Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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一日三回食べられるだけでも…
私の携帯電話で娘が「ワンセグ」を見ていた。何気なく横から覗いたら、特集で「子どもたちの食事が危ない」というのをやっていた。
全部を見たわけではない。せいぜい3分くらいしか見ていない。(画面が小さいから、疲れる)

私が見たのは、親が仕事が忙しくて、子どもをかまってやれない家庭をクローズアップしたところだ。
食事は子どもが、コンビニでおにぎりやパンを買って済ませる。
部屋は散らかり放題。しかし、三人の子どもは、それなりに役割を持ちながら、日々暮らしているらしい。
おふくろの味はないが、食べ物には困っていないようだ。

番組を見ていて思った。
それを言うなら、私の子ども時代の食事も危なかった。
我が家は、母親が働いていた。
父親は定職を持っていた(一流会社の部類に入る)が、家にはいない。
月に1、2度帰ってくるだけで、貰った給料はすべて自分のために使う人だった。だから、裕福とは言えない。
中学3年の4月までは、祖母がいたので、祖母が食事の支度をしてくれた。美味しい食事を食べることができた。

だが、祖母が死ぬと、私の食生活はガラリと変わった。
私には3歳年上の姉がいる。当時彼女は高校3年だった。
姉は変わった人で、他人への思いやりや気配りというものを持ち合わせていなかった。
ひとのために料理を作るとか、人に何かを分け与える、という法則を持っていない人だった。

夏休みに入ったとき、母が姉に「これでお昼を買って食べなさい」と言って置いていった金を、すべて自分のために使った。
毎日、自分の食事だけを近所の弁当屋で買って、余ったお金でシングルレコードを必ず一枚買っていた。

だから、私の分の昼食はない。
私は姉に抗議はしない。彼女が態度を改めることはない人種だとわかっていたからだ。
彼女には、人の言うことを聞く能力がない。自分を守ることしか興味がない。
だから私は、昨晩の残り物を、昼食として摂ることになる。
だが、残り物があった日はいいが、残り物がない日は悲惨だ。
食べるものがない。
育ち盛りで、受験を控えた夏休みとしては、決していい環境とは言えない。

そして、このあたりが私の変わっているところなのだが、そういった姉の行動に対して、母に告げ口をすることができないのだ。
今思うと、姉の仕打ちはひどいものだと思うが、当時は当然のように受け入れていたのである。

この人は、こういう人なんだ。
そういう、哀れさをいつも感じていた。
私は、いつも姉のことを避けていた。
一種、違う生き物を見るように、見ていた。

当時の私の夏休みの食生活を再現してみよう。
朝は、昨晩残ったわずかばかりのご飯と、母が朝、鍋一杯に作ってくれた味噌汁。
昼は、昨晩のおかずの残り物。(残らなかったときは、食事抜き)
夜は、母が仕事の帰りにスーパーで買ってきたお総菜。コロッケやポテトサラダの類だ。
一週間のうち、三日は昼食抜きだったと思う。
陸上部の練習がある日は、友だちにおにぎりを恵んで貰って食べていた。
このパターンは、冬休みも春休みも同じだ。

育ち盛りの子どもにしては、一日の摂取カロリーが圧倒的に不足していたと思うが、身長はその後順調に伸びて、180センチになった。
ただ、当然のことながら、体重は増えない。
俗に言うように、もやしのようにヒョロヒョロしていた。
しかし、それでも百メートルを11秒前後で走るのだ。
もし、普通の食生活をしていたら、私はオリンピックに出られたかもしれない。
そんな馬鹿げた空想で、自分を慰めたこともある。

だから、「子どもの食生活が危ない」という番組を見ていても、「なんだ、三食ちゃんと食ってるじゃないか」という、羨ましい感想しか浮かばない。
それは恵まれた人間の視点だけで構成した、偏った番組にしか見えない。
子どもたちの日常を、ことさらに大袈裟に扱っているだけではないのか。
部屋が汚いことが、特別なことだろうか。子どもがコンビニで好きな食べ物を買って食べることが、特別なことだろうか。親が、子どもにお金を渡して責任を果たすことが、そんなに特別なことだろうか。
食生活が貧しくても、普通に大きくなった大人がここにいる。

