Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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私の気になること
各地で安保強行採決に反対デモが沸き起こったのは、60年安保(死語!)にも70年安保(死語?)にも間に合わなかったオジさんには、興味深いことだった。

いくつかのメディアは、「反戦デモ」などというピントの外れた漫画的な表現をしていたのが興ざめだったが、私は基本的に「権力に楯突く人」が好きなので、その現象は心地よく受け入れた。

権力に楯突く人、といえばテレビ朝日の「報道ステーション」だ。
ニュースショーを好んで見ることはないが、報道ステーションは、年に数回は観ていると思う。

政権に楯突く、ということで保守的な方たちには蛇蝎のごとく嫌われているようだが、私はメディアが権力に批判的なのは当然のことだと思っている。

私も含めて、政治に無知な人間に警鐘を鳴らす勇気は、メディアにこそあってしかるべきものだ。

読売新聞社や産経新聞社のように、「俺は体制派だから、国のことばかり考えてるんだよね」という政権に対して生ぬるい、あるいは擦り寄るようなような勘違いメディアよりは、報道ステーションのスタンスは「反権力」という点で、私には頼もしく思えるのだ。

ただ、保守一辺倒のフジテレビや日本テレビが、街頭インタビューなどで、安保強行採決に関して「是」と「否」半々に報道していたのは評価できる。

安保強行採決に関して、保守寄りの評論家が言っていた「テレビでは否定意見ばかりを取り上げる」という主張は、完全にお門違いの意見で、各局は公平に意見を分配していたと思う。

自民党側に立っている人としては、「否定意見ばかり」と印象操作をしたいのだろうが、メディアの世論の扱い自体は公平だった。
そのことに関しては、拍手を送りたいと思う。

ただ、日本テレビの報道は、まるで冷静に事実を伝えることがマスメディアの仕事である、と突然目覚めたかの如く「安保強行採決」に関して、公平ではあったが客観的で冷淡だった。
しかし、この場合の「客観的」は、自民党の政策に対して消極的に賛同する意味での「客観的」だった。

要するに、それほど露骨ではないにしても「俺は体制派なんだよね」の意識を隠せない報道だったと言える。

それとは対照的に、報道ステーションは、あくまでも「反体制派」だった。

そのことで、古舘伊知郎氏は、どんな些細なことでも物議を醸すのだが、その言動は、いつも腰砕けのマスメディアの中では異質であると私は好意的に見ているのである。

腰砕けといえば、公明党だ。

「平和の党」の看板は、最近では完全に色あせて、「平和の看板を下ろした権力にしがみつく党」のイメージが、私の中では出来上がりつつある。

連立与党というのは、連立相手の是非を吟味しつつつ、「受け入れないところは断固として拒否する」のが、連立の理想だと私は思っていたのだが、いまの公明党は「受け入れないものも受け入れ、連立の旨みだけ享受する親自民党」の位置に甘んじているように私には思えるのだ。

彼らを支持する「世界平和を願う人々」に、政権に擦り寄った政治家は、どんな言い訳をして支持者たちを宗教的な言葉で説こうとするのだろうか。

信者たちに祭り上げられた政治家たちは、「世界平和のためなら、武器を敵に向けるのもありですよ」と説くつもりか。


世界のあらゆる宗教の歴史をみれば、宗教的なブラックジョークとしてなら、それもありかもしれないが。


もちろん、安保法案が強行採決されたからといって、すぐに戦争になるわけではないだろう。

だが、いつか「世界の戦い」の中に日本が巻き込まれたとき、憲法改正もできない脆弱な政治家(安倍晋三氏)の弱腰が、禍根を残すことがあるのではないか、と私は危惧するのだ。

国にとっての将来を左右する現実があるとき、「有能な政治家」は、国民に辛い選択を求めることがあっていいと私は思っている。

それは、つまり「憲法改正」という国にとっての一大事だ。

それを避けて、「国はおのれの国を作ることができない」。

その一大事を、なぜ安倍晋三氏は、怖がるのだ。

今の日本国を変えたいなら、真っ当な政治家なら、安保法案などという瑣末なことにはこだわらずに、憲法改正を国民に問うべきではないのか。

なぜ、彼はそれができないのか。
何を怖がっているのか。

とはいうものの、民主的な選挙で、過半数以上の議席を手にしたのは自民党であり、選挙民の多くが支持した政党も自民党である。

たとえ、小選挙区で全有権者の30パーセントに満たず、比例区で20パーセント程度の投票しか得られなくても、自民党が第一党であることは疑う余地がない。
今の選挙制度の仕組みがそうなっているのだから、それを否定するのは現実的ではない。

国民に選挙で選ばれたわけでもない北朝鮮や中国の指導者のように、民主的には「資格のない人」が国を操っているわけではないのだ。

憲政史上突出した超タカ派一家の「安倍家」の政治家をトップに選んだのも国民だし、民主主義を自党に都合よく解釈する傲慢な谷垣禎一氏や高村正彦氏を選んだのも国民である。

タカ派である彼らが、最近とみに力の弱った米国に「軍事力で貸しを作る」ことは、国民が自民党と公明党に絶対多数を与えた時点で決まっていたことなのかもしれない。

不条理だと思うことでも、国民が民主的に選んだ結果なら、それは「道理」になる。


願わくば、戦前のナチスドイツのように、「憲法停止」などという暴挙に出ないことを祈るばかりだ。


憲法改正に臆病な安倍氏は、アドルフ・ヒトラーには似ても似つかないが、歴史はときに予測のつかないことをするものだ。

そんなときでも、自民党を選んだ選挙民と自民党に寄り添う公明党は、彼についていくのだろうか。


私は、そのことが、とても気になっている。



2015/07/19 AM 06:27:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

自己責任ヒステリー
2週間以上前のことだが、シリアで日本人が拉致された。

解放されたという情報は、まだ聞いていない。


10年以上前には、イラクで日本人が人質になった事件があった。

政府関係者の一部やマスメディアが、人質になった人に対して「自己責任」と断罪した事件だ。
インターネット・メディアは、今ほど傍若無人ではない時代だったが、やはり「自己責任」を大合唱していた。

週刊誌やニュースショーなども、コメンテーターが、「自己責任」を唱えていた。
私の友人たちも、その流れに乗り遅れるのが怖かったからか、「自己責任」を口パクしていた。

しかし、私は抵抗した。

いかに紛争地域とはいえ、合法的に入国した非政府組織の人が強引に拉致されたとき、なぜ人質側が責められなければならないのか、と。

それに対する反論の中では、「危険な地域だというのはわかっているのだから、捕まったって自業自得じゃないか」というのが、「自己責任論」の核になっていた。

友人たちからは、論理のすり替えだと言われたが、刑事犯の基本は、加害者と被害者を分けるところから始まる、と私は反論した。
誘拐犯は加害者、人質になった人は被害者。

被害者の行動を自業自得と決めつけたら、加害者側に無用な「情状酌量の余地」を与えることになる。
合法的に入国した人は、その国で犯罪を犯さない限り、「善良な外国人」だ。
その「善良な外国人」を拉致する方が、明らかに悪いのではないか。

「いや、合法的に入国したとしても、そこは紛争地域だ。平時の解釈は通用しない」

それに対して、私は、わかった、と了解した。
紛争地域では、国際法が的確に執行されることがないことは、紛争の性質上あり得るだろうと推測したからだ。

ただ、入国した非政府組織の人の心構えも、根本的な考えはお前たちと同じだと思う、と私は言った。
彼らも、危険なことを承知で行ったと私は思っている。

彼らは、「自己責任」を体全体、心全体に貼り付けて、覚悟して紛争地域に足を踏み入れたと思うのだ。

どこからも泥がかかってこない場所で、「自己責任」を合唱する人たちよりも、遥かに強い意志で、彼らは「自己責任」を背負って出かけたと私は思っている。

誰から言われたわけでもなく、自らの意志と責任で社会活動、人道支援に携わろうとした人の行動が持つ意義と、他人が遠くから吠える「自己責任」の本質は、明らかに違う。

海外で社会活動をする人には、当然のことながら、リスクが伴う。
そして、そのことを彼らが、知らないわけがない。

「自己責任」という言葉は、彼らの行動の中に、迷うことなく真っ先に埋め込まれた覚悟ではないか、と私は思っている。

その自己責任という重い荷物を持って他国に渉った人に対して、まるで「人質になった方が悪い」というような皮相的で画一的な批判は、平和日本に住む私には、気恥ずかしくてできない。

紛争地域で、中立的な立場で人道支援をしようとした人たちに、筋違いの「自己責任論」という批判を浴びせかけたら、紛争地域で働く、他の国の非政府組織の人たちさえも同列に批判することになる。

誰もがわかっていると思うが、悪いのは、「誘拐した方」だ。

私の思い込みかもしれないが、「自己責任」と断罪したら、事態には関係なく、きっと何かの溜飲を下げることができる、と勘違いしている人が多くいるのかもしれない。

しかし、少なくとも、私と紛争地域で社会活動をしている人とでは、人としての質が明らかに違う。
「自己責任」を肝に銘じている人に、「自己責任」を説く勇気は、私にはない。


10年前の総理大臣は、小泉純一郎氏だったと記憶している。

そのとき、政府と外交官の方たち、現地の関係者の尽力があって、人質は無事解放された。
彼らは、歴史的な偉業を成し遂げたと思う。

しかし、解放された後も「自己責任ヒステリー」というパラノイアは、日本国内に、しばらく蔓延していたことも私は記憶している。


今回、シリアで人質となった日本人に対して、世間はまた、「自己責任ヒステリー」を発症させたのだろうか。

最近の私は、新聞は読まないし、テレビのニュースショーも見ない。
インターネット・ニュースも見出ししか読まないという「世捨て人」の日常を過ごしているので、詳しいことはわからない。

何でもセンセーショナルに受け止める性癖のある大学時代の友人に聞いてみたら、「俺のまわりには自己責任だろってやつが多いな」と毒を吐くような言い方をしていた。

そうか。
そこで、ひとつ聞きたいのだが………彼を拉致した誘拐犯は、おまえたちにとって、英雄なのか勇者なのか?
それとも、彼らだけに通じる法で守られた合法的な誘拐犯なのか?
そして、紛争地域では、「善良な外国人」は、人権を捨てるのがルールなのか?

俺は、彼らを自動小銃と爆弾だけがたよりの「快楽的殺人鬼」だと思っているのだが、おまえらの考えは違うということかな?

・・・・・・・・・・・・・・・。

私の質問の仕方が悪かったのだろう。
意味が伝わらなかったようだ。


私はただ、「自己責任ヒステリー」は、銃を持つ軍隊の論理であって、丸腰の平民(戦闘的弱者)に向けるものではない、ということを言いたかっただけなんですがね。


これは、ヒステリーと決めつけるわけではないが、「アイス・バスケット・チャレンジ」は、難病を抱える方には頼もしいエールになるが、ただ表層的なブームをなぞるだけの人の行動には、ヒステリーの要素が入り込むこともあり得る、と私は考えている。

平民は、ただ見守るのみ。




さて、平民の私が、最近、ヨメに言われたこと。
「今年の夏は、何もなかったわねえ」

どこにも連れて行ってもらえなかった、と言いたいらしいのだ。
息子も、その意見に同調していた。

むかしのことを言うのはフェアではないかもしれないが、あえて言わせてもらう。
今年の3月には、娘の高校卒業祝いを兼ねて、ディズニーの豪華オフィシャルホテルに泊まって、ランドとシーを満喫した。
6月の初めには、日帰りバス旅行だったが、伊豆半島で楽しいときを過ごした。
家族サービスをしなかったわけではないのだ。

あの記憶は、皆の脳からリセットされてしまったのだろうか。


ここから先は、言い訳。

今年の夏は、仕事が忙しかった。
そして、すこぶる私の体調が悪かった(人生2度目の検査漬け)。

だから、どこかへ行きたいのなら3人でどうぞ、と私は提案したのである。
だが、「別に、そこまでは」と言って遠慮したのは、誰だ?

それに、小金井公園で一度、バーベキューをしたではないか。
そのあと、スーパー銭湯にも行ったぞ。

あれは、「何もなかった」うちに入るのか。
クソ暑い猛暑日に、4人で2万円近い出費だったが…(みみっちい?)

まあ、それもこれも、すべて含めて私の「自己責任」。

そこで、自己責任で、私は、久しぶりのオフ日の今日、武蔵野のホテルのデイユースを利用する予定を入れた。
12時から19時までの7時間。
おそらく、ほとんど眠りコケてしまうだろうが、今の私に、7時間の休養は大きい。


だから、今から楽しみでしょうがな〜い ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪





2014/08/30 AM 06:25:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | [メディア論]

大量の打ちまちがい
すぐ辞める。
すぐ辞めさせる。
すぐ辞めたがる。

乱暴な言い方だが、日本国籍を持たない人から年間5万円献金を受けただけで、何の大騒ぎ? という話だ。

野党が怒るのは国会運営上の戦略として理解できるが、本当に、その程度のことで、みなさん憤っていたのか。
世の中の人は、そんなに真面目な人ばかりなのか。

真面目すぎてメディアの言うことは正義だと、義務的に鵜呑みにしているとか・・・。

ニュースのインタビューで、「5万円の違反をしているんだから、陰でもっと違反してますよ」というのがあった。
その生真面目な言い分には、頭が下がる。
不正は許さない、という毅然とした態度は、まるで法の番人のごとし、だ。


唐突な話だが、私は民主党の支持者ではない。
あるいは、ネットの世界に凄まじいほどの「アンチの暴風」を吹き荒らす民主党嫌いでもない。
そして、他の党の支持者でもない。

人格破壊寸前のひねくれもの。
腰の定まらない無党派である。

ただ、無党派ではあるが、風は読まない。
メディアの作り話を素直に聞く度量もない。

自分の性格を冷静に評するなら、骨の髄まで卑怯で臆病な「ひねくれもの」。
それに尽きる。

たとえば、実績を上げていないのに、人気取りだけに労力を注いだコイズミ元首相が、私は大嫌いだった。
功績といえば、拉致被害者を数人引き上げたことだけで、経済的には格差社会を作って「失われた10年」を「失われた20年」にした。

たとえば、メディアは何の実績もないのに、ある人物を「剛腕」と言っておだて、闇の実力者にした。

たとえば、メディアは、アソウ前総理の言い間違い、読み間違いをあげつらって、支持率を大きく落とし退陣に追い込むお先棒を担いだ。


聞くところによると、歴代のアメリカ大統領は、原稿の言い間違い、読み間違い、読み落としを頻繁にしたという。
しかし、メディアは、そんなときも「からかう」だけで、大統領の息の根を止めるようなことはしなかったらしい。
つまり、言い間違いと政権担当能力は関係ないという「大人の対応」をしたのだ。

ひるがえって、日本のメディアは、日本語の言い間違いだけで大騒ぎをした。
政権担当能力と日本語能力は、イコールだというスタンスだった。

アソウ氏は、外務大臣時代、仕事をした人だったと私は思っている。
各国に「物申せる」人だったと、私は記憶している。
彼は、コイズミ氏よりできる人だったと思う。
ただ、彼にはマスコミをコントロールする能力だけがなかった。

そして、総理大臣になると、政権担当能力以外のことで「言葉の闇討ち」にあって、仕事をさせてもらえなかった。

一国の責任者の言葉の言い間違いなど、酒の席での話題にするだけで充分だろう。
だから、私も、そんな彼の言い間違いをからかった。
しかし、その「愛敬ある言い間違い」を、私はむしろ楽しんでもいた。

一国の責任者が、重要な政策や外交場面で言い間違いをしたら取り返しがつかないが、そうでなければ、普通は「愛敬」として受け止める。
その程度で、政権に致命傷を負わせることはない。

相手が総理大臣であろうが、知人であろうが、偉い大学教授であろうが、宇宙人であろうが、私だったら「ハハハ、間違えてやんの!」で済ます。

そこまで、生真面目になることはなかろう。

そんな生真面目さに、意味があるのか。


今回のマエハラ氏の場合は、言い間違いではない。
政治資金規正法違反である。

だから、弁解の余地がない。

そして、献金のことを「知らなかった」という政治家特有の小賢しいセリフに、私は反吐が出そうになった。
そんな言い訳が通用すると思った典型的な政治家的体質に、虫唾が走った。

ただ、マエハラ氏もアソウ氏と同じように、諸外国に「物申せる」政治家だと私は思っている。
無理を貫き通す中国・ロシア・北朝鮮に「物申せる」政治家は、それほど数多くはいない。
彼は、そのうちの一人だ。

