはあったが、その時は全員で練習をサボった。

練習するのは、本人であって、他人ではない。
他人に気に入られるために、我々は練習をしているわけではない。
他人に「お前らの練習、気にくわない」と言って、殴られる謂われはない。

鉄拳制裁を美化する人は、この「気にくわない」という感情が、おそらく人一倍強い人ではないだろうか、と私は思っている。

誰だって、他人の言動・行動を「気にくわない」と思うことは、数限りなくあるはずである。
普通はそれを理性で抑える。

しかし、「先輩」という自己の存在を過大に評価する人間は、「気にくわない」というだけで、殴ることを正当化できるのである。
それが、シゴキの構図だと私は思っている。

先頃の相撲部屋での密室殺人に荷担した人たちも、元親方を含めて、その「気にくわない」という感情が、普通の人よりも強かったのだろう。
そして、彼らはそれを自分で制御できないほど、幼稚な人間の集まりだった。

それは、相撲協会というのが、おそらく伝統を勘違いして、幼稚な人間を養成しまくった結果、密室殺人が起こりやすい器になったからではないだろうか。
その伝統というカビの生えた塗料で塗り込まれた器を有り難がる人は、いまだに多い。

相撲協会を擁護する人は、亡くなった若者の生活態度を糾弾する。
だが、生活態度の悪い人間は、若者に限らずどこにでもいる。
それを、相撲社会の特殊性という理由でシゴキを正当化したら、刑務所員による刑務所内の殺人も擁護しなければいけなくなる。

私は、こう思う。
死者が何人も出ているのに、自分たちだけの論理で事態を処理して平然とする相撲社会、そして、それを容認する相撲愛好家という人種も伝統に絡め取られた、ただの「伝統バカ」である、と。

何度も言うが、「気にくわない」というだけで、人を簡単に制裁・消滅し、それを容認するシステムは、明らかにおかしい。

とは言っても、体育会系の集合体側に、この幼稚な連鎖を断ち切る強い意志がなければ、ただ基本的なモラルを彼らに押し付けただけで終わるだろう。

まずは、「愛のムチ」などという、サディスティックマゾヒスティックな言葉を容認している伝統に冒された大人たちを教育し直さないと、この種の悲劇はこれからも起きるに違いない。

私は、そんな自説を、出っ歯相手に力説した。
しかし、出っ歯はこう言う。
「あのさあ、マツ。俺は何度かお前に頭を叩かれたり、ケツを蹴られたりしているんだが、あれは何だったんだ?」

それは、愛の・・・・、いや、神のムチだよ。俺ではなく、神が俺にさせているのだ。神の意志は絶対だ! 出っ歯に、神のご加護がありますように(注記・私はキリスト教徒ではありません)。

「・・・・・・・」


2007/10/22 AM 07:00:38 | Comment(3) | TrackBack(0) | [日記]



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