みっともない「ひがみ根性」だとは思うが、そんなことを思ってしまった。



2006/08/12 AM 06:25:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

歌舞伎役者アベ
フクダ氏が総裁選に出馬しない意向を示したことで、アベ氏が自民党総裁になることは既定の事実となった。

しかし、メディアというのは、時に理解しがたいことをする。
誰も出馬宣言をしていない段階で、「次の総理には誰が相応しいか」という人気投票をするのである。

まだ、どの馬も出ていないのに、当たり馬券の予想をする「予想屋」などいるわけがない。

この「人気投票」では、アベ氏が最初から1位を走っていた。
重ねて言うが、誰も出るとは言っていないのだ。
出ないかもしれないのに、無理矢理「人気投票」をするというのは、何らかの異図があると思わざるを得ないではないか。

なぜ、立候補者が確定してからの世論調査ではいけないのか?

メディアはこぞって、アベ氏を「総裁候補」として、認知させようとしているかのようだ。
つまり、早々と「勝ち馬に乗る」方式を取ったのだと言える。
ここで、アベ氏に恩を売っておいて、「ぶら下がり記者会見」の権利を得たいのだろうか。

「靖国問題」で、理性的な発言をしているフクダ氏より、中・韓・鮮に敵対的発言をしているアベ氏の方が、新聞の見出しになりやすいから、彼をクローズアップしたいのか。
あるいは、アベ氏の方が、コイズミソーリのように、センセーショナルな見出しを付けやすいという、「タブロイド誌」的な発想に毒されているからか。

メディアは、「対話」より「敵対」が、好き。
その方が新聞が売れる! 視聴率が取れる!

外交とは「対話」の技術によって、自国を有利なポジションに置くことである。
厳密な意味で、コイズミソーリに外交の技術はない。
初めから、けんか腰である。
俺はすべての「抵抗勢力」と戦うヒーローだ。敵は多ければ多いほどいい。その方が、同情と関心が集まるから!

アベ氏とソーリは一見したところ、似ていない。
アベ氏には、ソーリほどの軽薄さはないし、虚勢も張らない。
ただ、穏やかな笑みに隠しながらも、しっかりと敵の存在を政治に利用している。(ソーリの軽薄さの陰に隠れているので、得をしているが)

アベ氏は、ソフトな語り口、甘いマスクの持ち主。
政治家の家系で育っているから、血統の良さは折り紙付き。

極めつけの、政治家ブランド一家である。

アベ氏の父「安部晋太郎」は、憲政史上、トップクラスの「超タカ派」だった。
他国との融和は、二の次の人だった。
親がそうだからといって、子もそうとは限らないが、今までの言動を見ていると、父の影響を色濃く受けているように思われる。

だが、アベ氏の華やかな血統甘いマスクにしか興味がない、「おばちゃん」(ミーハー)ファンには、それがどんなことかは、全く理解できないだろう。

政治音痴の有権者から見れば、アベ氏は「歌舞伎役者」的な存在に映る。
代々受け継がれた、伝統美。
衣の下に、「必殺の武器」を隠していても、見えなければ、「素敵」としか感じない。

失笑もののパフォーマンスを繰り返す「丸投げの殿」から、おばちゃん殺しの「歌舞伎役者」にバトンが移る。(他の人が総理になる可能性も数パーセントは残されているが)

そして、アジアの中で、日本は孤立する。
北朝鮮を笑っている場合ではない。

北朝鮮と日本の違いは、極端に言えば、アメリカが付いているかいないかの違いだけなのに、メディアはそれに気付かずに、虚しい「人気投票」を繰り返している。
孤立する「極東の島国」の認識がない。
「政策」ではなく「名前」だけで、候補を選ばせている。

メディアは、明らかに退化している。


2006/07/25 AM 06:34:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

「コメンテイター」と書いて「うさんくさい」と読む
ニュース番組に「コメンテイター」というものが現れたのは、いつ頃だろうか。

それほど昔ではない気がする。
昔は、キャスターが一人でニュース原稿を読んでいたと思う。

おそらくは、「ニュースステーション」あたりからか。
確か、小林さんという人がいつも
久米宏の隣に座っていた。
彼が穏やかに論評する姿と、軽薄な久米宏との対比が面白くて、いいコンビだと思って見ていた。(小宮悦子も合わせると、いいトリオ)