たとえ、政治資金規正法で罰を受けたとしても、辞めさせることはない、と私は思う。

政治家の個々の資質を見抜いて、「辞めさせない」というキャンペーンも必要ではないか、とさえ私は思うのである。
ひと仕事させて、本当に彼が不必要だということがわかったら、選挙で落とせばいい。
それが、民主主義の根本的なルールだ。


メディアは、闇の権力者を作る手助けをするだけでなく、本物の政治家を育てることを考えたほうがいい。



近本的に木真面目ではない渡しは、そんなことを孝えたのであゐ。
(討ち間違いが大漁にありましたこと、お詫び申し上げ鱒。すべては催眠不足のせいで茣蓙います)




2011/03/10 AM 06:26:03 | Comment(3) | TrackBack(0) | [メディア論]

虚構のリーダーシップ
頭のかゆみ、顔の脹れが、少し引いてきた。

昨日までは、顔の筋肉が強張って動かしづらかったが、今日は何とか表情を作ることができるようになった。

ただ、まだ宇宙人・ハトヤマが残っているとヨメからは言われているが・・・。


ハトヤマ氏といえば、オザワ氏。

先日、オザワ氏に関して、気になる記事を見つけた。

それは、infoseek楽天の世論調査で、オザワ氏への支持が93%というもの。
YAHOOでは、オザワ氏への支持が59%。
ネットユーザーの間では、報道機関の世論調査とは反対に、オザワ氏がカン氏に圧勝しているようだ。

それに対して、YAHOO JAPANでは、「ネットの投票者は自らIDを登録して、政治コーナーに入り選択する。政治に積極的に関わりたい人たちの声だ」と分析している。


だが、私の分析は、違う。
たとえ、IDを持っていたとしても、ネットの世界ではハンドルネームが主流である。
それは、「半匿名的なもの」だと私は思っている。

ネットの世界でIDを持つのは、ただの入口で、それは住民票に名を連ねるのと同じものだろう。
なぜ、IDを持っているから「積極的」という唐突な結論になるのか、私には理解できない。

変な言い方になるが、彼らは名乗っているが、名乗っていない状態だ。
そこは、マウスを一度クリックしたら、また仮想現実の世界に逃げ込める自己存在証明の曖昧な世界なのである。
その行為は、私には「積極的」には、見えない。


唐突に、話が変わって・・・・・

過去も今も、大声を出した方をメディアは応援する。

悲惨な国際紛争のいくつかは、政治家や軍人が大声で扇動し、それに尻軽なメディアが迎合したことで、起こっている。

オザワ氏は、剛腕。
そして、統率力があり、実行力がある。

メディアによって作られた、そんなイメージにより、オザワ氏の虚像はいま膨れ上がっている。

だが、私はオザワ氏が、強烈なリーダーシップを示したのを、一度も見たことがない。

自民党内の権力争いに敗れ、党を逃れ、新生党を作った。
その後、いくつかの政党が寄り集まり、それが新進党になった。
ごく短い期間、政権を手にしたが、そこでも主流になりきれず、離脱して自由党を結成。
その後、自民党と連立を組んだが、ここでも一年で連立を離脱。
三年間、政界を放浪していたら、上げ潮の民主党に誘われて合流。自由党は、もろくも解党。

この履歴のどこに、強いリーダーシップがあるというのだろう。

私には、「負けの歴史」にしか、思えないのだが。


剛腕、というイメージを作り、メディアは、オザワ氏に恩を売って、何がしたいのか、と思う。

メディアは、臆病である。
強面(こわもて)に、極端に弱い。

鬼の形相で恫喝されたら、簡単に及び腰になる。
うんざりするほど長い間、それを繰り返してきた。

ペンは剣よりも強し、なんてことは、絶対にない。

「剛腕」と表現するだけで、政治家におもねっている、という単純なことにさえ、彼らは気づかないのである。

その結果、わずか3ヶ月前に「カネの問題で」幹事長を辞めた人間が代表選に立候補することに、何の異議も唱えないという究極の喜劇の黒衣(くろご)になる。

一般人の場合は、疑わしきは罰せず。
しかし、政治家は、疑わしきは失脚させる、というのが、モラルの番人としての気概だと私は思っているのだが、彼らは「経済の逼迫した今こそ、オザワ氏のリーダーシップが求められている」などと扇動して恥じることがない。

「負けの歴史」を背負った人が操るリーダーシップで、日本経済をよくするというのは、彼らにとってはお伽話かもしれないが、私には喜劇にしか見えない。

今の時代に、ミニ・田中角栄を待望するのは、幻想だ。
高度成長時代だからこそ、田中角栄は手腕が発揮できた。
中国が、日本のはるか後ろを走っていた時代と、今とでは世界の経済環境がまったく違う。

田中角栄の短気な政策では、今の成熟した日本を導くことはできない。
それは、オザワ氏も同じ。


恫喝とリーダーシップは、違う。
だが、90パーセントの割合で、人は、小さい声の人より、大きな声の人を支持する。
どんなに正しいことを言っても、伏し目がちな人の意見は、睨みをきかせた無法者の大声に掻き消される。
それは、テレビの討論番組を見れば、誰もが思い当たるはず。

確かに、ふところに、チャカやドスを忍ばせた人間は、怖い。
オザワ氏は、そのほかにダイナマイトも忍ばせているから、メディアは自分に火の粉が及ばないようにと、怖がっているのだろう。

保守系にシンパシーを感じている人は、「マスコミは民主党びいき」だという。
それに対して、民主党の支持者は、「マスコミは自民党びいき」だという。
だが、私は、「マスコミはオザワ氏に怯えている」と思っている。あるいは、強面の恫喝に怯えている。



オザワ氏は、ジャイアン。マスコミは、のび太。

では、ドラえもんは、だれだ?



ただ、こんな風に批判しても、もちろん私に定見があるわけではない。


私はただ「仏頂面が生理的に嫌い」なだけなのだ。


毎日のニュースで、オザワソーリの仏頂面だけは見たくない、という・・・・・・。




それにしても、頭が・・・・・まだ、かゆい・・・・・。




2010/09/13 AM 06:34:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | [メディア論]

イエスかノーか
先の参院選で、民主党に投票した人のうちで、子ども手当てに否定的な人が66%いる、というネットの報道を見て驚いた。

3人に2人が、反対。

財源が、ばらまき政策が、と報道するから、貰う側も及び腰になって否定的になっているのか、と思った。
しかし、記事には、具体的な根拠は何も述べられていない。

66%の人が、何を根拠にして子ども手当てに否定的なのか、まったく報じていないのである。
これを責任ある記事といっていいのか。

説明なしに、66%という答えだけを取り出して、何が報道か。
66%の数字を根拠にして、「子ども手当てノー」を強調したいだけなのか。


ワールドカップもそうだったが、メディアの報道は、ゼロか百である。

開催前に戦犯扱いだったカントクが、勝てば即「英雄」になる。

率先して「やめろコール」をしたメディアは、率先して「名カントクコール」で、過去の罵倒を覆い隠す。

ゼロか百。

アンケートの質問も、ゼロか百。

メディアは、いつもセンセーショナルな結果を誘導する質問だけを用意する。

たとえば、ワールドカップ後も、オカダ監督に代表監督を勤めてもらいたいですか、という質問があったとする。
「諾」か「否」か、二つしか選択肢はない。

サッカーに詳しい人は、オカダ監督の戦略面や用兵を考慮し、熟考の末、新しい監督に代表を託したいと思うかもしれない。
つまり、答えは、「否」。

サッカーにあまり詳しくない人は、今回のワールドカップの大々的な報道を見て、オカダ監督こそ最高の監督であると思うだろう。
つまり、答えは、「諾」。

我々が色々なことを判断するとき、このように、その人の興味の度合い、経験によって、同じ「否」「諾」でも、意味合いが違ってくる。

ゼロか百か。
選んでしまえば、それは結果的にゼロか百になるが、考える過程に、人はもっと色々なことを考慮し、条件付けをする。


結婚してください。

「はい」「いいえ」。

答えは、二つに一つだが、結論に至るまでに、相手の収入や親、性格、相性など、数え切れないほどの項目を、頭の中のチェック表に思い浮かべ、自分にとって最適な答えを選ぼうとするのが普通である。


結論は、ゼロか百でも、悩んだ工程は、そうではない。
極端な言い方になるが、99%に近いゼロもあるのだ。
やむを得ず、1%を選んで、結果、百の結論を得ることもある。


質問する側は、特にメディアは、自分にとって都合のいい結論を、アンケートで導き出そうとする。
要するに、見出しになりやすい結果を導くように、細かい条件付けなしで「はい」「いいえ」を聞く。

もしくは、こんな聞き方をする。
「子ども手当ては、バラまき政策という批判がありますが、あなたはどう思いますか。子ども手当ては、必要ですか、必要ないですか」

質問の前提に、批判を書いてしまったら、それは、公平な質問とは言えない。

ようするに、恣意的である。
彼らにとって、思い通りの結果が出たら、紙面の目立つところで、太い見出しを躍らせ、誘導の材料にする。
思い通りの結果が出なかったら、目立たないところで、ベタ記事扱いだ。
あるいは、アンケート結果自体が、ボツになる。


同業者との新年会で、子ども手当ての話題が出た。
参加した4人全員が、規定の子どもがいるから、全員が子ども手当てを得る資格があった。

将来は、どうなるかわからない。「バラまき」という批判もある。財源もはっきりしない。
しかし、とりあえず「子ども手当て」の支給が決定した。
「子ども手当て」、どう思う?

質問の前段に、私が否定を強調したからか、「無責任なバラまき政策だよ。必要ないね」という声が、3人。

「俺は、助かるよ」と言ったのは、私ひとりだった。

「まったく、無責任に何でもバラまきゃいいってもんじゃないだろ。これ以上、借金を増やすなよ!」

正論が、飛び交っていた。

ただ、そのうちのひとりは、後で私に耳打ちをし、もうひとりは、電話でこう言った。
「さっきは、ああ言ったけど、『子ども手当て』は助かるよ。俺の奥さんも、表向きは『バラまき反対』って言ってるけど、支給されたらどう使おうかって、悩んでるよ」

私も助かる。
貧乏人は、見栄を張っているヒマがない。

財源は、「誰か」が考えればいい。
私は、税金を納め、真面目に選挙権を行使すれば、それで国民の義務は果たした、と思っている。
私にできることは、それしかないのだから。

だから、義務の結果として、いただけるものは、喜んでいただく。
格好をつけている余裕が、私には、ない。


ただ、引越しの混乱で(行政のミスで)、2か月分いただけるはずの手当てを1か月分しか、いただいていない。

それは、「いいこと」か「悪いこと」か、と聞かれたら、もちろん百%「悪いこと」だ。

だから、行政の事務能力に対しては、「ノー」だ。
(結局、これが言いたかっただけ)




2010/07/21 AM 06:27:01 | Comment(5) | TrackBack(0) | [メディア論]

変人のワールドカップ
得意先に行く途中、自民党の候補者が遊説をしていた。

そして、そのまわりで数人の関係者がビラ配りをしていた。
私がその横を通ったときは、そのビラ配りの人に、痩せた50年輩の男の人が鋭い口調で話しかけているところだった。

「自民党も甘いよな。鳩山をあのまま首相にしておけば、参院選は楽だったのに。下手に追い込むから辞めちまっただろ。だいたい、あんたのところの党首は・・・・・・・」

ビラ配りの人は、それに対して、腰をかがめ神妙な顔をして、相槌を打っていた。
その光景を後にして、私は得意先への道を急いだ。

そして、打ち合わせを終えた35分後、同じところを通ったら、同じ男が同じビラ配りに、まだ抗議をしていた。
すごい粘着質な男だな。

会話を聞いてみると、
「こんな暑い日にビラを配ったって、誰も受け取りゃしないよ。日陰で配れよ。体使うだけじゃなくて、頭使え。そんな無駄ばっかりやってるから、民主党に負けちゃうんだよ・・・・・・」

候補者がすぐ傍にいるのだから、文句があるなら、本人に言った方が早いだろう。
暑い中、30分以上延々とビラ配りの人に抗議することこそ、無駄だと私は思うのだが。

変人なのか・・・な。

しかし、変人といえば、私と同類ではないか。
なんか、親近感が・・・・・。

ということで、変人のワールドカップ雑感を少しだけ、ご披露しようかと(こじつけ)。

1998年のワールドカップの代表選考で、オカダ監督は、カズを切った。
日本サッカー界の宝、日本サッカーの最大の功労者であるカズを切るのは、大英断と言っていいものだった。

私はカズのファンではないが、私が監督だったら、カズは切れない。
カズあっての、日本代表だと思うからだ。
しかし、オカダ監督は、純粋に戦力にならないと見て、カズを切った。

ただ、その時点でのオカダ監督は、選手のメンタリティ(根性論ではない)を知らなかったと、私は思っている。
特に、カズの。

私の勝手な思い込みではあるが、カズはたとえ直前でどんなに不調であっても、大舞台では活躍できる何かを「もっている」選手だと思う。
それは、今回ホンダ選手が「もっている」ものと、同種のものであろう。
あるいは、たとえ、試合に出ていなくても、彼が放つ「何ものか」は、他の選手に大きな影響を及ぼしたであろうと、今でも私は思っているのだ。

それが、一流選手が持つメンタリティだと思う。

しかし、オカダ監督は、そのメンタリティを理解しなかった。
あるいは、カズの存在が大きすぎて、彼には使い切れなかった。
だから、無惨にも負けた。

だが、今回、オカダ監督は、足の怪我で出場の叶わないカワグチ選手を代表に選んだ。

勝つため、というのなら、カズのときと同じように、カワグチ選手は、いらなかったはずだ。
申し訳ない言い方になるが、彼が使いものにならないことは、わかりきっているからだ。

そのカワグチ選手を選んだことで、私はオカダ監督が、目に見えないスポーツ・メンタリティを、今回は受け入れたのではないかと思った。

選手は、監督の言動以外にも、その行動に敏感に反応する。
カワグチ選手を代表に選んだことで、「今回の監督は違う」と、彼らは認識したのではないか。

もちろん、戦略面でいえば、ホンダ選手のワントップというのが、大きな賭けになって、初戦に勝利したのが、今回の躍進の原因だろう。

純粋に考えれば、絶対そうなる。

だが、ピッチにいないカワグチ選手の存在、彼を選んだ監督のメンタリティへの理解のようなものが、選手のメンタル面に多少の影響を及ぼしたのではないかと、私は勝手に錯覚しているのである。

多少の影響とはいうが、たった1ミリほどの影響でも、20人集まれば、20ミリになる。
その20ミリが、毎回ボールを前に押し出せば、ゴールは近くなるはずだ。

あの奇跡のフリーキックも、その20ミリが後押しをしたといったら、こじつけが過ぎる、と怒られるだろうか。

まあ、変人、そして素人のサッカー観ですから、そこは、大目に見ていただきたいと思います。




ところで、毎回思うのだが、スポーツ実況の、あの白痴的な騒々しさは、どうにかならないだろうか。

何人かのアナウンサー、解説者は、ただの応援団で、サッカー理論を披露することをまったく忘れていた。
あるいは、彼らは、もともとそんなものは持ち合わせていないのかもしれない。
名まえだけで、解説のお仕事をいただいた人たち、とか。

状況を客観的に解説できる人が、あまりにも少ないというのは、日本のスポーツジャーナリズムの悲劇である。
サッカー、ボクシング、バレーボール、野球などなど。フィギュアスケートは、一人を除けば、ましな方である。

もう20年以上見ていないのだが、かつてのプロ野球中継もそうだった。
カネダという大投手だった人が解説をしていて、巨人の投手がピンチになると「頑張れ〜」と居酒屋のオッサンのようなことを毎回叫んでいた。
ハリモトというヒットの職人の解説も、「ここは頑張らないとダメですよ」と、まるで選手のオヤジのような力の入れ方で、毎回「喝」を入れていた。

ここのブログで何回か書いているが、プロのアスリートは、一般人よりも「頑張る才能」があるから、プロになったのである。
それは、プロとしての大前提だと私は思っている。

その「頑張る才能」を持ったプロに、まるで素人の言いがかりのように「頑張れ」と連呼するのは、プロの解説者として、あまりにも怠慢ではないかと私は思うのだ。
あるいは、アスリートに失礼ではないか、と。

それもあって、私はプロ野球中継をまったく見なくなった。バレーボールも、ボクシング中継も見ない。

そして、サッカー中継もあまり見ない。
ただ、サッカー解説者は、少なくともプロ野球解説者よりは頭がいいだろう、と私は好意的に見ていた。

しかし、今回の中継を見て、サッカージャーナリズムの貧困さに、私は気づくことになった。

「〜してもらいたいですね」「〜するしかないですよ」「惜しかった」「ここは、頑張りどころでしょう」「あと一歩足りませんでした」

サッカー理論は、どこいった?

つぶやくなら、ツィッターで充分だろう。

テレビの前の人と同じ目線、同じ言葉で騒ぐのが、自分の仕事だと、彼らは勘違いしているのか。
あるいは、勘違いではなく、それこそが自分の仕事であると確信しているのか。

死力を尽くした日本代表の闘いさえ、色あせる空虚な言葉の氾濫。

サッカージャーナリズムの行く末は暗い。
私には、サッカージャーナリズムの未来が、テレビ中継が激減し、あぶれた解説者が漂流しだしたプロ野球と同じ末路を辿るように見える。

見える、見える、見え〜〜る。


整いました!

「サッカー解説」とかけまして

「古文の授業」と解きます。

そのこころは、

どちらも、「けり(蹴り、〜けり)」にうるさいです。

ミラ・ジョヴォヴィッチです。


やっぱり、変人?





2010/07/05 AM 06:25:58 | Comment(3) | TrackBack(0) | [メディア論]

下世話な人たち
結局、徹夜してしまった。

眠いが、うれしいから、我慢する。

開幕前は、3連敗するのでは、と言われた日本代表。
それが、前評判を覆す大活躍。

ここは、素直に、日本代表を讃えたいと思います。

ワクワクさせてくれて、ありがとう。

ワールドカップは、これからさらに盛り上がる。


では、昨日スタートした参院選は、はたして盛り上がるだろうか。

日本の総理大臣は、生徒会長のようなものだ。

一年に一回、変わる。

コロコロ変わる最高ポスト。

違うのは、生徒会長は直接選挙だが、総理大臣は政党の派閥の動きで決まること。
そして、総理大臣の命運は、その場限りのネタだけで世論を誘導するメディアに握られていること。

アベさんからハトヤマさんまで、4人の世襲議員が途中で政権を投げ出したが、私には彼らに、政権を投げ出すほどの大きな失策、失点があったとは思えないのである。
開き直れば、投げ出さずに在位を全うできた人が、ほとんどではないかと思われる。

支持率が下がると、「降ろし」が表面化する。
まるで邪悪なもののけのように、四方八方から手を伸ばし、高みの人間を引き摺り下ろそうとする。

その根拠となる支持率が、怪しい。
「低下」だとか「急降下」「危険水域突入」だとか、支持率の前に「煽り言葉」を付けて、メディアが数字を装飾する。
最近では、「V字回復」という経営学で使う言葉まで使って、煽っている。
それを見た人は、数字よりも「煽り言葉」に惑わされて、「やばいんだな」あるいは、「回復したなら応援するか」と、知らないうちに誘導される。

不支持が、流行になってしまったら、下りの坂道は、もっと急になる。
転がり落ちる。

そもそも、こんなにも頻繁に、世論に支持を聞く必要があるのだろうか。
記者たちが、人の興味を惹く記事が書けないから、安易に興味を惹くことができる内閣支持を聞きまわっているとしか、私には思えないのだが。

そのほかに、あげ足取りがある。
アソウさんのときは、政策とまったく関係ない日本語の言い間違いを、まるで国賊を扱うような報道で、叩いた。
定額給付金を「バラマキだ」「人気取りだ」と批難したが、アソウさんが辞めた後に、その後の日本経済の総括を彼らが報じた記憶が、私にはない。

定額給付金を捻出するのに総額いくらかかり、それにより3ヵ月後、半年後、あるいは一年後、消費はどれくらい促進されたのか、あるいは停滞したのか。雇用は改善したのか。国内総生産に変化はなかったのか。
それらを定額給付金と関連付けて検証した報道を私は見たことがない。

子ども手当てに関しても、民主党は半分公約を守ったが、その財源の収支、そして及ぼした結果を、いつの日か総括して報道してほしい。
言いっ放し、書きっ放しでは、日記と同じだ。

メディアは、いつもその場限りで判断するから、堪え性がない。
そして、その報道に接した人間も、堪え性がない。

指導力がない、という報道があれば、「ああ、指導力がないんだ」と、素直に受け入れる。
違法なカネで私腹を肥やしている、という報道があれば、たとえ不起訴になっても、「あいつは、カネに汚い」と、8割以上の人が判断する。
「消費税10%やむなし」と、テレビでよく見かける人が言えば、「ああ、仕方ないんだ」と、大変聞きわけがいい。
「仕分け」の中身よりも、「仕分け」という言葉だけを強調した報道に接した人は、「仕分け」さえしておけば、他の「無駄」には、目をつぶる。

そして、毎日どこのメディアも同じ報道をして、彼らのイメージを固定する作業に没頭する。

おぼっちゃん。
独裁者。
無能。
ブレている。
期待はずれ。

ニュース番組などで街頭インタビューに答える人たちは、どこかで聞いたような意見を言う人が多い。
思い返してみると、それはテレビのコメンテーターのものだったり、キャスターの意見だったことに気づく。
「世論」とは言うが、人々の間から滲み出るように湧き上がる意見を、メディアがそのまま吸い上げることはない。

本来なら真っ直ぐ流れるはずの川の水を、無理矢理支流を作って、小さな洪水を起こそうとしているように、私には思える。
自分たちが誘導できない世論には、メディアは目も向けないのである。

メディアの扱いが上手だったコイズミさんは、高い支持率を得て、最終的に自民党を「ぶっ壊した」。
自民党をぶっ壊した、という点では、コイズミさんは、評価されていい。
メディアは、その尻馬に乗っただけ。

ただ、それは、もちろん結果論。

今回総理大臣に就任したカンさんは、私が勝手に想像するところ、メディアに愛想を振りまかないから、ハトヤマさんよりも短命に終わる可能性が高い。

コイズミさんは、メディアのご機嫌を取るのが上手だった。
ハトヤマさんは、下手だった。
そして、カンさんは、それ以上に頑固で不器用な気がする。

久々の庶民出身のソーリ大臣ではあるが、メディアは、自分に靡かない人は、すべて敵だと思っている節がある。

「われわれの総理大臣」を支えようという気は微塵もないようだ。

少し前のことだが、電車の中刷り広告を見ていたら、週刊文春や週刊新潮は、船出したばかりの内閣総理大臣や、その夫人に対して、例によって下世話な話題を得意気に吹聴していた(中味を読んでいないので、詳しい内容は知らないが)。

下世話な話題よりも、政策だと思いませんか。
公約に違反したなら、公約違反だけに絞って、真正面から論を挑んでほしい。

世の中に完璧な人はいない。
総理や夫人の性格や行動をあげつらうのは、ただのゴシップだ。
議論の提起ではない。

そして、まだ何もしていないのに、内閣の支持を聞く白痴的な報道も、いい加減やめてほしい。
それは、シーズンがまだ始まったばかりの段階で、オールスターの人気投票をしているようなものだ。

メディアに本当の矜持があるなら、自分にとって都合のいい識者の意見だけを取り入れるだけでなく、公平な検証を行って、真っ向から意義を唱えるべきだ。
それができないメディアは、「三流」。
そして、いつまでたっても、自分たちの報道に責任を取らないメディアも三流。

アベさん、フクダさん、アソウさん、ハトヤマさん、そして、次のターゲットのカンさん。

下世話なメディアは、下世話な話題だけで、総理大臣を葬り去る。

参院選も下世話な結果にならなければいいのだが。




寝ていないので、文章が、メチャクチャ・・・・・。

ほとんど、殴り書き(反省)。




2010/06/25 AM 06:34:01 | Comment(4) | TrackBack(0) | [メディア論]

妄想オリンピック
バンクーバー・オリンピックは、クライマックス。
そして、キム・ヨナ選手は、強くしなやかだった。

浅田真央選手も、一つの時代を築いた戦いをしたと思う。
まさしく美の競演。

あっぱれ! 銀メダル!

ただ盛り上がったところに水をさすようですが、私は、このブログで以前書いたことがあるが、昔から採点競技はスポーツだと思っていません。
そのため、興味が薄くて、ニュースのダイジェストで断片的な映像を見ての感想です。

いい加減なコメントで、申し訳ありません。


話し変わって――――――
以前のブログで、国母選手のことを「國母」と書いてしまった。
ネットで名前の表記を見ると、ほとんどが「国母」となっている。

どっちが本当なんだろう。
まあ、どっちでもいいとは思うのだが、頭の固い人というのは、世の中にたくさんいる。

名前は、正確に記そうよ。
そんなことにこだわる人が、意外と多い。

名前のことではないが、そんな頭の固い人に関連した話題をひとつ。

先日、池袋の得意先に行ったら、50代の部長と30前後の部下の二人から、「スノーボードはチャラい感じがして胡散臭い。オリンピックに相応しくない」ということを言われた。

「そうですね、チャラいですね、胡散臭いですね」
そう言えば、波風が立たず、会話はそこで終わる。

しかし、スノーボードなどやったことがない私だが、そんな風に偏見丸出しで断定的に言われると、心が吹雪いてくる。
年に一回程度しか仕事を出していただけない得意先。
このままストレスを抱えたまま帰るか、得意先を失う覚悟で思ったことを言うか「運命の二者択一」が、私の頭上に降りかかる。

昨年の仕事は、1万3千円弱の仕事一回きりだったな。
よし! 思ったことを言おう!

胡散臭いと言えば、スキーのジャンプだって、私には充分に胡散臭い。
あれは、ジャンプではなくて、向かい風に吹き上げられて落ちていくだけじゃないか。
要するにムササビ飛行だ。

日本が冬季オリンピックでメダルを取れそうな数少ない種目だから、注目が集まっているだけだ。
メダルを取ったことのある種目なら、異端児がいたとしても人は許すのである。
私には、そんなメダル基準のあなたたちこそ胡散臭い。

カーリングも、あれはスポーツか、という疑問を持っている人は多いと思う。
若い女子が、けなげに集中している様子が微笑ましくて、ただ騒いでいるだけではないのか。

それに対して、50代の部長が反論。
「いや、よく見てみるとわかるが、あれは全身を使っている。ブラシのようなもので懸命に氷を擦っている姿は、間違いなくスポーツだ。あの姿は躍動感に溢れている。美しい!」

しかし、あれを男がしていたら、部長さんは熱くなりましたか?

「・・・・・・・」

話は飛ぶが、たとえば、太った男が髷を結って、まわしを締め、公衆の面前で肌と肌を強くぶつけ合う競技は美しいですか。
あれは、伝統行事という名のDNAが日本人の脳内に埋め込まれているから受け入れられるのであって、無の意識で見たら、相当に気持ち悪い行事だと思うのだが。

某プロ野球集団もそうだ。
某大新聞社が、他の11球団を差し置いて、ただ自分の所有するチームを自己の持つメディアを利用して、「頑張れ」と応援する様は、不公平以外の何ものでもない。

あれは、天覧試合や9年連続日本一というDNAが、ファンの脳に刷り込まれているから許されるのであって、それがなければ「えこひいき!」のブーイングを浴びているところだ。

ゴルフだって、散歩して止まっている球を打つだけの遊びが、誰が言いだしたのか「紳士のスポーツ」という刷り込みがあるから、スポーツとして認められているのだ。
それがなければ、「リョウくん、なにしてるの! 棒切れで止まった球なんか打って、なにが面白いの!」という罵声を浴びたはずである。

すべては、その競技が与えるイメージなのだ。

スノーボードだって、競技者がちょんまげを結い、裃(かみしも)を着て、刀を腰に差し、足袋を履いていたら、頭の固いお歴々には受け入れられたかもしれない(そんなことはないか)。

ただ、國母選手には、メダルを取ってほしかった。
そして、こんな見出しが見てみたかった。

「すごいぞ國母 大和魂!」
「日の丸を背負ったサムライ 國母が金!」
「日本中が國母の技に酔いしれた!」
「腰パン國母 世界の頂点に!」
「スノボの英雄 國母が金!」
「私だけが知っている 國母選手は実は好青年だった!」

そして、成田空港に降り立ったら、歓喜の嵐。
ニュースショーに引っ張りだこ。

最後は、自伝の出版。

「オレ流國母のスノボー人生」

さらに、話を続けようとしたら、得意先の部長に話の腰を折られた。

「Mさん、あんた、妄想癖があるねえ!」

もう、そういうこと言わないでくださいよ、部長ォ。
(見事にスベったオヤジギャグ)


気分を変えて、なぞかけ

「冬季オリンピック」とかけまして、
ますだおかだ」の岡田のギャグと、ときます。
(そのココロは)どちらもスベって喜ばれます。

受けなかったので、もう一つ。

「金メダル」とかけまして、
「灯台」と、ときます。
(そのココロは)どちらも台の上で光ります。


おあとがよろしいようで・・・・・・・。




2010/02/27 AM 06:26:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

今さらながら國母選手の腰パン
冬季オリンピックは、高橋大輔選手が銅メダルを取ったので、盛り上がっているようだ。
男子スピードスケートも、メダルを取ったらしい。

めでたいことです。

日本選手が活躍すれば、世の中は明るくなる。
希望が見えてくる。
それが、つかの間の希望だとしても、ないよりはいい。

ただ、どうでもいい報道もあった。
國母選手に関してのことだ。

賛否両論。
報道を見る限り、否のほうが多そうだが、メディアの報道は偏っているので、それを鵜呑みにはできない。

メディアの手法は、朝青龍のときもそうだったが、だいたい同じ手順を踏んでいる。

まず過剰報道・過熱報道がある。
そして、同じ意見を網羅して情報操作をする。
さらに、なぜか政治家や文化人が口をはさんで、自分の存在をアピールする。

最後に、「一人の悪人」が仕立てられる。

横綱の品格ってなんだ?
私は相撲にはまったく興味がないので、これはピント外れの疑問かもしれないが、「横綱の品格」など考えたこともない。

もし、強くて黙々と土俵に上がる人が品格を備えているというのが「横綱の品格」の定義なら、それはプロのアスリートとして、どうかなと思う。
様式美だけを備え、ただ強いだけのアスリートには、私は魅力を感じない。
いや、お相撲さんは、神技の中の人だからアスリートではないという見方なのか。

しかし、神技の中の存在なら、横綱になる前に、その定義を彼の頭脳に叩き込むべきだったと思う。
相撲興行が商売でなく純粋な神技だというなら、「神技」として相応しい人を横綱に選ぶべきだろう。
選んだあとで、「相応しくない」というのは、あと出しジャンケンみたいで、フェアではない。

相撲が「神技」ではなく、純粋なる興行、プロとしての競技なら、強くて人気のある人を横綱にすべきだ。

では、相撲は、神技なのか、商売なのか、どっちなのか?
相撲協会の考えていることは、どっちつかずで、私には理解不能だ。
ただかたくなに権威に胡坐をかいて、既得権を主張している官僚組織と同列にしか見えない。

だが、私は朝青龍の肩を持つつもりはありません。
暴行は犯罪です。
もし彼が本当に暴行を働いたのなら、犯罪者は、潔く罪に服すべきだと思っています。


ところで國母選手。

服装の乱れ、というが、その定義も難しい。
それは、ひとそれぞれの感覚だから、要するに「好き嫌い」ということである。

だからこそ、賛否両論があるのだろう。

私は実は、その國母選手の乱れた服装を見ていない。
だから、どれほど「乱れていたか」を知らない。

腰パンという報道があったが、それは、彼が今まで蓄積した実績を覆すほど「乱れた」ものだったのか。
日本代表として相応しくないほど、その腰パン姿は、万人に不快感を与えたのか。

見ていないから、そのあたりが、理解できないのですよ。

だから、観点を変えた疑問を提示したい。

「服装が乱れている」
「日本代表として、その姿は相応しくない」

そう初めに言い出したのは、いったい誰なのか?

高速道路の渋滞にも、必ず起点がある。
起点があってはじめて渋滞が始まる。

今回の國母報道の起点は何だ?