ニュースステーションは、賛否両論でいえば、きっと「否」の方が多い番組だったかもしれない。
NHKのように公明正大を装いながら、体制寄りの報道しかしないニュース番組が、本当のニュースであると思っている人には、受けが悪いだろうが。

NHKのニュース番組は、ほとんど見ないので断言できないが、キャスターの隣にいつもコメンテイターがいるというシステムではなかったと思う。
コメンテイターが余計なことをいうのを、怖れているからかもしれない。(報道内容が、ちょっとでも政府批判と受け取られたら、
強面議員に脅される)

他の局の場合は、たいてい仰々しい経歴を持ったコメンテイターが、眉間にしわを寄せて、もっともらしい顔をして座っている。

噛んで含めるように丁寧な説明をする人や、「俺が権威だ!」と尊大な態度で「教えてやる」式の説明をする人、感情を表さず機械のように冷静に説明する人など、色々といる。(この人たちに共通しているのは、過激なことを言う人がほとんどいないこと)

ただ、どちらにしても、彼らの背後には系列の新聞社がある。
日本テレビは「読売新聞社」。
TBSテレビは「毎日新聞社」。
フジテレビは「産経新聞社」。
テレビ朝日は「朝日新聞社」。
テレビ東京は「日経新聞社」。
NHKは、日本国政府

北朝鮮のミサイル発射問題でも顕著だったが、どのニュース番組のコメンテイターも系列新聞社の傀儡(かいらい)でしかない。
系列新聞社の論調から逸脱することはない。

要するに、系列新聞社のシナリオに縛られている。

彼らに、不偏不党など有り得ない。
彼らは、特定の利益の代弁者に成り下がっている。
彼らの思想的基盤が、系列新聞社が左か右かで、大きく異なる。

しかしこれは、当たり前と言えば、当たり前のことだ。
目くじら立てるほどのことではない。
ただ、いかにも公明正大のふりをして、視聴者をミスリードするのが、個人的に我慢ならないだけだ。

話の頭に「読売新聞社の考えによれば」とか「毎日新聞社の意見では」などと付けてくれれば、すんなり聞くことができる。
あるいは、「政府の不利になることは控えさせていただきます。報復が怖いので」と言ってくれてもいい。
これなら、胡散臭さがなくなる。

結論が決まっているのに、都合のいい「検証結果」だけを示して、さも公平に「検証しました」という報道は、私の感覚では露骨なミスリードとしか思えない。(少々古いが『所沢ダイオキシン汚染報道』というのがあったが、それが典型か)
そして、「コメンテイター」がその検証の後押しをすると、視聴者は何の疑いもなく、納得してしまう。
コメンテイターは検証を追認するための道具になっている。

コメンテイターは、国民の意見を代弁する人種にあらず、系列新聞社の代理人に過ぎない。

だから最近、私の頭の中では「コメンテイター」という字を見ると、「うさんくさい」と読んでしまうのだ。


2006/07/23 AM 06:22:01 | Comment(1) | TrackBack(0) | [メディア論]

巨人・コイズミ・読売新聞
知人や得意先の人たちは、圧倒的に巨人ファンが多い。
野球ファンでなく、スポーツファンでもなく、「巨人ファン」である。

なぜ「巨人ファン」と限定して言うかというと、彼らのほとんどが、他のチームに興味がないから。
巨人の勝敗や選手には興味があるが、他のチームの知識を得ようとしない。
そして、野球のルールをそれほど知らないし、知ろうとしない。

また、彼らには、他にも共通点がある。
サッカーのワールドカップには興味があるが、日本が負けると、途端にトーンが落ちる。
オリンピックなども、日本選手にしか興味がない。
そして、競技のルールを知らないし、知ろうとしない。
彼らの思考方法は、スポーツ新聞の論調を踏襲(とうしゅう)している。

彼らにとってスポーツは、勝ち負けだけが重要だ。

だから、巨人が弱くなると、彼らはテレビを見ない。

巨人は強くなきゃ、嫌だ!