皆が一斉に、同じ時間軸で彼の「服装が乱れている」「日本代表として、その姿は相応しくない」と言い出したのか。

私には、そんな非現実的なことは想像できない。
誰かが、情報操作をしているのではないか。
そう思ってしまったのである。

新聞、週刊誌、テレビ、インターネット。
どの媒体を使っても、メディアの番人なら、そんな情報操作は難しくないと思える。

集中的な過熱報道で、ある人を非難する。
メディアが好んで取り上げる、同じ方向を向いた扇情的で意図的な同一意見。
そして、それに対して、反論するひと。

それで、メディアは「ニュースを作る」ことができる。
しばらくは、話題に困らない。

誰かがメダルを取ったら、今度は当たり前のように話題はそちらに移って、「服装の乱れ」は、ニュースバリューではなくなる。

そして、國母報道の起点は、見事に忘れ去られる。
そんなことの繰り返し。

たとえば、一選手の服装が乱れているのと同じように「政治・検察」も乱れている。
ただ、もちろんそれを、今回の國母報道と同列に論調することはできない。

ただ、「政治・検察の乱れ」の方が、明らかに国にとって大事だということは、誰にでもわかると思うのだが、メディアだけは腰が定まらず、毎度浮き草のような報道しかしない。

彼らは、検察から洩れた情報をそのまま流し、政治家の言葉を「ぶれている」のひと言だけで片付ける。
そこには、彼らだけに課された「検証」という、最も高度でプロとして必然的にしなければならない作業が抜け落ちている。

つまり、今回の報道で、メディアこそ乱れている、と思ったのは私だけだろうか。


ところで、トヨタのこと。

ブレーキは安全性能の基本である。
だから、それをないがしろにしたことは、弁解の余地がない。
いくら叩かれても、仕方がないと思う。

米国のトヨタ叩きは、過激すぎる気もするが、もし今度、米国の車やシャトル、飛行機に欠陥が判明したら、その時は、徹底的に叩けばいい。

ただ、米国の企業は、私のイメージでは「安全神話」がないように思える。
安全は、ユーザー各自の責任。我が会社にも国にも責任はない。
そんな開き直りが、米国の傲慢さからは垣間見える。

他人には厳しく、自分には極端に甘い。

そんな国家相手に戦う日本の企業は、大変ですね。

トヨタさん。
米国のタフな「交渉人」を雇ったらどうでしょうかね。

そうすれば、米国対米国の争いになる。
この構図なら、米国の傲慢さが浮き上がってくると、私は思うんですが。

どうですかね。
ハリウッド映画のようには、いきませんか。


ところで、タイガー・ウッズは、なぜ謝らなければいけなかったんだろう?

アメリカのメディアは、相当彼を叩いていたようだが、彼の行いがそんなに非人道的だとは、私には思えないのだが。

彼が、黒人の大金持ちだということに対して、何か意図的なものが働いているのだろうか。

白人社会は、他人には厳しく、自分には極端に甘い。

大きな声で言い訳をし、自分に非があっても、大声で相手を攻撃したほうが勝つ社会は、私には歪んだ幼稚な世界に見えるのだが、そう思うのは私だけだろうか。


意味のない話をしてしまいました。
このことは、お忘れください。



2010/02/21 AM 06:27:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

オザワ悪人説
闇商人と闇将軍。
以前、そんなことを書きましたが(コチラ)、思ったとおり説明責任は、果たせないようだ。

国を統べる行政の長は、疑惑をもたれたら、たとえそれが謂われなきことであっても、自ら疑惑を晴らす義務がある。
少なくとも政治家としての職責にまつわるすべてのものに対して、彼はガラス張りであるべきである。

有権者のほとんどは、彼の膨らんだ財布や権力を崇め奉りたいがために投票したのではない。
有権者が思うところは、単純である。

ただ、我が暮らしを良くしてほしい。

しかし、だからといって、景気その他の政策に対して、性急に結論を出すべきではない。

政権交代から、約5ヶ月。
私は、その政策に関して、結論を出すのは早すぎると思っている。
5ヶ月で簡単に好転する世の中なら、バブル後の悪夢とも言える「空白の10年」など、なかったはずである。

「負」を背負い込んだ大企業が低迷し、中国の「民力」に押しつぶされる数年の状況をみると、わずか5ヶ月で結果を出すなど、魔法を使わない限り無理だろう。
闇商人と闇将軍は、錬金術は超一流だが、おそらく魔法は使えない。

だから、早期の景気回復を期待してはいけない。
また、「既得権」という概念だけが、その脳細胞を支配する官僚という頭脳明晰集団は、ある意味魔法使いだが、彼らはその魔法を日本を良くするためには、使っていないように思える。
自分たちの天下り先を確保することに関しての魔法は、いつも使い放題だが。

だから、政権交代だけで日本の景気がよくなるのを期待するのは、都合がよすぎると私は思っている。

ただ、政権交代をしなければ、何も変わらないのも事実。
そして、自民党が変えてこなかったものを他の政党に託すというのは、有権者としては、健全な願望だといえる。
しかし、まだ日が浅すぎる。
人間だったら、生後5ヶ月では、歩きもしない。
それは極論だとしても、新しいシステムが機能するには、まだ時間がかかるだろう。

もう少し待つべきだと、私は思っている。

だが、闇商人と闇将軍の疑惑は、行政の長の立場を考えたら、見逃してはいけないものだ。
権力者が、大金を手にしやすい構図は、万民に明らかにすべきである。
その金が、社会に健全な状態で出回るのならいいが、ただ権力を維持するために身内だけに溜め込まれた金なら、法の監視が行き届いていない場合、それは死に金になる。

そのことは、速やかに解明してほしいものだ。

もし明らかにできないのであれば、辞めていただくしかないのではないか。

疑惑に対する説明責任というのが、民主党のマニフェストにあったかどうか、私は知らない。
しかし、なかったとしても、そこは「有権者に権力を信託された政治家として」判断すべきことだろう。

でも――――――それは無理なのかな。
民主党の看板を掲げていても、自民党的な政治家として染み込んだゴマカシの体質は、抜けきれないのかな。
秘書を生け贄にする逃れの技術は、保守政治50年の長きにわたって培った「最高のテクニック」だ。
その染み込んだ体質は、簡単には抜けないのだろうな。

それは、有権者にとって、不幸だ。

だが、不幸といえば、短絡的なマスメディアを持ったことも、不幸だとはいえまいか。

「オザワは悪人」
メディアの報道は、その一方向にしか向いていない。

新聞、雑誌、テレビ、インターネット。
すべての媒体で、なぜか「検察サイド」が書いた筋書き通りに、ニュースが形づくられている。

そこには、当然あるはずの合理的な検証、分析が抜け落ちている。

「検察の言葉」は、神ではない。
「検察の行動」も、神ではない。

まだ、明らかにされていないことのほうが多いのだ。
それなのに何故、みんなが同じ方向を向いているのだろう。

冤罪が作られる構図を作り出したのは、こういったこの国のメディアの体質だ。
検察と警察という権力が垂れ流す情報を無批判に報道するだけでは、メディアの主体性を見出すことはできない。

疑惑を追及する態度は、いい。
しかし、それには権力とは別の検証が伴うべきだと、私は思っている。

検察が唱える正当性というものを、もっと吟味して報道したら、いまの「オザワ悪人」一辺倒の報道は、もう少しましなものになるのではなるのではないだろうか、と私は思うのだ。

そして、アソウ氏の時のように、言葉遣いの間違いで揚げ足取りをするのは、もうやめたらどうか。
政治家に国語力を求めてどうするというのだ。
政治家に求めることは、もっと他にあるだろう。
あれには、ニュースの価値は一片もない。

知りたいのは、ただ真実のみ。

決して、オザワ氏を極悪人に仕立てることではないと、私は思っているのだが。



2010/01/23 AM 06:22:01 | Comment(0) | TrackBack(1) | [メディア論]

桃太郎は、Mでいい
ときには、真面目な話を。

カメイ金融相の中小企業へのモラトリアム政策
「剛腕」と言われたがっているように見えるカメイ氏は、この件に関して、かなり力が入っているようだ。

瀕死の状態の中小企業は、その「善政」を一時的には、喜ぶだろう。
しかし、もともと自己資本比率の低い、名ばかりの大銀行は、どうなるのだろう。
結果的に、共産社会のように、政府が規制・統制して、最後は国の(国民の)財布を当てにしてしまったら、それはバブル後の世界と、何も変わらないのではないか。

そうなると、「わが国は先進国だ」などとは、胸を張って言えなくなるような気がする。

中小企業が健全な社会は、経済の軸がぶれない活気ある社会である。
だから、中小企業を生かすという政策は、間違っていない。
ただ、それが信用不安を巻き起こすものだとしたら、国民生活さえも犠牲にするものである、と言えないか。

狭い世界の話をしよう。
M家の話である。
我が家が貧乏なのは、私の能力がないからだ。
要するに、金儲けが下手なのだ。

それは、すべてが、自己責任である。
そのことに関して、私は家族にも人様にも迷惑をかけている。
すまん、と思う。

破綻寸前の貧乏一家。
私にも家族にも、モラトリアムな時間が欲しい。
そう切実に思うが、日々の生活は待ってくれない。

時は、止まらないのだ。

モラトリアムは、時を止める政策である。
だから、目先の経済不安を解消するためだけに時を止めるのは、私には愚策に思える。

動いてこそ、経済。

頭のいい剛腕・カメイ氏には、そんなことは、とっくにお見通しだと思うが、剛腕はどのようにして、そのブレを修正するのだろうか。
カメイ氏にとって、久しぶりの政権参加。
連立政権に参加したという「気負い」が、空回りしなければいいのだが。


続いて、光市母子殺害事件

加害者を実名で扱った本に対して、加害者側から出版差し止め仮処分の申請が出たという記事を見た。
当時未成年だった加害者。
当然、少年法の適用を受けて、実名は公表されない。
だから、彼は、最初から「少年A」である。
成人した今も「少年A」だ。

それに対して、実名を公表したメディアもあったと聞く。
ネットでも、公表されたらしい(私には覗き見の趣味はないので詳しくは知らない)。

この犯罪は、人の仮面をかぶった、まさしく鬼畜の所業。
それは、厳しく断罪されるべきだが、裁くのは、メディアではないし、世論でもない。
法だ。

私の持論を述べたいと思う。
私は常々、被害者、加害者のいる事件の報道は、イニシャルで十分だと思っている。

これから書くことを、ふざけている、と怒らないでいただきたい。

たとえば、こんな事件があったとする。
岡山県に住む桃太郎(13)が、鬼が島で赤鬼スケさん(19)と青鬼カクさん(18)を殺害した。
双方が、未成年である。

この場合、通常であれば、加害者は、となり、被害者の表記は、赤鬼スケさん(19)と青鬼カクさん(18)となる。
被害者は、未成年でも、実名表記なのである。
そして、メディアは、赤鬼スケさんと青鬼カクさんの普段の所業を暴き、「殺されて当然」と断ずる。

それは、起きた事件に対して、いかにもバランスの悪い記事であると言えないか。
被害者が、好奇の目にさらされ、中傷の渦にもまれるのである。
それは、理不尽だ。

しかし、だからと言って、加害者Mを「桃太郎」と実名表記して、芝刈り上手なおじいさんと洗濯上手なおばあさんの保護者責任を、あることないこと書き、責めていいということにはならない。
なぜなら、法が「桃太郎」を少年として保護しているからである。

それなら、バランスを取るために、すべてをイニシャルにすればいいではないか、と私は思うのだ。

岡山県に住む(13)が、鬼が島でA・Sさん(19)とA・Kさん(18)を殺害した。

そんな内容の記事では、いけないのか。
そうすれば、被害者が必要以上に貶(おとし)められることはなくなるだろう、というのは、あまりにも楽観的過ぎる考えだろうか。

メディアは、貪欲ですからね。
たとえ、イニシャルで表現したとしても、なるべく加害者・被害者を特定できるようなハイエナ的な文章を書いて、容赦なく両者のプライバシーを暴く可能性もある。
そして、歪んだ想像力を駆使し、してやったりの顔で、自分たちの立てた波紋を傍観者のように眺めるかもしれない。

しかし、それはそれとして・・・・・。
今回の出版に関して、作者は「実名報道だけが取り上げられるのは、本意ではない」などと言っているという。
だが、それは言い訳に過ぎないと、私は思っている。

実名報道は、センセーショナルである。
禁断の実名報道本が出たら、まず「実名報道」が優先されるに決まっている。
だから、それは、はじめに実名ありき、と思われても仕方がない行為であると言える。

もし、作者が、高潔な使命感プロフェッショナルとしての文章力を持っているのなら、実名に頼らなくても「少年A」で、事件の本質は表現できるはずだ、と私は考える。

作者がもし、事件の本質を根底から掘り下げたいのなら、少年犯罪報道に対して「高潔な志」を持つべきだ。
そして、それは、私の考えでは、「実名報道」とは、リンクしない。

高潔、という言葉からは一番遠い位置にあるメディア。
事件の本質を伝えるのに、加害者・被害者の日常を暴くことしかできない彼らには、イニシャル報道は「死活問題」かもしれない。

しかし、事件の本質は、実名だけにあるのではない。
加害者の背負い込んだもの、彼の人格を作った背景、被害者への思い。
それらすべてを伝える作業は、「少年A」で十分こと足りるものだ。

もう一度言うが、犯罪者を裁くのは、メディアではない。
法だ。

さいたま市在住のM・Sさんは、そう思っています。

だって、「桃太郎」は、主人公の名前が「M」でも、お話は十分理解できますから。



2009/10/19 AM 06:27:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

ノムラとマツイ
楽天のノムラ氏が嫌いである。

それは、私の中で、自民党が嫌い、演歌が嫌い、東京ジャイアンツが嫌い、というのと同レベルのものだ。

「試合に勝ったら俺のおかげ、試合に負けたら選手のせい」という姿勢が嫌いなのだ。

こいつの性格、まるでジャイアンそのものじゃないか。
だから、嫌っているのだと思う。

阪神タイガースの監督を3年。
すべて最下位だった。

その結果を選手のせいにして、ノムラ氏はいまだに、名監督の冠を得ている。
楽天でも2年間Bクラスだったらしい。

「このメンバーで優勝を期待するのは無理だよ」
最初から、匙を投げているのだ。
戦う前に、煙幕を張って自己弁護をしている、その姿勢が嫌いだ。

しかし、今年はAクラス(らしい)。

このメンバーでAクラスに入ったのだから、「俺のおかげだよ」。
得意気に見える。

マスコミ向けに色々なことを毎回ボヤいている様が、ネットのニュースの中で取り上げられている。
見出しだけしか読まないので、その「名作ボヤキ」の独演会の内容は、まったく把握していない。

それは、かなり過激なボヤキのようだが、それは直接選手に発言したものなのか、マスコミ向けだけのものなのか、いまひとつ理解できない。

もし、それが選手を蚊帳の外においての「マスコミ向けのサービス」だとしたら、私のノムラ氏への印象は、さらに悪くなる。

選手に恥をかかすのが、監督の役割なのか。
「それは、最低だな」
そう思ってしまうのだ。

ただ、そのボヤキを直接選手に(あるいはコーチ経由で)伝えているとしたなら、「名監督」とまではいかないが、まあ許せるオッサンだと思う。
はたして、どちらなのだろう?

ただ、どちらにしても、ひとつのチームを3年間最下位にした監督が「名監督」のわけがない。
戦力分析が手探りの1年目はともかく、3年間、手持ちの駒を機能させることができない指揮官のどこが「名」だ?
世界中のどこにも、3年連続最下位の指揮官が、「名監督」の評価を受けた前例は、おそらくない。

彼は、よほど「マスコミ操作」が優秀な監督なのだろう。
あるいは、華麗なる催眠術師か・・・。

まあ、自己弁護が上手いのは、どこの国でも「優れた管理職の条件のひとつ」らしいが・・・。

ノムラ氏が、今年で監督を辞めるという情報もある(見出ししか見ていないので)。
しかし、ノムラ氏はボヤキのプロフェッショナルなので、表向きは球団批判をしつつ、球団と適当なところで折り合いをつけながら、最後はボヤキタレントとして、確固たる地位を築き上げるだろうと私は思っている。
薄ら笑いを含む毒舌と、自己弁護を適当に散りばめつつ・・・・・。

それに対して、マツイ。
ヤンキースのマツイのことである。

もちろん、ノムラ氏と同じく、私にはインターネットの上っ面の報道でしか、情報を知ることができない。
しかし、明らかに作為の見える報道だとしても、それを上手に咀嚼吟味したら、彼らの人間性がうかがい知れると言ったら、それは独善的過ぎるだろうか。

マツイは、昨年の終わり、膝の手術をして、万全ではない状態で今シーズンを迎えた。
アスリートにとって肉体にメスを入れることが、どれほど重大なことか、それは想像するしかないが、相当な不安に苛まれたであろうことは、何となくわかる。
レギュラーが約束されていない不安定な立場。

しかし、泣き言を言わないマツイ。
自分の体に対して達観したようなコメントを残すマツイ。

私にとっては、その存在を認めたくないほど嫌いな東京ジャイアンツ。
だから、東京ジャイアンツ時代のマツイには、まったく興味がなかった。
彼がどれだけホームランを打っても、「へぇ〜、そう? だからなに?」という感想しか持てなかった。

大新聞の販促用に作られた野球チームなど、存在意義があるのか、と思っていた。
マツイに関しても、大マスコミの傘に守られた、温室栽培の花のように思っていた。
温室栽培の中で作られた実績に、どれほどの価値があるのか。
(東京ドームは、非力のバッターでも、何であんなに球が飛ぶんだ!)

ジャイアンツを優勝させよう!
ワッショイ! ワッショイ!
ジャイアンツが優勝すれば、新聞が売れる!

だから、選手には、上げ底の靴を履かせて、一流に仕立て上げよう。
世論は、お祭り記事に乗せられる。
俺たち大マスコミには、何でもできる。

ワッショイ! ワッショイ!

大きな偏見を持っていた。

だが、言い訳をせず、怪我と向き合うメジャーリーグのマツイを見て、私の考えが少し変わった。

彼は、イチローのように、メジャーでのポジションは一流ではないが、アスリートの生き様としては、一流なのではないか、と近年私は思い始めている。

ケガを言い訳にする男たち。
負けを選手のせいにする監督。
勝利を傲慢なボヤキで独り占めにする監督。

そんな男たちと対比したら、マツイは、その成績以上に賞讃してもいい存在だと思う。

ただ、私は、今でもマツイには、あまり興味がない。

しかし、薄っぺらではないその存在は、アスリートとして大きいと感じている。
イチローの記録は、とてつもなく大きいが、その「アスリートとしての総合的な品位」を比べたら、マツイと同等に思える。

マツイは、言い訳をしない。
その一点だけを取って、私は彼を認めるのである。

そして、ボヤキ老人は、「活字という戦略」の中だけに存在する「自己弁護の達人」として、日本球界で大きなポジションを、これからも占めていくだろう。
(老人の言い訳の垂れ流しをありがたがるメディアのおかげで)

ボヤキ老人のファンには申し訳ないが、彼の感情だけが表出した言葉の羅列は、品性のカケラもないと感じている。

それに対して、マツイには、メジャーリーグのどこかで、来年も「品格ある姿」を見せてくれることを願っている。

ただ、メディアは、「品格」よりも「老人性ボヤキ」の方が、お好き・・・・・。



2009/10/13 AM 06:34:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

のりピーが日本を滅ぼす日
遅ればせながら、酒井法子さん。

酒井法子さんの話題が世間を席捲していた時、その話題に触れるのは、同じ熱病に浮かされているように思えたので、意識的に避けていた。
道徳的な意見の多い井戸端会議的話題にも、参加しなかった。

ひねくれものなので。

他にもっと、話題にすべきことがあるはずなのに・・・・・、
そう思っていた。

新型インフルエンザが流行り始めた頃、数年ぶりに、ヨメと言い合いをした。
二人の間で、議論が白熱するということは普段はないのだが、このときは結構熱く盛り上がった。

新型インフルエンザは、当時は「豚インフル」と言っていたと思う。
ニュースをつければ、豚インフルを競って取り上げ、各社こぞって、かなり不確かな情報を垂れ流していた。

深夜に、なぜか国民に大人気のマスゾエ厚労相が出現し、深刻な顔をして、「水際で阻止する!」などと吠えていた。
(知識不足を承知で言うが、マスゾエ氏は、年金問題やインフルエンザ問題で、テレビに露出していただけで、「何かを成し遂げた」わけではない。それなのに、人気があるのは、CM効果と同じで、映像の繰り返しが脳にインプットされた影響だろう)

さらに、マスメディアは、インフルエンザ報道で、識者という名の「お騒がせ屋」を座敷に呼び、推理劇を披露した。

そのとき、私はヨメに言ったのである。

たいしてインフルエンザが蔓延していない状態で、これほどの急カーブでヒステリー現象を巻き起こしていいのだろうか。
これでは、本当の蔓延期が来た時に、いつものようにマスメディアも受け手も飽きてしまって、まともな報道をしなくなるのではないか、と。

そんな私の意見に対して、、ヨメは強く否定したのだ。
「いま正確な報道をしないと、みんながインフルエンザを軽く見て、十分な対策をしなくなる。こんな非常事態のときは、報道は大袈裟な方がいいのよ」

街には、異様なほどのマスクマン、マスクレディが溢れ、パンデミックは、すぐそこに来ていると思われた。

しかし、いつのまにかマスヒステリーは収まり、マスクマンたちも街から消え去った。
インフルエンザの報道は、嵐が去るように終息した。

だが、その間も、新型インフルエンザは、世界各地で魔の手を広げていた。
当初の数倍の蔓延率で、地球を包み込もうとしていたのである。

しかし、日本のマスメディアの報道は、なぜか酒井法子さん一辺倒になった。
マスヒステリーの矛先が、「覚せい剤のりピー」に向けられたのだ。

新型インフルエンザの脅威と酒井法子さん。

比べてみれば、どちらが重要なのかは、日本以外のマスメディアなら、考えなくてもわかる。
3歳児にも、わかる理屈だ。
しかし、インフルエンザのマスヒステリーが過ぎ去ってしまった日本では、その話題は「飽きたもの」なのである。

「覚せい剤のりピー」こそ、大衆が求めている話題だ。
そんな無知で凝り固まったマスメディアの自己満足。
そして、その合間に民主党の組閣問題が、申し訳程度に割り込むだけの報道。

新型インフルエンザが世界的に蔓延しようとしている時に、この国のマスヒステリーは、見当違いのほうに舵を取っている。

いったい、新型インフルエンザで、何人の方が亡くなった?
その重みを、マスメディアは、どんな秤で量っているんだろう。

それよりも、「覚せい剤のりピー」の方が、重いというのか。

最初のマスヒステリーの頃と比べると、街には、マスクマンの数が、確実に少なくなったように思える。
最初の流行の時、「インフルエンザにマスクは有効なのかねえ。科学的根拠はあるのか」と私が疑問を投げかけたとき、大量にマスクを買い込んだヨメは「マスクしないと、絶対うつるのよ」と、マスクを手放さなかった。
しかし、本格的な流行時のいま、ヨメはマスクには見向きもしないのだ。

手洗いとうがい。
除菌・消毒用の石鹸と、うがい薬を洗面所において、家族にそれを促している。
子どもたちと私は、外から帰るたびに、必ずそれを励行しているが、ヨメと異星人は、知らんぷりだ。

インフルエンザの報道に、飽きてしまったからだろう。
かつての津波のようなインフルエンザ・マスヒステリーは、受け手の脳に間違った免疫を植え付けたようである。

「あれだけ騒いだのだから、もういいんじゃない?」
インフルエンザのことは、もう十分わかっているし・・・・・。
死者が増えているの? へぇ〜〜〜、何人?

冷静な報道はいいが、無関心な報道は、人から必然的な関心さえも奪う。

そんな状態で、インフルエンザのマスヒステリーが去り、のりピーヒステリーが押し寄せてきた日本。
医学の分野では、決して世界に引けを取っていないはずの日本。
しかし、マスメディアは、確実に世界の最低ランクに成り下がっていた。

覚せい剤も怖いが、インフルエンザは、それよりもはるかに怖い。

そんなまともな感性を持った人間が、マスメディアには、いないのだろうか。

彼らは、きっと思っている。
「バカな大衆は、インフルエンザなんかより酒井法子を求めている」
そんな大いなる勘違い、そして、思い上がり。

マスメディアは、いつの時代も、国民をミスリードする。

西暦2009年。
のりピーが日本を滅ぼした日として、この年は、歴史に大きく刻まれるかもしれない。

(ただ、ひとつ言い訳をさせていただきます。私は新聞を取っていないので、大新聞がインフルエンザに対して、どんな報道をしているか、正確な知識がありません。この意見は、大新聞の報道は前提にしておりませんので、悪しからず)



ところで、私は、酒井法子さんに関して、ほとんど知らない。
彼女は、私の視野の外側にいた存在だから、どんな歌を歌って、どんなドラマに出たのか、どれほど有名なのか、その知識がほとんどない。
ただ、彼女が、「のりピー語を駆使した有名人」だということは知っている。

その有名人が、覚せい剤を使っていたというのだから、それは当然の罰を受けるべきだろう。
しかし、誤解を恐れずに言わせてもらうが、彼女は、売人だったわけではない。
覚せい剤、麻薬の売人は悪魔だが、使っていた人間は、悪魔とは言えないのではないか、と私は思っている。
さらに、誤解を恐れずに言えば、それは微罪だ。

彼らは、ただ単に、法律の枠からはみ出て、自分を傷つけただけなのだから。
もちろん、快楽に身を任せて、他人を傷つけたのなら、その罪は、さらに重くなる。
それは、弁護する余地のない行為である。

売人、傷害行為、薬物使用。
それら全てをひっくるめて、悪であるという断じ方は、ある意味、間違いではない。
しかし、全てを同列に断じられるものでもない。

「復帰など、言語道断。断じて許さない」という常識人のことば。

だが、犯罪を犯したとしても、悔い改めたのなら、道を閉ざすべきではない。
私は、世間から断罪され罪を償った人には、それなりに機会を与えるべきだと思っている。

先日、居酒屋で酒を飲んだとき、「お掃除オバさん、雑巾がけから始めるならいいが、復帰なんてもってのほか。そんなことをしたら、世間が黙っていねえ!」と息巻く友人がいた。
彼は、ニュース番組のコメンテーターと同じ温度で、同じ言葉を叫んでいた。

ヤホー知恵袋」で検索してみた。
槇原敬之、長渕剛、美川憲一、研ナオコ、井上陽水。
彼らは、罪を償って、堂々と復帰したようだ。
そして、いまはそれぞれの分野で大きなポジションを占めている。

ヒステリー状態で、常識を振りかざす人たち。
いま、酒井さんを擁護したら、常識人やネット住民に袋叩きにあう。
だから、常識の鎧を身につけて、ただひたすら同じ道徳観を手にして、一点集中で攻撃をしている。

ひとつの方向にしか向かわない、同意見のブリザード(吹雪)は、怖いですね。
逆方向に向かおうとしても、口があけられず、息もできない。

ただ、このマスヒステリーという名のブリザードは、消えるのも早いから、ほんの少しだけ、息を止めていれば、あたりは静かになる。
そして、そのブリザードは、いつしか新たな方向に向かう。

そんな現象を見て、私は思ったのだ。
それは、虐めの構図と、どこか似ているような気がする。

つまり、マスヒステリーは、イジメ社会の根源と言えるのかも。



2009/09/24 AM 06:22:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

侍ジャパン
WBC(ワールドベースボールクラシック)が盛り上がっているようです。

私のまわりにも、早くも優勝したような盛り上がり方で浮かれている男がいます。

まだ始まってもいないのに・・・?

不吉なことを言うようだが、負けたらどうなるんでしょうかね。

「あいつが悪い」「あそこはあいつを出すべきだったろう」「何であいつを使うんだよ」

メディア、ファンそろっての戦犯探し。そして、バッシング。

何だよ! 前回の優勝はまぐれかよ!

そして、星野前オリンピック代表監督の復権。
「星野のほうが良かったんじゃねえ?」

そうならないことを祈ります。
侍ジャパンの皆様、重圧に負けずに、野球を楽しんでください。

しかし、「侍ジャパン」とはね・・・。

何で野球選手が、サムライなんだ? と突っ込むのは野暮なんでしょうね。
日本男子だから、サムライ。
日本女子は、ナデシコ。

これって、何も野球選手じゃなくても、他のアスリートでも使えそうだ。
岡田ジャパンだって、侍ジャパンで通るだろうし、バレーボールや体操の日本代表も侍ジャパンでいい。

つまり、いたって安易なネーミング。

そのネーミングを聞いた途端、私は脱力しましたが、皆さんはどうなんでしょうか。
私のまわりでは、意外と素直に受け入れているようだ。

このあたり、人間の柔軟性、素直さというのがわかりますね。
私の頭は、硬直して、しかもひねくれている。

だから、まだ始まってもいないのに、大盛り上がりをしている記事を見ると、見出しだけで拒否反応を示して、意識を閉店状態にしてしまうのである。

得意先に行くと、「侍ジャパン2連覇、間違いないでしょう」と話をふられる。
あー、う〜ん、え〜(上の空)。
「松坂とダルビッシュ、どっちが活躍するかね」
まー、この〜、その〜(まともにこたえる気がない)。
「イチローがいる限り、優勝は固いね」
そー・・・・・・・・・ですね(早く他の話題に変わってくれないかな)。

もちろん、私は日本が優勝することを期待しています。
しかし、控えめな期待ですね。

外国の一流アスリートとハイレベルな戦いをして日本が勝つ、というシナリオはワクワクするが、そんな素敵な結末が訪れない場合もある。
他の国だって、みな主役になりたいだろうから、当然日本が主役になれないシナリオもありうる。

そんなとき、「ひでえ脚本だ! こんな脚本は認めない!」と息巻くのが、今までのメディアだった。

監督が悪い、脚本が最悪だ、主役が大根だ、脇役もひどい、そして、結末が納得できない!

最後は、・・・・・、
腹を切れ! 侍ジャパン。

そんなことにならないことを祈るばかりです。

映画の予告編だけで盛り上がり、「傑作だ」「観客動員数日本一間違いなし」「アカデミー賞ものだ」と煽る手法は、もう飽きた。
それは、もう勘弁してほしい。

話は変わりますが、「おくりびと」アカデミー外国映画賞受賞おめでとうございます。

この映画のように、最初は地味に公開し、最後は大きな花火を打ち上げ、みなの喝采を浴びる。
これが、理想の姿ですね。

侍ジャパンも、そうありたいものです。
「ラスト・サムライ」には、なってほしくない。



2009/02/24 AM 06:22:09 | Comment(5) | TrackBack(0) | [メディア論]

携帯電話と濁り水
最近、子どもに携帯電話を持たせない、という決定をする自治体が増えているという記事をネットでよく見かける。

これを見たとき、都市伝説か冗談かと思った。

しかし、大人たちは真剣なようです。

以下、私の青臭い勘違いの意見を披瀝します。

あれだけ有害サイトを野放しにし、悪意ある情報を垂れ流しにした頭のいい大人たち。

でも、水が濁りきっているのを承知で、蛇口だけを閉めるというのは、いかがなもんでしょうか。
汚染した水を清らかにする努力は、放棄してしまったんでしょうか。

もちろん、ある程度は法律や条例を整備した形跡はあるようですが、頭のいい大人たちは、そんなザルは簡単にくぐり抜けて、汚染された水はいまも澱んだままだ。

その結果、子どもが携帯電話を持つことは、まるで「悪」というような世論操作を官民こぞって繰り広げる有様。

なぜ、今になって、携帯電話を悪者扱いし始めたのか?

ひととおり携帯電話が普及して、メーカーもそこそこ儲かったので、そろそろ批判の矛先を一点集中させておけば、メーカーに火の粉は降りかからないという、ありがたい「お上の親心」にメディアが賛同したからか。

「携帯電話を持っている子は、不良だ」
そんな世論を作って何になる?

それはかつて、男が長髪にするのは不良のはじまりだ、と言っていたのと何となく似ている。
あるいは、リーゼント。バイク。ピアス。茶髪。
私の前の世代は、音楽(ロック)をやっているやつは、不良だと言われたらしい。

すべて、情緒だけが優先した世論誘導だ。

可哀想な携帯電話・・・・・。

こんな小さな筐体に、人間の知識がギッシリと詰まっているのに、頭のいい大人たちが考えた「不純な金儲け」の道具に貶められて、肩身の狭い思いをしている現実。

いつの時代も、生け贄(スケープゴート)は、必要だ。

何かを生け贄にして、賢い大人たちは、自分が「仕事をしていること」をアピールしたがる。

有害サイトを根こそぎ絶やす地道な努力は、人々にはアピールしないということなのだろう。
根を張り地に潜った、有害な虫を探し出し退治することは、彼らにとって点数にはならないのだろう。
力はいつだって、安易で単純な方へ傾きたがる。

だから、水はいつまでたっても濁ったままなのだ。
賢い大人たちは、濁った水でも平気で飲むことができる。
しかし、彼らは、子どもたちに対しては、濁った水は有害だと言って、力任せに蛇口を閉めようとする。

それは、一見子どもたちのことを思っているように見えるが、短絡的な解決方法でしかない。
そして、それは私にはスタンドプレーにしか見えない。

汚れきった水を飲む大人たち。
彼らは、汚れた水を売り買いして生活している。
「だが、おまえらは、それを飲むな」と大人は言う。

俺たちが、おまえらを守ってやるから・・・。
俺たちは、こんなにもおまえたちのことを思っているのだよ・・・。

そして、蛇口を閉める。

しかし、「善い大人の振り」をして、閉めた蛇口を無理矢理あけて、濁った水を子どもたちに飲ませるのも、結局は「大人」なんですよね。



2009/02/04 AM 06:26:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

週刊誌は、醜悪だ!
図書館で、調べものをしていた。

クリーニング店からチラシの仕事をいただいたので、クリーニング業界のことを調べていたのである。
クリーニング店から仕事をいただくのは、2回目である。
だいぶ前のことだから、過去のデータを見ても、あまりイメージが湧かない。
だから、新しい情報を得ようと、調べてみたのである。

しかし、クリーニング業界に関しての資料は、あまりない。
あったとしても、歴史的なものが多くて、広告に役立つものは見あたらなかった。

その中で、広告に関する本の中にクリーニング店のチラシのサンプルがあったので、それを眺めていた。
そのとき、隣の席にいた人が読んでいた週刊誌が目に入った。
(表紙が見えなかったので、どこの週刊誌かは、わからない)

「切り刻まれて、トイレに流された23歳の肉体」
その見出しの横に、女性の白黒の顔写真が大きく載っていた。

なんと、醜悪な!