これを本当の意味の「ファン」と言っていいのか。
本当のファンは、そのチームがどんなに弱くても、応援はやめない。
負けても、何度負け続けても、東京ドームに足を運ぶ人こそ、本当の「(尊敬すべき)巨人ファン」である。

負けるところをみるのが嫌だから試合を見ないファンというのは、ただのにぎやかしではないか。
かつて、負け続けだった頃の「タイガースファン」、「ロッテマリーンズファン」と比べてみて欲しい。
どちらが、純粋なファンと言えるだろうか。

この2チームは、今や優勝争いの常連チームになっている。
これこそ純粋なファンがもたらしたパワーの結果、というのは都合のいい解釈だろうか。

さらに、「巨人ファン」のもう一つの共通点は、コイズミ内閣を支持する比率が多いこと。(少々こじつけ)

つまり、寄らば大樹の陰付和雷同型人間。

彼らは「改革」という言葉に弱い。
「改革」という実態ではなく、ただ単に「改革」というブランド的な響きに弱いのだ。中身はどうでもいい。
「巨人」というブランドに、疑うことなく反応するのと同じだ。
それを威勢のいい調子で言われたら、一も二もなく「感動する!」

節目節目のわざとらしい(寒々しい)パフォーマンスも、惚れた目から見ると、最優秀主演男優賞並みの名演技に見えるらしい。

彼の信奉者はこういう。
「今までの派閥を無視しているところがスゴイね」

確かに他派閥は影が薄くなったが、自派の森派は、膨張している。
それを言うなら、「他派閥無視」と言って欲しい。


「それは結果論だよ。偶然そうなっただけだ」

派閥を無視するということは、逆に言えば派閥を認めているということ。無視ではなく、派閥を解消することが本当の「改革」ではないのか。

「いいじゃない。政党自体が派閥みたいなものなんだから。そこまで目くじら立てることはない」

では、「自民党をぶっ壊す!」と言った人間が、派閥である自民党をぶっ壊さずに膨張させているのは何故?
それも結果論?
「改革」というのは「オレの言うことだけを聞く議員を増やすこと」なのか。
普通、それは「独裁者」と言うんじゃないのか?!


「国が良くなるのなら、『独裁者』でもいいんじゃない」

それは、「巨人だけが強ければいいんだよ」という読売新聞社の考え方と一緒だな。

そうすると、読売新聞が「コイズミ内閣」に肩入れしているのも、独裁的な体質が似ているからか、
と勝手に合点がいった。

見事な? 三段論法


2006/07/21 AM 06:27:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

2回が1回に
先週、かなり無理をしたので、腰が痛い。
立ち上がるときが一番痛い。(イテテテテ…)
だが、ちょっとしたショック療法をすると、数日で直るので医者には行かない。

自分の体のことは、自分が一番わかっているので、医者は信用しない。

偏屈オヤジである。

話は変わって、少々旧聞に属する話題。

コイズミソーリが、「今まで一日2回開いていた会見を1回にする」と一方的に通達したので、内閣担当の記者は大騒ぎ。

突然そんなことを言われても困る。
何故、どうして?


珍しく、強行に抗議したらしい。

どうやら、メディアという世界には、「あんな内容のない会見を一日2回も開くのは時間の無駄」と考える頭のいい記者はいないらしい。

彼らは自分の仕事が少なくなる、と勘違いしているのだろうか。
首相のその場限りの言動に振り回されなくて清々する、と考える人はいないのだろうか。

そんなにコイズミ内閣の宣伝をしたいのか。
それをすることによって、彼らに何の旨(うま)みがあるのだろうか。
俺たちのおかげで、高い内閣支持率を維持している、という満足感を得たいのだろうか。

彼らのことを「番記者」(総理担当記者の場合は総理番)というらしい。

他の国にも大統領に密着した記者や、特定の政治家や有力者に密着した記者はいる。
しかし彼らは、おしなべて辛辣(しんらつ)な批評眼を持っている。時に容赦のない正論を浴びせかける。

それに比べて、日本の総理番は、批判精神が欠落しているとしか思えない。
ソーリのいうことを、そのまま忠実に伝えるだけで、マスメディアの一員としての義務を完全に忘れ去っている。

今や総理番は、内閣官房長官よりも有能なスポークスマンである。
嬉々として、ソーリの宣伝をしている。
今回のことで彼らは、そんな自分の存在価値を否定された、と思っているのかもしれない。