この見出しを考えた記者は、いったい何ものか、と思った。
人間をここまで貶(おとし)めて、いったい何が面白いのか、と。

被害者をここまで貶める週刊誌という媒体は、こんな醜悪な表現をして、人々に何を訴えたいのだろうか。
当たり前のことだが、被害者には、親がいる。
親がいなくても、血縁の人がいるだろう。友だちもいるだろう。

その人たちが、この記事を見て、どう思うかを想像できないほど、週刊誌の記者というのは、心の波立つ部分を麻痺させてしまっているのだろうか。
あるいは、自分がとてつもなく「お偉い人」だと勘違いして、正義のためには、被害者さえもペンで切り刻むことが許されるとでも、思っているのか。

いつも思うことだが、メディアは、裁判官ではない。
たとえ、言葉で人を裁くことが許されたとしても、人間の尊厳だけは侵すべきではない。
それだけは、誰も裁けない。
まして、被害者は、裁く対象でさえない。

被害者は、悼(いた)むべきものである。
理不尽にも、突然の死を与えられた人間の尊厳こそ、人は守るべきであり、それは決して侵してはならないものだ。

犯人に命を蹂躙(じゅうりん)されただけでなく、メディアからも尊厳を蹂躙される被害者。

記者が、犯罪を憎むあまりに、この方法しか考えつかなかったとしても、そんな低い能力しか持たない人間は、記事を書くべきではない、と私は思う。

私は、見出しと顔写真しか見ていないが、それだけで判断できる。
これは、絶対に載せてはいけない記事だ。
たとえ記事の中で、犯罪者を憎む文面が綴られていたとしても、この見出しの醜悪さは、消せるものではない。

メディアが扱う犯罪報道は、もういい加減、物言わぬ被害者を冒涜することを、やめにしたらどうか。

突然の死を与えられた被害者を鞭打たなくとも、報道のプロフェッショナルなら、犯罪の悲惨さを表現することはできるだろう。

それとも、彼らの思うプロ意識とは、被害者加害者を引っくるめて、すべて叩くことだと思っているのか。
つまり、「目立てば勝ち」だと・・・。目立つことが、正義だ、と。

ここ数年、週刊誌の販売部数が、軒並み減っているらしい。
それは、読者が、こんな底の浅いプロの仕事に飽き飽きして、週刊誌という媒体に、胡散臭さを感じているからではないのか。

底が浅いと言えば、先頃の四川省大地震における自衛隊機派遣に関しても、情報の抽出の仕方が中途半端に感じた。

派遣報道後に、中国のネットで、自衛隊機派遣に対する拒否反応などがあった。
その報道は正しいのだろうが、私は、ニュースを伝える側としては、現象面だけを伝えるだけでいいものなのか、といつも思ってしまうのだ。

毎度同じ顔ぶれの、中国関係の専門家やアナリストたちは、表層的な情報は伝えるが、正確な情報を把握していないように思われる。
緊急物資を送るというのは、極めて単純な行為なのに、中国政府と国民の思惑が読めないから、「拒否反応」という感情論だけを浮き上がらせようとしているように、私には思える。

送りたいと思っているものを、なぜ送れないのか、という「当たり前の説明」が欠けているような気がする。
もちろん、当事者間で色々な調整が必要なのはわかる。
中国国民の反発、日中政府の読みの浅さ、そして、災害緊急時の対応に慣れていない中国政府の危機感の無さ、など色々理由はあるだろう。
マクドナルドでポテトを頼むように、簡単にいかないことはわかる。

しかし、それにしても、伝聞が多すぎて、彼らが内容を吟味しているとは、私には到底思えないのである。

素人の単純な疑問。
救援物資を送るのは、自衛隊機でなくてもいいのに、なぜわざわざ「自衛隊機」ということになったのか。
緊急の時には、自衛隊機しか使えないという、取り決めがあるのか。
民間機は、緊急の時には、まったく役に立たないのか。

このあたりのことを、最初の報道の段階で、的確に伝えていたメディアがあっただろうか。
もしあったら、もちろん、「ごめんなさい」と謝ります(いつもながらの弱気)。

今回の件に関しては、いつものように、日中政府や日中メディアは、最終的には誰かを悪者にして、話の幕引きを図りそうだ。
あるいは、最終的に救援物資の量を減らされて、話がしぼんでいくのか。
そして、毎度のことだが、うやむやのうちに、線香花火のように報道の火もパッと消えてしまうのか。

だが、今回の場合、大事なのは、被災者であり、必要な緊急物資である。
国や国民のメンツは、置き去りにしてもいいのではないか。
歴史問題など諸々のことも置き去りにして、とりあえず復興。

そして、被災者が人間らしい暮らしができるように監視する。

メディアの役割は、それしかない、と私は思っております。



★週刊誌を胡散臭く思う人は、CG「山小屋で・・・」


2008/06/03 AM 06:35:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

オリンピックで自分を再発見
無知なせいか、知らないことが多い。

この間、中国が過去6度もオリンピックをボイコットしていたことを、ニュースで初めて知って驚いた。
6回もボイコットしているのに、IOC(国際オリンピック委員会)はよく中国を開催国に選んだな、というのが正直な感想である。

それは、高度な政治的な判断なのか、それとも世界情勢を深く読んだ上での決定なのか、素人には判断しかねる。
きっと、IOCは、世界各国で色々と騒動が起きることもすべてお見通しで、中国開催を決定したのだろう。

過去6度もボイコットをした中国、モスクワオリンピックをボイコットした米国。
政治とスポーツは別と言いながら、自ら政治に翻弄されることを選び、それらの国に開催権を与えるIOCという組織の存在は、私には理解しがたい。

彼らはただ、人々の愛国心をもてあそんで、金儲けの種をばらまいているだけのような気がする。
そして、オリンピックに理想などない、と言わんばかりの態度で、大国を優遇している。

スポーツが政治の道具にされるなら、世界の紛争は、すべてオリンピックで決着を付ければいいと、今どきの小学生の作文でも書かないようなことを私は考えているが、こんなことを言ったら、IOCに鼻で笑われるだけだろう。

騒ぎは一瞬だけさ、ひとしきり騒いで、オリンピックが始まったら、どうせ誰もが熱狂するに決まっている。
世論とは、そんなもんさ・・・、IOCは、きっと今回もそう思っている。

そう考えると、我が日本国の対応は大人である(もちろん、皮肉)。
目に見える抗議はせず、各国の対応を見るだけで、静観のポーズ。
それは、毎回のことだから、世界も「日本のことは眼中にない」と思っている感がある。
中国側も、「あいつら(日本)には、たくさん貸しがあるから、何も言ってこないだろう」と思っているフシもある。

チベットのことはよくわからない。
擾乱が起きた、という報道と中国側の弁解の声明だけがある。

ただ、チベットを旅行していた日本の観光客が、出国の際に「このことは口外するな。もし口外したら・・」と威されたという報道もある。
これが本当なら、ヤクザ国家と言っていいが、インターネットで流された記事を読んだだけだから、それだけで、チベットの現状を積極的に検証する材料にはならない。

世界の各地で抗議行動をしている人は、きっと正確な情報を知っていて、その情報に基づいて行動しているのだろうから、もっと事実を世界に発信すべきではないだろうか。
いや、あるいは彼らはちゃんと発信しているのに、日本のメディアがそのことに興味を失って、ただ抗議の様子だけを高いニュースバリューとして、報道しているだけなのかもしれない。

抗議行動を報道するのは大事だが、チベットで起きた事実を詳細に伝えてくれないと、抗議行動だけが肥大化して、その結果、抗議だけが正当化されるような気がする。
つまりそれは、いま中国を叩くことは、すべて正当化されるという飛躍に通じる場合もある。

表層的な報道は、大衆を煽動する役割しか果たさない。

先頃、パリで聖火リレーが妨害を受けたことに対する抗議として、中国がフランス製品の不買運動を繰り広げた、という記事を見た。
フランス大手スーパーの店舗に押しかけ、デモ行動を起こしているらしい。

中国当局は、今すべてがオリンピック優先だから、中国民の度の過ぎた愛国行動は、封じ込めているようである。
そのあたり、中国は確実に変化しているようだが、デモ行動自体は、以前の日本に対する感情的な愛国行動が、ただフランスに向けられているだけというような気もする。

オリンピックが終わったら、中国当局は、また知らんぷりを決め込むこともあり得る。

つまり、オリンピックの魔力は、それほど大きいということだろう。
中国はいつだって、自分たちの国で起きた「負の部分」を隠そうとしてきた。
しかし、それは他の国だって、多かれ少なかれ同じである。
ただ、その隠す度合いが、中国の場合、大きすぎることは確かだ。

隠すという行為は、いつでも犯罪的である。
後ろめたいから、隠す。あるいは、事実を歪める。
ひとは、事実を歪めるとき、ほとんどの人が威圧的になる。
だから、中国高官の口から流れる言葉は、その威圧的な物言いの裏を感じ取って、密度が薄い、と私には感じられる(これは、あくまでも私だけの感覚だが)。

密度の薄い言葉は、政治的には有効でも、説得力はない。
彼らは、政治には玄人でも、国際世論に関しては素人ではないかと、私は常々思っている。
まるで交戦国を攻撃するような高圧的な物言いは、自国では通用するだろうが、当事者以外には、舌打ちの対象にしかならない。

しかし、そんな言葉でも、メディアは嬉々として伝えるのである。
ニュースバリューとしてだけ伝えて、その詳しい検証は、なしだ。

報道するとき、「負の部分」をどれだけ正確に伝えることができるか。
メディアの役割として、それが一番重要ではないか、と私は思っている。

聖火リレーが、各国の抗議団体の行動により停滞している。
ニュースで、それは報道される。
しかし、その場面は本質の一面を映しているが、その本質を説明する報道は、驚くほど簡潔である。
ニュース番組としての制約はあるにしても、その報道はただ「たれ流す」の域を出ていない。

ただ、その本質の説明は、新聞には書いてあるのかもしれない。
それは新聞を取っていない私が、知らないだけなのかもしれない。

だから、このあたりで私の思考は、停止してしまうのである。
新聞を読めばいいのだろうが、新聞を公平な媒体だと信じていない私は、新聞から真実を判断する方法を知らない(いや、知ろうとしない)。

結局、真実から逃げて、いつも世界情勢に疎(うと)いままで、騒動の嵐が過ぎ去るのを待つというのが常である。

IOCはなぜ、6回も五輪をボイコットしている中国に、五輪開催国の権利を与えたのかという疑問も、私は、いつの間にか忘れてしまうのだ。

そして、大方の日本人と同じように、もし北島康介がメダルを取ったとしたら、チベット擾乱のことなど頭からキレイに追い出して、「取った! 取った!」と騒ぐかもしれない。
野口みずきがメダルを取っても「取った! 取った!」。
谷亮子が、「ママでも金」だったら、さらに「取った! 取った!」。

そして、俺も弱腰で他人事の日本政府とまったく同じだな、という小さな自己嫌悪に陥るが、節操のない自分には、この政府はお似合いだなという、都合のいい自己弁護で理論武装する。

オリンピックは、そんな自分の情けなさを再発見できるイベントだと、最近私はつくづく感じております。


話は変わりますが、最近疑問に思うことを一つ。
なぜ、コイズミ元総理が決めた「高齢者医療制度」の問題で、フクダ総理の支持率が下がるのでしょうか。
メディアは、制度の経緯をまともに伝えているのだろうか。
他の政党もそのことを冷静に伝えて、なおかつ制度の不備を追及するのなら、それは理に叶っているのだが、その気配はない。

ややこしや〜。



★ややこしい人は、CG「さびしい滑り台」

2008/04/24 AM 06:22:09 | Comment(3) | TrackBack(0) | [メディア論]

宇多田ヒカル
世間では、結婚していなかったり、バツイチ(あるいはバツの複数形)だと、「負け組」というレッテルを貼られるらしい。

その馬鹿げた方程式は、一体誰がいつ考案したのだろうか。
おそらく、独りよがりで、自己満足型の似非(えせ)文化人が、得意気に吹聴したのを、軽はずみなメディアが飛びついただけの話だろう。

メディアは、それがであれ、であれ、世間に波風を立てれば、それが正義だと思いたがる集団である。
彼らに、定見など、ひとかけらもない。
哀れなほど、定型的な思考しか持たない脳細胞の集合体だ。

宇多田ヒカルが、離婚したらしい。
では、宇多田ヒカルは、「負け組」なのか。
それは空虚で、白痴的な解釈だ。

結婚や離婚は、当然のことだが、個人の問題にしか帰結しない。
それ以上のものではないし、以下でもない。
それを掘り下げるのは、もちろん言論の自由の範疇であるが、憶測だけが一人歩きをする危うさもある。

人は断定的な憶測を好むが、憶測はどこまでいっても憶測でしかない。
しかし、断定的な憶測は、錯覚した真実に変換させられることも多い。

そして、なぜか、それがまことしやかな真実を形づくるのである。
人類創生の時代から、それは世論が、意識するしないにかかわらず構築してきた構図である。

世論とメディアに公平と冷静さを求めるのは、競走馬に目隠しをしてターフを走らせるように、心許ない。

「あと一歩が踏み出せないせいで
じれったいのなんのって baby」

(Flavor Of Life より)

一歩踏み出したからといって、人生の根本は変わらない。
心象風景は変わらないが、人を取り巻く評価は変わる。
おそらく「否」の方に変わることが多いが、こういう捉え方もできる。

「思い通りにいかない時だって
人生捨てたもんじゃないって」


そう。
人生は、本当に「捨てたもんじゃない」

マイナスをプラスに変えることも、簡単にできる。
だから、人生は面白い。

「忘れかけていた人の香りを 突然思い出す頃」

人は時に裏切るが、それさえも受け入れるなら、人恋しさは人生の甘い媚薬になる。

信じたいと願えば願うほど
なんだかせつない」


せつなさ、は、人間を信じること、への希望の裏返しだろう。
断じて絶望ではない。

それが「ありがとう」という答えになる。

ありがとう、という言葉さえあれば、人生はすべて肯定的になる。
「否」の部分が薄くなる。

ありがとう、という言葉が、琴線に響いたとき、人は「無」を実感する。

Flavor Of Life を聴いて、私はまさしく「無」を実感した。



2007/03/04 AM 06:26:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

吠える犬と吠えない犬
アベ内閣の支持率が下がっているらしい。

しかし、下がっているといっても、ブッシュのように30パーセントそこそこの末期的な状態ではない。
発足当時の世論調査の結果が良かったのと、前内閣との比較で、「下がった下がった」の大合唱になっているだけのようである。

私は、前内閣の支持率は「上げ底」だったと思っている。
コイズミ内閣は、一昨年あたりからの「お笑いブーム」のような現象で、支持率を維持していたと考えている。

「お笑いブーム」というのは、大変不思議なもので、百人いたら、そのうちの半数以上は「何があっても、笑ってやろう」と構えている人たちに支えられている。
最初から「笑ってやろう」と思っているから、ネタがつまらなくてもかまわない。

笑うことが重要なのである。

前内閣も、「何をやっても認めてやろう」という、メディアも含めての「ブーム」で底上げされているから、政策などはどうでもいい。
コイズミ氏が、「こう言った、ああ言った」という現象を追うだけで、中身の検証は二の次である。

しかし、人(首相)が変わると、当然のことながら「上げ底ブーム」はリセットされる。
遅ればせながら、有権者も多少は冷静になって、「何でも〜」というのはなくなる。

政権の初っぱなは、ご祝儀の意味合いもあって、「一応、内閣を支持してやろうか」と気を遣うが、前内閣とよほど変わったところがない限り、メディアの露出度に左右されて、興を失う。
だから、支持率が下がる。

メディアに定見はない。
「ナントカ劇場」という冠を付けられない総理大臣は、「華がない」のひとことで片づけてしまうのである。

そして、メディアが「華がない、顔が見えない」とひとたび言えば、もともと浮き草のようにフラフラした支持者は、「あー、アベ氏には、華がないんだ、顔が見えないんだ」と納得して、無党派層に逆戻りする。
その程度のことなのである。

前内閣は、政権初期の頃、確かに仕事をした。

まずは、無理矢理に抵抗勢力を作った。
次に、トップダウンの方式で、ハンセン病の控訴断念という決断をした。
しかし、長期政権を目論むには、もう一押しが欲しい、と思ったのだろう。
その後、北朝鮮に行った。
これは凄いことである。歴代の内閣が誰もなし得なかったことをしたのだから、これは評価されていい。

しかし、印象としては地味であるが、アベ氏も前政権でボロボロになった韓国、中国との関係を、小なりとはいえ、修復した。
北朝鮮との外交と、韓国、中国との外交。
どれに重きをおくかで、判断は分かれるだろうが、これからのアジアの時代を考えるとき、「日本と韓国、中国との関係」は北朝鮮よりも重要である、と私は思っている。

しかし、メディアに言わせれば、それでは「華がない」ことになる。
鬣(たてがみ)を震わせて、敵陣に単身乗り込んでいく方が「華がある」ことになるのである。
それが本当の「指導力」だったかは、その後の北朝鮮との無視されっぱなしの外交で、判断できることだが、メディアは「華がある」という感想しか報道しないから、幸運にも、彼は「華がある首相」ということで任期を終えた。

メディアはただ単に「ナントカ劇場」が恋しいだけで、冷静な評価を与えないのである。

コイズミ氏は、「ブーム」だけの人だった、と私は思っている。
彼には「位人臣を極めた人」としての風格がない。
些細なことに反応して論戦を受けて立つが、言葉が勢いだけだから、すぐに飛び散ってしまって、聞く側の脳の言語視野に浸透しないのだ。

東京都知事もそうだが、相手の気勢を削(そ)ぐ短いフレーズは、反論を抑える効果はあるが、彼らの言ったことを言葉にして読んでみると、見事なほど「空虚」である。
彼らが抛(ほう)り投げる言葉からは、日本語が本来持っているはずの、細かい機微が全く伝わってこない。

昔から、人の上に立つ人間は「茫洋さ」で民を包み込む人こそ英雄の資質ありとされたが、コイズミ氏らは子犬が弱いもの同士吠えているかのように、小さなことで眉間に皺を寄せ、そして、歯をむき出しにして吠えかかる。

彼らは、「何をした」よりも、人から「どう見られているか」が重要であり、さらに反論されることを病的なまでに嫌う人種である。
その点、アベ氏は、違うように思える。

私のアベ氏観は、「超タカ派」以外の何ものでもない。
外見はソフトな印象だが、それを隠そうとして隠しきれない、極めて温度の低い「凄み」のようなものを感じる。

彼は、まるで遅れてきた「韓流スター」のように、時流からずれて首相になった。
ちまたに数多(あまた)溢れる「韓流スター」が、「ヨン様の残像」から逃れられずに、そろそろ食傷気味であるように、アベ氏もコイズミ政権の幻影に絡め取られて、胸焼けを起こしかけている(おそらく、半分以上はメディアの感想のせいで)。

茫洋、という資質は、アベ氏の方がコイズミ氏より、色濃く持っている。
鈍い、という言い方もできるかもしれないが、判で押したような笑顔で、感情を隠す様は見事と言っていい。

古来の王がそうだったように、人を断罪して、表情を変えることがない人種である。
たとえいま、開戦の決意をしたとしても、彼なら、その後も平気でフランス料理のフルコースを食することができるだろう。

そういった意味では、コイズミ氏よりずっと怖い存在と言っていいかもしれない。

だから、彼の内閣の支持率が低いのは、私としては望ましいことだが、それがコイズミ氏の「回帰」を招くとしたら、それも困る。

無闇に吠える犬は嫌だが、吠えない犬も、何となく不気味である。

強いて言えば、雪山で遭難者を救助するセントバーナードのような、「奥ゆかしい賢明さ」「勇気溢れる懸命さ」を持った指導者を望んでいるのだが、それは高望みに過ぎるだろうか。



2007/02/05 AM 06:25:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

成人しないメディアと親
熱でうなされている間に、「成人の日」が終わっていた。

カネコの娘ショウコも、今年の暮れには二十歳(はたち)になる。
我が息子も、四年後には二十歳。娘も九年後には二十歳。

私が成人したのは、はるか昔。
元服」といってもいい年代である(こういう冗談を言うと信じる人がいるが、それは自由です)。

毎年思うのだが、いったい「成人式」って何?
二十歳になるのが、そんなに特別なことなのだろうか。
私の友人は、むかし成人の日に親に車を買って貰った。
大学で同級だった女の子は、高い振り袖の着物を買って貰った。

その時、私は車を買って貰った男にこう言った。

二十歳まで親にお世話になったのはお前なんだから、何で世話になった方がものを貰うんだ。
普通は逆だろう。
昔は医療事情が悪くて、子どもが成人するのは奇跡に近かったから成人を祝ったが、今はアクシデントがなければ、子どもは普通に大きくなる。
成人したって、ちっとも偉くはない。
お前の方が世話になったんだから、お前が親に何かしてあげるのが道理というものだろう。


それに対して彼はこう言う。

「へ〜、お前って変わってるな」

変わっている私は二十歳になった記念に、本屋でアルバイトをして、母親を熱海に招待した。
お世話になったからだ。
父親は、月に1度しか帰ってこないから、お世話になった記憶がない。だから招待しなかった。
母はその時、感激してバイクを買ってあげる、と言ってくれたが、それでは意味がない。
丁重にお断りした。

私はショウコや自分の子どもたちに、成人式には何もしない、何も上げないと宣言している。
俺が育てた、と偉そうに言うつもりはない。
だが、二十歳とそれ以前それ以後では、何の変わりもない、と私は思っている。

法律という「縛り」はあるが、酒や煙草は自己の責任でいくらでも飲め、と言ってある。
それがいいことか悪いことかを判断するのは、自分だ。誰の責任でもない。
たとえ人様に迷惑をかけても、二十歳前でも後でも、その責任はすべて自分にある。
他人が悪いのではない、お前が悪いのだ。

二十歳を超えたから、責任を持つわけではない。
二十歳前だって、悪いことをしたら、自分で責任を持て。

そう言うと、息子はおとなしく聞いているが、娘は、
「へ〜、まるで親みたいに偉そうなことを言うなぁ」
とカラカラと笑う。
こいつは、まったく私の子ども時代とそっくりなやつだ!

成人式が荒れる、と近年言われるようになった。
私は、メディアが報道しなければ、そんなことにはならないと思っている。
報道するから、「俺も」と言うことになる。
メディアは、報道しっぱなしで、ちっぽけな「報道の義務」という自己満足を手に入れる。
不純な集団であるメディアは、純情な大人に「最近の若い者は、まったく!」と言わせたいために、若者が荒れる様をどんなニュースよりも優先して伝える。
そして、チルドレンたちも「最近の若者は…」と大人に言われたがっているように私には思える。

卑小で自己中心的な不満を持った未熟な人間にとって、「目立つ」というのは、最大のご馳走である。
報道してくれるのなら、尻尾を大きく振って、「荒れるふり」をするだろう。ヨダレを垂らしながら。
そもそも、本当のワルは成人式なんかに出てこない。
ワルのふりをしたい人種だけが、成人式で「暴れるふりをする」と私は思っている。

現代の二十歳を侮(あなど)ってはいけない。
彼らは賢い。
二十歳になったからといって、自分が大きく変わることはない、ということを知っている。
メディアと親だけが、二十歳を特別扱いしている。

そろそろ、そのあたりに気づくべきである。
彼らは、メディアや親が考えているほど、無知ではない。(未熟ではあるが…)
自分の置かれている状況を計算できる賢さを備えている。

同時に、彼らは大人(昔気質の常識人・純情な人々)をからかっているのである。
高校球児は純粋で清潔である、という幻想を持っているような純な人は、その行動に眉をひそめるが、今のチルドレンは大人の幻想をあざ笑うたくましさを持っているのだ。

メディアもそのことに早く気づいて、「荒れる成人式」の報道を抑える時が来ているのではないか。
確信犯に手を貸すのは愚かである。
メディアは、瓦版の時代からトピックだけに食いつくダボハゼのようなものだが、もうそのことに気づいてもいい時だ。
あるいは、本当はとっくに気づいているのだろうが、年中行事になった「荒れる成人式」の美味しいネタが捨てがたいのかもしれない。

報道しなければ、彼らは「な〜んだ、つまらねえの!」と思って、何もしない。
与えられたおもちゃをすぐ投げ出すだろう。
チルドレンは、目立つ場所をお膳立てしてくれる人がいなければ集団から離れていく、波紋の外側の人間なのである。
積極的に波紋の中に飛び込んでいく人種ではない。

人の目、メディアの目こそが、彼らの物差しである。
つまりは、小賢しいほど計算できる人種である。
メディアや大人だけが、計算できないお人好しのままで、まったく進歩がない。

成人の日が来るたびに私はこう思う。

メディアや私たち親の「成人の日」はいったい、いつになるのだろうか、と……。



・・・(久しぶりに真面目な話をしたので、腕に鳥肌が立っている、寒い…)


2007/01/12 AM 06:25:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

あるある
取引先で世間話をしていると、「あるある大事典」の話題が頻繁に出る。

「『あるある大事典』では、こう言っていた」
「『あるある大事典』で、これが紹介されていたけど、見ました?」
「『あるある』でやっていたので試したが、結構調子いいよ!」
などなど。

私もこの「発掘あるある大事典2」は何度か見たことがあるが、この番組は主婦の見るものという印象が強い。
いかにも勿体ぶった進行をするので、大体20分ぐらいで興味をなくして、私自身は最後まで見たことは一度もない。
しかし、取引先などで話をすると、意外と若い男性なども見ているようである。

この番組は、健康法などを紹介することが多い。
我が家のヨメなども、ほとんど毎回見ていて、そのたびに「ダイエットしなくちゃ」などと言っているが、実行した試しはない。
見ただけでダイエットした気分になり、満足しているようである。

我が家では公共放送はまったく見ないのだが、「ためしてガッテン」を見ている人も結構多くて、たまに話題が出る。
私が「見ていない」と言うと、「騙されたと思って見てみなよ、結構ためになるから」などと言われる。
そして、昨日の番組ではこう言っていた、ということを事細かに説明してくれるのである。

彼は「プロジェクトX」を大変気に入っていて、「何でこんないい番組を見ないの! もったいないなあ。この時間は何を見てるの! 何をしてるの!」と言って、まるでTVリポーターのように、見ない私を責めるのである。
プロジェクトXが終了したときは、「国家的損失だ!」と嘆いていた。
きっと彼は、テレビが伝えることはすべて真実だ、ということを全く信じ切っている「いい人」なのだろう。

私も自分のことを「いい人」だとは思っているが、「テレビは真実を伝えるが、『洗脳』もする媒体である」と思う、ひねくれた人でもある。

だから、「これをやれば健康になります」というような番組を見ると、眉間に皺が寄る。
いかにも調子の良さそうな出演者の反応を見ると、それだけで「やらせか」と思ってしまう。
どうせ「やらせ」なら、もっとエンターテインメントに徹すればいいと思うのだが、大抵は司会者が強引に結論を急いで決め付けるので、嘘臭さしか感じないのである。

インターネットのテレビ欄などを見ると、現代人の健康に対して警鐘を鳴らす番組が毎日のようにある。
現代人はそれだけ、健康に対する知識に飢えているのだろう。
その中には正しく有効な健康法もあるのだろうが、ほとんどのものが翌週には忘れ去られるものばかりである。

番組の制作者自身も、その場限りの企画だと思っているから、どの番組も同じようなバネラーを集めて、感心させているだけである。
その結果、番組の穴埋め企画の「健康法」が、電波を占領する。
その全部を見た人は、さぞ健康になったことだろう。

ヨメと息子は「あるある大事典」のファンなので、二人して「ふんふん」と頷きながら画面にかぶりついている。
そして、テレビに向かってこう話しかける。
「スッゲェ! こんなに変わるんだぁ〜!
わあ! 嘘みたい!
これはゼッタイ、やらなくっちゃ!
これだったら、簡単にできる!」


それを横目で見ながら、私と娘は、
「『志村けん』は笑いの天才なんだけどなぁ」
「アイ〜〜〜ン!」
「アッイ〜〜〜〜〜〜〜ン!」
「ダッフンダ」
などと言って茶化すから、二人からいつも睨まれている。




2006/12/14 AM 06:33:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

教師にドロップキック
ここ数週間、ニュースで「いじめ自殺」という言葉が、飛び交っている。

人間は、弱いものをいじめる生き物である、ということはわかっていても、救われない思いでニュース画面を見ている。

その中で、いじめっ子といじめられっ子は紙一重、とコメンテーターがしたり顔で言っていた。
いじめっ子も立場が変われば、いじめられる可能性があるということを言いたいのだろうが、その意見は何の解決も与えてくれない。時間の無駄だ。

何かを改めれば、いじめが無くなるという考えもまた何の解決にもならない。
原因は一つや二つではなく、歴史や、現代の様々な媒体などが複合的に絡んだ複雑なものだと思うからだ。

ただ、私なりに無責任な解決方法を考えた。
もちろん、ただ考えただけではあるが。

昔はいじめがなかった、だから昔の教師は優秀だった、という井戸端会議的意見は無視した方がいい。
昔だっていじめはあったが、ニュースバリューが低かっただけだ、と私は思っている。
何でもニュースになる現代と、ニュース媒体の総量が少ない昔とでは、比較するには無理がある。
それに今は、インターネットやメールという「凶器」もある。

「いじめ」という言葉が、あらゆるニュース媒体を通り抜けることで、その現象は膨張し、「いじめ」がまるで流行病のように増幅される。
ニュースに乗らなければ、ここまで「いじめ」が蔓延することはなかったはずだ。
地域的な病で済んでいたはずである。
「いじめ」という言葉が、長年の報道で刷り込まれた結果、「いじめ」はインフルエンザのように規模が広がっていった。
「いじめ」が当たり前のように認知されて、いじめられる側を追いつめる。

いつの時代だって、人間が弱いものをいじめないわけがない。
それの集合体が国家や宗教などであって、パワーゲームの勝者になるためには、弱者は容赦なく排除される。

ただ、国家に想像力はないが、人間には想像力がある。
この想像力が豊かであれば、個人としてのいじめは減るのではないかと私は思っている。

いじめられた人間の感情が想像できないから、いじめが起きる。
殴られたら、「殴り返したい」と思う。しかし、殴り返せない人がいる。
「怖い」「悔しい」「痛い」。
「怖い」「悔しい」はわかっても、いじめる側の人間は、この「痛い」を想像することができないのではないか。

「痛い」は、心と体の両方だ。
私は、この二つの「痛い」、特に心の「痛い」を理解できない人間が、いじめを繰り返していると思っている。

そして、教師という存在がある。
私は、あらゆる職業のなかで、教師が最も想像力のない人種の集まりだと考えている。

彼らは、社会に出た時から「先生」なのだ。
医者も最初から先生だが、「研修医制度」で「丁稚奉公」を経験している。
しかし、教師は学校という組織のなかでの上下関係はあっても、教室の中では、最初から経営者であり支配者である。

最初から支配者の椅子に座った人間は、よほどの資質がない限り、想像力が働かないのではないか。
単に、私の偏見であればいいのだが。

普通、王様に想像力はいらない。
強くて、シンボライズされた人格が王だからだ。
シンボルに想像力は芽生えないし、教えられることもない。
想像力は、側近が働かせればいい。

しかし、教師に側近はいないことの方が多い。
校長に、教頭という役職としての側近はいるが、彼も教師のひとりであり、支配者の側である。
つまり、学校そのものが、想像力が働かないシステムになっている。

その想像力のない支配者が、子どもに「想像力」を教えることができるだろうか。
いじめられた子の、心が「痛い」ことを、支配者が想像できるのか。
私は悲観的である。

教師は、勉強を教えるプロでなくてはいけないが、支配者としての「先生」のままでは、いつまでたっても、教師の質は良くならない。
最近は、民間人を校長や教頭に登用する自治体も出てきたようだが、私にはポーズだけで終わっているように思える。
「一応、民間人にも門戸を開いてオープンな学校にしました」というポーズ。
だから、慣習の壁にぶつかって、民間人校長は孤立しているように見える。固陋(ころう)な教育界、保護者、メディアから孤立しているように感じる。
制度だけ作って、明確なサポートなし。
メディアもなぜか負の部分だけを報道しているような気がする。