あんなに、一所懸命宣伝してあげているのに……、なんで、減らすの(泣)。

一日2回、ソーリの会見を伝える権利というのが、そんなに大したことなのだろうか。
北朝鮮のミサイルが発射された場合は、世界的なビッグニュースだから、ソーリの意見を聞くのはわかる。これは最優先に伝えるべきニュースだから、当然のことだ。

しかし、毎日ビッグニュースがあるわけではない。
ソーリの内容のない感想文を、何故毎日ニュース画面に載せなければいけないのか。
理解に苦しむ。

日本の番記者制度は馴れ合いである。
批評精神がない。気概がない。プロ意識がない。そして、これが一番情けないのだが、目が読者に向いていない。ソーリの方ばかり向いている。

昔、ロッキード事件立花隆が田中角栄を告発したとき、ある総理番は「あの程度のことなら、担当の記者はみんな知っていたよ」と嘯(うそぶ)いたという。

それが本当なら、犯罪的に怠惰である。
記者としての矜持(きょうじ)がない。
腐敗している。

不正を知って、権力に遠慮して口をつぐんでいるなど、恥知らずとしかいいようがない。
批判を忘れたメディアなど、何の役にも立たない。

ソーリは、総裁選に出馬したとき、「8月15日に靖国参拝する」ということを公約した。
約束を守らない人間は、世間では「嘘つき」と言われる。

私は、靖国参拝に関しては、どちらでも「ご自由に」という考えだ。
戦後生まれの多くの人と同じように、靖国神社の存在を意識したことがない。
だから、行ってもいいし、行かなくてもいい。
(これは憲法との兼ね合いもあるが、その論は省く)

ただ、公約となると話は別だ。
公約は守るべきだと思う。
なぜなら、公約を基準として、彼に投票するからだ。
なにも彼の顔が「リチャード・ギア」に似ているから投票するわけではない。(いるかもしれないが…)

彼は公約を守らなかった。
日にちをずらすという姑息な手段で、誤魔化している。
そして、守らなかったのに、靖国参拝を批判する周辺国に対して、突っ張っている。
靖国参拝を批判する人たちに対しても、開き直っている。

公約を守れなかった男が、「参拝は心の問題ですよ」と強弁する。
「心の問題」なら、堂々と8月15日に参拝するべきだろう。

もし、彼が8月15日に参拝していたら、「参拝は公約ですから、私は公約を守りました」と胸を張っていい。公約を果たした立派な政治家と言える。芯が一本通っている。
しかし、彼はしていないのだ。

彼はただ単に、靖国参拝によって中国や韓国などを挑発して、彼らを(正義に難癖をつける)悪者に仕立て上げ、国民の支持を得たいだけだろう。
それは、彼が政権初期の頃からずっと使っている手法「無理矢理、抵抗勢力をつくって、自分がヒーローになる」のと同じ図式だ。

何故、総理番たちはその安直な図式を容認してしまうのだろうか。

今年、ソーリは8月15日に靖国参拝をするかもしれない、という観測が流れている。
もしそれが本当だとしたら、論外だ。

今ごろになって、彼は「私は公約を守りました」と言って、胸を張るつもりなのだろうか。

任期満了に近い時期に、最後ッ屁のように参拝するというのは、姑息だし、卑怯だ。
人間として、信じられない。

もし、それさえも嬉々として伝えるなら、総理番やメディアの存在意義など、どこにもない。



2006/07/11 AM 07:59:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

ウェットなオリンピック
今ひとつ盛り上がらないトリノオリンピック。

我がヨメは、普段スポーツにはまったく見向きもしないのに、オリンピックとサッカーのワールドカップだけは欠かさずご視聴。
要するにお祭り好きということですね。

それに対して生来のひねくれ者の私は、冬のオリンピックはごく一部の競技しか見ない。

中・高・大学と陸上競技をやっていた関係で、夏のオリンピックの陸上競技は真剣に見ます。
しかし、団体競技に馴染まないひねくれ者にとって、その他の競技は興味の対象になりません。

私は短距離と走り幅跳びが専門でしたが、この競技のいいところは全てが自分の責任というところ。
成績が悪くても、その責任の全ては自分にある。

それに比べて団体競技は、ひとの調子が大きく作用する。
ひとの調子にまで責任を持つのは嫌だ!
そう言うわがままなやつにとって、陸上競技の短距離などは最適です。
自分の調子と向き合うだけでいいのですから、責任の所在がわかりやすい。

また、陸上競技のいいところは、白黒がはっきりしているところ。

採点競技のような曖昧さがない。

体操やシンクロ、フィギュアスケートなどの採点競技は、先入観や各国の政治的な力関係など曖昧さが入り込む余地があって、私にはスポーツとは呼べないグレーな部分が感じられる。
スキーのジャンプやスノーボードHP、モーグルなどもそう。

これらは採点結果に説得力がない。
パフォーマンスをする前から、ある程度採点が決まっているような気がする。
だから、どんなにまことしやかな理屈をつけても、万人を納得させるほどの明快さが感じられない。

ということなので、採点競技が多い冬季オリンピックは、スピードスケートやアルペンなど限られたものしか見ない。

また、マスコミの報道の仕方にも納得がいかないものがある。
冬季オリンピックなどに限らずあらゆるスポーツに言えるのですが、「涙」を強調しすぎる。画面に「涙」が多すぎる。

肉親や親類、同僚、地元の人間を担ぎ出しての、くどいまでの「涙」の演出。

そんなに泣きたいのだろうか?!
巷では、映画やドラマ、小説など、「泣ける」を強調するキャッチコピーの氾濫。
「泣ける」ことがそんなにいいことなのか。

「涙の○○入賞」「亡き父に捧げる○○」「この小説は100パーセント泣けます」
日本中を無理矢理泣かせているような気がする。

私は「泣く」よりも、笑いたい。
「笑い」(お笑いブームのことではありません)こそ、人類にとって最も高度な表現方法だと思っている私には、これほど違和感のある情景はない。

「負けたのにヘラヘラと笑っているやつは怪しからん」という人がいますが、私は勝っても負けても、笑う方が潔(いさぎよ)く感じます。
(たとえは変ですが、外国の刑事ドラマなどで、クライマックスで捕まった犯人が相手の刑事を讃えるように笑いかける場面があります。この潔さがいい。これが日本の刑事物だと、犯人は泣き喚くか、ジタバタと無駄な抵抗をする。これが実にみっともない。しかし『古畑任三郎』は別。犯人が潔(いさぎよ)い)

本当にこんなベタベタな「涙の押し売り」をみんなが喜んでいるのだろうか?
過剰な「涙の演出」は、スポーツに限らず、全ての事象を貶(おとし)めているような気がしてなりません。
「とにかく泣かせれば、感動したことになる」
そんな風に、独りよがりの制作者が勘違いをしているだけではないのか?

そんなウェットすぎるメディアですから、メダル予想なども「大甘」です。
今回、利害関係のない外国のメディアは冷静(冷淡?)で、日本のメダル獲得の予想は「0〜2個」というのがほとんどでした。
それに対して日本のメディアは期待値がかなり高かったように見うけられます。

今頃、「メダルゼロの可能性も…」などと騒いでいますが、冷静な分析力を駆使すれば、誰もが納得のいく答えは必ず出るはず。
寸前までナショナリズムを煽りに煽って、メダル獲得に赤信号がともると途端に犯人探しをするメディアこそ、真犯人と言っていいのではないでしょうか。

健全なメディアというのは、冷静で公平な「分析」ができることが前提条件。
その分野の元アスリートの都合のいい希望的観測だけを取り入れて強引に結論づけるいつもの手法は、分析ではなく願望で、素人同然。

もう少し勉強してください。あまりに安直すぎる。

メディアなどがウェットさやナショナリズムを限りなくゼロにしてくれれば、もともと素材のいいオリンピックは、良質な「エンターテインメント」になります。そうすれば、ひねくれ者の私のような人間の興味を大きく引くのではないでしょうか。

そんな日は絶対に来ないでしょうけど……。


【追記】 − 2006.02.24 −
朝インターネットを見て、「フィギュアで荒川金メダル」というのが目に入ってきました。慌ててテレビをつけてみると、ちょうど演技しているところが映っていました。
どこがどんな風に良かったのかは、さっぱりわかりませんでしたが、「金」は立派!

しかし、何よりも良かったのは荒川選手の「笑顔」。
涙を見せず、誇らしげに笑った顔がとても良かった。

願わくば、この後親や恩師などを担ぎ出して、無理矢理泣かせることがありませんように。



2006/02/22 AM 06:38:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

「東横イン」異聞(メディアの遠吠え)
「東横イン」と「東急イン」は全く別物だった。

それが最初の驚き。

中目黒に住んでいた子どもの頃、「東急東横線」は単に「東横線」と言っていたし、「東急百貨店」のことを「東横」と言っていたから、「東横イン」も同じ系列だと思っていました。

しかし、もっと大きな驚きは、「東横イン」社長の最初の記者会見と2回目の「涙の記者会見(?)」の報道。
メディアは、「開き直りは許せない!」「あの態度は言語道断」「『申し訳ありません』を50数回言った」などと言って大きく扱いました。

偽装工事は確かに言語道断ですし、最初の会見の態度にも唖然とさせられました。

しかし、もう一つ私は釈然としないものをニュース画面から感じ取ったのです。

最初の「開き直り」の記者会見で、記者たちは何故その場で彼の態度を非難しなかったのだろう。
(ニュースでは映らなかっただけかもしれないので)もし非難した人がいたのなら、これから先の私の意見は、まったく的はずれの妄想になります。

優秀なジャーナリストとしては、相手に言いたいことを全部言わせて彼の人間としての本質を浮かび上がらせるのが、最も有効な手段である。
その方が世論を味方につけやすく、バッシングしやすい。

確かにそれはとても有効だった。彼は一躍、悪役として時の人に。

そしてその手法は、次の謝罪会見でも彼の不誠実さを浮き彫りにすることに効果を発揮した。
「メディアの誘導」は、完璧な形で一人の悪役をクローズアップした。

2度目の謝罪会見では、刺すような言葉がいくつも彼に投げかけられていた。
それは前回の「傲岸不遜の会見」では、ついぞ聞かれなかった言葉だった。

私が知らないだけかもしれませんが、メディアが強面(コワモテ)の実力者に、強気な言葉で直接噛み付いたのを見たことがない。
いつも彼らに言いたいだけ言わせている、物わかりのいい姿しか記憶にない。

某総理大臣や、某都知事、某新聞社会長、某元政治家、某財界人などが失言、妄言を繰り返しても、その場で彼らをたしなめたという場面を見たことがない。

「東横イン」社長が、うなだれて(フリをして)車に乗り込もうとする姿に向かって、メディアの間から幾つかの罵声が飛んだ。
まるで気の弱い犬が、及び腰で人に吠えかかるように。

メディアは実力者(表面上ふんぞり返った声の大きい人種)に弱い。
そして、実力者が坂道を転がり落ち始めると、途端に強気になる。

その場の言葉より、あとでペンとマイクを行使した方が数段威力がある、彼らは骨の髄までそう考えているのだろう。

あの、人をなめたような記者会見の現場で、「あんた! 社会的に影響力のある人間なんだから、もっと自覚を持てよ!」と指弾する人間がひとりもいないというメディアの現実に、私は一番驚かされた。


2006/02/15 AM 06:33:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

メディアは「モアイ像」
出張講習が終わって、昼食を摂るため私鉄駅前のカレーショップに入ったときのことです。

ローカルの私鉄駅前の、かなりくたびれた外装及び内装の店内は、午後2時を過ぎていたせいか、客は私ひとりだけ。
「本日のカレー」という名のビーフカレーを注文して待ちながら、店内のテレビで見るともなしに「ワイドショー」を見ていました。

昼間テレビを見るというのは、私の習慣には全くないし、食事の場にテレビがある状況も久しぶりなので、結構新鮮な気持ちで眺めていました。

放送の中身はお決まりの「ライブドア」。
夜のニュースでも同じですが、コメントする人全員が型通りの「正論」を展開する「俺たち遠山の金さん、悪は容赦なく斬るべし」という人たちばかりです。

その同じ口が、過去「彼は新しいタイプのリーダー」「既成概念にとらわれない男」などと言ったことなど見事に忘れ、眉間にしわを寄せて、したり顔で正義を説きます。

犯罪を断ずるなら、少なくとも彼を讃えたことのある人は、その経緯を精算してから断罪すべきではないのか。
捕まる前は讃え、捕まったら断罪する。
それでは評論家として、文化人・ジャーナリストとしての矜持はどうなる?

「塀の向こうに行ったんだから、何を言おうが俺の勝手、悪いことをする奴は叩かなきゃね」ということか。

「罪なき者、石もて打て」
そうですよね。あなた達は聖人君子です。だから、石{正論)で彼を打つことができるんですね。

悪いことをしたら裁かれる、これは当たり前。
彼がした悪いことは、これから色々と暴かれていくことでしょう。
しかしメディアはこの先、冷静にそして正確に報道することができるのか。
今の状況は、全員が裁判官や検察官になっていないか。

彼を少しでも擁護しようものなら、メディアの中ではおそらく「村八分」。
冷静な「堀江貴文論」を展開しても、メディアは相手にしない。
「モアイ像」のように、みんな同じ方向を向くメディア。

そんなことを思って見ていたら、画面に堀江氏がかつて通っていた塾の先生というのが出てきました。

今回の件と塾の先生とは、何か関係があるの?
塾の先生が彼に、今回の「証券取引法違反」を教えたの?

「彼はそんなに目立たない子でしたよ」
その先生はそう言いましたが、だから…ナニ?
そのコメントはこの事件の何に繋がるの?

逆に、塾で目立つやつって一体どんなやつだ!

大変美味しいカレーでしたが、全部食べきらずに店を出てしまいました。

そこで、今回の教訓。
やはり食事中にテレビを見るのはよくない。
つい余計なことを考えてしまう。



2006/02/08 AM 06:39:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

手のひらを返す その1
常々思っていることがあります。

官僚、というのは人間の形をした別の生き物である。
彼らは、自分のしたことがどのような結果を生み、時には国民のすべてが不幸になったときも、一切感知しようとせず、感情を動かすことをしない。
彼らからみれば民間人は無機物そのもので、頭のいい自分たちが国を動かすのは、神から授けられた至高の行為だと、生まれ落ちたときからそう思っている。
官にとって民は、全く別の生物であり、機能的にも違い、住む世界も違う「愚かな生物」としか見ていない。だから民がいくら真っ当な要求をしたとしても、それが本当に受け入れられることはない。民が官に逆らうことは、神にもとる行為としか考えない。
彼らは単に人間の形をしているに過ぎない。違う言い方をするなら「化け物」である。


政治家は官僚とは違いますが、今の総理大臣を見ていると、私には「官」に見えてしかたがない。
その理由の第一は、説明責任を全く果たさないこと。(「官」は説明はするが、わざと難しい用語を使って本質を見えないようにする。これは説明しないことと同じである)
具体的な説明をしないのは、「お前らはバカだから、俺のいうことに従っていればいいんだ」という「官」と同じ発想が見え隠れします。
国民にかなり人気はありますが、私には「官」と同じで「化け物」にしか見えない。

でも、この総理大臣もたまにはいいことを言う。
ライブドアの件です。
いつもながらの、質問をはぐらかすための答弁(詭弁)ではありましたが、内容は納得のいくものでした。

「メディアは彼を『時代の寵児』のごとく報道していたのに、今は手のひらを返して、非難している」

確かにその通り。

あれだけ持ち上げて置いて、一気に落とす手法は、いつも通りではありますが、どうも釈然としない。
メディアの中には以前から堀江氏に批判的なものもありましたが、それも彼の「メディア論」に感情的に反論したものか、その新聞社の会長がただ単に堀江氏を嫌っているという幼児的な論理で批判すること(この人の言っていることは、いつも感情論にしか聞こえない。おそらくメディアが画一的な報道の仕方しかしないからだろう)が多かったようです。

「時の人」を大きく取り上げるのは、メディアとしての使命ではありますが、メディアがその「時の人」の広告塔に成り下がるようでは、その存在価値を疑われます。
彼の行動に対してその都度、的確な評価を下すこともせず、ただ情報を垂れ流すだけなら、スポークスマンと何ら変わらない。

総理大臣の発言に関しても、スポークスマンと同じ役割しか果たさないメディアは、「太鼓持ち」のそしりを免れないでしょう。

これでは、益々「化け物」としての本性を露わにしている「官」「政」を糺すことなど、このメディアにできるわけがない。



2006/01/30 AM 06:25:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

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