話を教師の方に戻して、
これは大きな偏見かもしれないが、私は、教師に救われた生徒よりも、教師に失望した生徒や保護者の方が何十倍も多いのではないかと思っている。

私自身は、小学一年から高校二年までは、いい担任に当たったと思う。
高校三年の時は最悪だったが、12年間のうちのたった1年である。
運が良かったと思うべきだろう。

クラスには、それなりに「いじめ」らしきものはあったが、生徒同士で解決した。
運良く、想像力の豊かな子どもが沢山いたからだ。
しかし、多くの場合は、想像力のない教師の下で日々支配されているから、子どもたちに想像力がつくのは、運頼みである。

だから私は、想像力のない教師には頼らないことを提案する。
そして、そういう教師しか認めない教育委員会にも頼らない。

それらのシステムはすべて解体して、ゼロから作り直す、という考え方は単純すぎるだろうか。
「丁稚奉公」を知らない教師は、最初から王様の権利を手にする。それに反して、教育者としての義務は霞(かす)む。
生徒や親の目線にまで降りていくことは、教師の資質のみにかかっていて、誰もそれを教える環境をつくらない。
そんな心許ない教育者にものを教わる子どもは、悲劇である。

いじめをする子どもが一番悪い、これは当然だろう。
しかし、それを傍観する、あるいはそれに対処する能力がない教師もまた、同様に罪は重い。

それに、過去いじめによる自殺は「ゼロ」と報告した教育界が罪を負わないのでは、虫が良すぎる。
分析能力のない報告書は、ただの紙切れに過ぎない。
彼らは最早、教育のプロではないし、有能な学級経営者でもない。
自己の保身のみ考える、汚職政治家のようなものだ。

今の教育界こそ、「ゼロ」にすべきではないか。
教師は、支配者から降格すべきである。
私はそう思っている。



2006/11/12 AM 06:25:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

新庄剛志
めまいも治り、毎月5日締めの仕事も2日夜に校了になった。
あとは3つ残っている仕事を、平行してこなしていくだけだ。

気が付くと、今年もあと二ヶ月。
そして、気が付いたら新庄剛志が引退していた。

最近の私は、アマチュア、プロに限らずメジャーリーグにも興味がない。
高校野球は未熟で非科学的だし、プロ野球はダラダラと試合時間が長いし、メジャーリーグは審判が下手だし、パワー信仰のせいでドーピングで汚染まみれだし、スポーツとしての美しさが感じられない。

今年の日本シリーズも、私の中では、いつの間にか始まって、知らない間に終わっていた感が強い。
ただ、「北海道日本ハムファイターズ」が優勝したのは知っている。
テレビのニュースで見た。

何十年ぶりかの日本一は、ファンにとって、最大のご褒美だろう。
しかし、そのご褒美の代わりに、新庄剛志がいなくなる。

新庄に関しては、私はあまり知らない。
メジャーリーグ時代も、それほど活躍したという記憶はないし、阪神時代も日本ハムに来てからも、私の中では記憶が薄い。

記録に残る選手より、記憶に残る選手になりたい。

これは、本当に新庄がこう言ったのかは定かではないが、スポーツニュース系のネットで、彼の言葉として紹介されていた。

ただ、申し訳ない言い方になるが、新庄剛志は、記録には残っていないし、記憶に残る選手だったとも言いがたい。
外野手としての守備力では、メジャーリーグを含めても、超一流の部類に属することは間違いない。しかし、打者としての彼は、良くて二流といったところではないだろうか。

私の記憶に残っているのは、新庄の外野手としての強肩だけだ。
あとは、様々なパフォーマンス。
パフォーマンスだけで記憶に残る、というのなら、確かに新庄は記憶に残っている。
ただ、それは野球選手としてではない。
エンターティナーとして、残っている。

そんな新庄を、私はいいと思う。
日本のプロ野球は、高校野球の無個性を引きずっているから、「基本」を言い訳にして、「魅せる」をおろそかにしている。

そんな中で、新庄剛志が果たした役割は大きいと思う。
新庄がいなければ、日本ハムは変わらなかったろうし、日本ハムが変わらなければ、今回の日本一はなかったはずだ。
だから、この日本一の最大の功労者は、新庄である。
たぐいまれな強肩と強運を持った、新庄剛志の果たした役割は大きい。
MVPという意味ではないが、最も価値ある存在だったと言えるだろう。

そう考えていたら、以前読んだ「読売新聞」のスポーツ欄を思い出した。
我が家では、新聞を取っていないので、同業者の事務所に置いてあったものを読んだ。
私は主要紙の新聞紙面の中で、スポーツ欄が一番つまらないと思っているので、いつも飛ばし読みをする。
特に読売は、見苦しいほど「巨人」を売り込んでいるので、目障りである。
それだけで、読む気がなくなる。

だから、いつもは読まないのだが、同業者のサガさんに「ここ読んで見ろよ」と言われたので、読んだ。

記事の主旨はこうだ。

新庄の、野球とはあまり関係のないパフォーマンスを喜ぶのは子どもだけで、大人にはわからない行為である。新庄が観客動員に関して貢献したのは認めるが、「所詮大人としては」理解しがたいパフォーマンスだ。

今どき、こんな紋切り型の拙劣な文を書く「大人」が大新聞にいるとは思わなかった。
新庄のパフォーマンスがわかるのは子どもだけで、「大人である私には」わからない、と決めつけているのだ。
つまり、新庄ファンはすべて子どもだと言っている。

この決めつけの根拠はいったい何なのだろう。
新庄の「かぶり物」が気にくわないから? マスコミを意識した言動が気にくわないから?
この「決めつけ」こそ、私には理解しがたいものだ。

サガさんは熱心な巨人ファンで、新聞は「読売」「報知」という人だが、この文章には呆れていた。

「人って、自分が理解できないことにぶつかると、それを否定するために、物事を決めつけないと落ち着かないんだろうね」

私も、サガさんの言うとおりだと思う。
この記事を書いた人にとって、新庄はエイリアンなのだろう。彼にとってエイリアンは存在してはいけないものなのだ。だから、否定しないと落ち着かない。
それを、「自分は大人だから」という理由付けで、誤魔化そうとしているのではないか。

しかし、本当の大人なら、こんなものは記事にするほどの価値はないと思うはずだが、それが通ってしまうところに、巨人ボケの読売新聞の幼稚さが表れている。

私は子どもなので、新庄のパフォーマンスが好きだった。

ただ、新庄は私の中では、記録にも記憶にも残らない。
それに、記憶に残るだけでは、アスリートとしては不完全だ。

記録にも記憶にも残るのが、一流のアスリートだと思うからだ。



2006/11/04 AM 06:26:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

地下核実験を強行(兄と弟の立場)
成功したのか、失敗したのかは定かではないが、北朝鮮が核実験をしたのは確かなようだ。
ニュースを見ていると、コメンテーターが出て、専門的なことを言っているようだが、よくわからない。

短い時間に色々なことを伝えようとするせいか、各コメンテーターが人の話を聞いていない。
本来進行を取り仕切るはずの司会者も話に加わるから、余計わからない。
司会者は「無謀な行為だ!」などと言って熱くならなくていいから、ちゃんと意見をまとめて欲しいものだ。

コメンテーターも掛け持ちをして忙しいようだが、よく聞いていると、彼らも最新の情報を持っているわけではないようだ。
すべてが推測の域を出ない。

私のような素人の目から見ると、北朝鮮に核実験を行うだけの技術力・資金力があるか疑問に思えるのだが、北が「核実験を成功させた」と言うのを、彼らは簡単に信じている。
失敗、というのは、ありえないのか?
ということは、信じるに足る根拠を彼らは持っているはずである。
もし根拠を持っているなら、それこそ聞きたいのだが、司会者が聞いてくれないから、結局はわからない。

北朝鮮に核兵器を持たせたら、危険だ。
各局、各メディアが、そう言い立てるので、そのことは深く理解した。
北朝鮮が、アメリカに相手をしてもらいたい、という願望を持っているらしい、というのもよく判った。

日本が経済制裁をし、世界が制裁をすれば、北朝鮮は困る。
中国にも見捨てられたら、北朝鮮はさらに孤立するのだから、今回の行為は自分の首を絞めるようなものである。
愚かだ。
そう憤るコメンテーターがいた。

だが、そんなことはみんな判っているのではないだろうか。当事者の北朝鮮にも判っているのではないか。
しかし、それでも敢えて無謀な実験に踏み切った背景は、誰も判らない。
おそらく、北朝鮮の指導者にも判らないのではないだろうか。
とりあえず、サイコロの目をふってみて、何が出るか、出てから考えよう、としているように私には思える。
瀬戸際といえば瀬戸際だ。

何が出るか、というのは、大国の反応のことだ。
そして、国際社会の論調。
言い逃れのできない犯罪を犯しても、受け取る側の反応はそれぞれ微妙に違う。
彼らは、それを見極めようとしているのではないか。

この場合、核実験の成功や失敗は、問題ではない。
各国の反応さえ判ればいい。
とりわけ、アメリカと中国、韓国、そして核保有国。
そのあたりの見極めをした上で、これからの方針を決めようか。
私は、北朝鮮がそう思っているように感じる。

闇のように深く大きな沼に、何が棲んでいるかを知るには、できるだけ大きな石を落とした方がいい。
そして今、彼らは大きな石を落とした。

日本は、石の大きさに驚いて、過剰に反応している段階だが、落とした方は「お前なんか眼中にねえよ」と嘯(うそぶ)いているかもしれない。

私は先ず、核保有国、とりわけ中国の反応に興味がある。
出来の悪い不良の弟が、大きな石を落としたのを叱れるのは、兄だけだ。
もし毅然とした態度で叱れないのなら、中国も大したことはない。
大物を気取った、格好だけの若頭という存在でしかない。

「お兄ちゃんだって、去年やってたじゃないか!」
そんな弟の反論に、兄はどう答えるのか。

「俺とお前じゃ、立場が違うんだよ!」

そんな感じ?



2006/10/11 AM 07:59:04 | Comment(12) | TrackBack(0) | [メディア論]

「君が代」に泣いた日
今となっては、少々古い話になってしまったが…。

昨日友人と話をしていると、「その話題」が出た。
彼は、普段はその種の話題には乗ってこない男だが、今回に限り、かなりエキサイトしていた。

9月の終わりに、東京地裁が「国旗・国歌訴訟」で東京都に対して違憲判決を出したことに対してである。
友人のところは「朝日新聞」をとっているのだが、朝日新聞のはしゃぎ具合が気にくわないと言って怒っていたのだ。

我が家では、新聞を取っていないので、どの新聞がどうはしゃいで、どの新聞が「けしからん判決」と息巻いていたかは、わからない。
ただ、推測することはできる。
おそらく、はしゃいでいたのは「朝日」と「毎日」で、息巻いていたのは「読売」と「産経」だろう。

友人は…、といちいち書くのも面倒なので、カマタと書く。
カマタは、国旗・国歌に敬意を表するのは、国民として最低限備えるべき義務だと言う。
だから、人にものを教える教師が、率先しなければいけないことなのに、それを怠るとは何ごとか、と憤っているのである。

私も国旗・国歌は、象徴として、特別なポジションに置くべきものだと思っている。
そこは、賛成した。
国というカタチをとるなら、シンボルに拠り所を求めるのは、自然なことだと思っているからだ。
それは、どこの国でもしていることだ。

しかし、私はそれを強制すべきではない、とも思っている。
私に確たる主張があるわけではない。ただ、「強制」という言葉を聞くと、反射的に反撥したくなるだけだ。

要するに、私はひねくれ者なのだ。
だから、カマタに言った。
「俺はただ、強制されるのが嫌いなだけだ。そして、人と同じことをするのも嫌いだ。多数決を取るとしたら、必ず少数派を選ぶ。お前の意見は正論かもしれないが『強制』と言われたら、反撥する」

教育が強制を含むものであるなら、その教育にも反撥する
ただ、それだけだ。
だが、国旗も国歌も認める。
国として、必要なものだからだ。

昔話をしてみたい。

20数年前のことだ。
大学四年の最後、卒業旅行のつもりで、オーストラリアをひとり、貧乏旅した。

シドニー、ブリスベン、ダーウィン、キャサリン、エアーズロックの経路で、ひとり旅した。
ブロークンな英語で、あちこちで旅の恥をかき捨てにし、50日以上自由に動き回った。
エアーズロックからケアンズに行き、最後はメルボルン、シドニーを経由して、日本に帰ろうと思っていた。

そんなとき、ケアンズで、私と同じひとり旅の日本人と知り合った。
サイトーさんという20代後半の男の人だった。
彼とは、一緒に3日間、夜のマーケットや、朝のケアンズの海などを歩き回った。
野鳥の群などを飽きずに見ながら、つまらない話で盛り上がった。

「俺は、中卒だから、教養がなくてよぉ。こうして、世界を見て回って、見聞を広めようとしているわけさ。金はかかるけど、学校行くよりためになるしさ、日本のことも外側から見ると、いいもんだぜ。日本も悪くないなって、思える。日本にいる時は気づかなかったけど、俺って、結構愛国心あるんだって、発見もできたしね」

サイトーさんとは、知り合って4日目に、外人のように抱き合って別れを惜しんだ。
最後までひとり旅でいたら、それほど寂しくは感じなかったかもしれない。
しかし、いったん人と深く触れ合ってしまうと、人恋しさが増す。

その日の夜は、この旅で初めて、酒を飲む場所に行った。
それまでは貧乏旅なので、近づかないようにしていた(現地の人の家に泊めてもらった時は、遠慮なく飲んだが)。
それに、まだ白人至上主義(白豪主義)が多少残っていた時代だったので、パブなどには入りにくかったということもある。
しかし、それよりも、一泊でも多く泊まろうと思っていたのだ。

人恋しさ、というのは、コントロールできない。
食べること、飲むことは我慢できても、一度心が渇いたら、それを癒すのは、人との触れ合いだけだ。

その店は、アップライトのピアノが隅にある小さなバーだった。
疲れた感じの老人が多かったが、それでも、気分は落ち着いた。
その中の一人の老人が、酒を奢ってくれた。
あまり美味くないウィスキーだったが、心に沁みた。
言葉も通じたとは言い難いが、暖かい笑いが、心の渇きを癒した。

そんなとき、白人の初老のピアニストが入ってきて、下手くそなジャズを弾き始めた。
「星に願いを」が一曲目だったが、左手のリズムが悪いせいで、軽快感が全くなかった。
しかし、これも旅のひとこま。悪くはない。笑い話の種としては、悪くない。
客も下手なピアノを楽しんでいるような雰囲気だ。

四曲目が終わった時、リクエストタイムになった。
そこで、私の隣の老人が、ピアニストのそばまで行って、耳打ちをした。
老人は戻ってくる時、私にウィンクをして、軽く笑った。まるで、ハリウッドのバイプレイヤー(脇役)のように。

その時流れたのが、「上を向いて歩こう」だった。
日本人といえば、「スキヤキ」というのがお決まりの時代だった。
下手くそな「スキヤキ」だったが、泣けた。
老人が私の肩を抱いてくれた。

そして、そのあと流れたのが「君が代」だ。
旋律は、かなり違ったが、あちこちに「君が代」が散りばめられていた。
やはり、泣けた。

それを聴いたとき、日本に帰りたい、と思った。

予定では、あと十日は旅を続けるつもりだったが、「もう無理だ」と思った。
そして、三日後には、日本に帰っていた。

おそらく、あの下手くそな「上を向いて歩こう」と、それに輪をかけて下手くそな「君が代」を聞かなかったら、そんなことにはならなかったと思う。

それが、国歌の存在だ。

私にとっての「君が代」は、日本を思い起こさせる歌としてある。
それ以上のものではない。
しかし、それでいい、と思っている。

私が日本人だから、どんな旋律であれ、あの時は国を思う心として、泣けた。
だが、おそらく、強制では泣けないだろうし、泣きたくもない。

強制された歌は、心を癒さない、と思うからだ。



2006/10/09 AM 06:22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

アベ氏は「タカ」になれるか
ニュース番組に総裁選3氏が出ていた。
筋書き通りのドラマを見ているようで違和感があったが、茶番だと思えば何でもない。
結末は、どうせ「水戸黄門」のようにわかりきっている。

そんなことより、いま私が気になるのは、アベ氏が前任者の方針を継いで、「ぶら下がり記者会見」をやるかどうか、だ。
メディアは、何としてでも「ぶら下がり記者会見」の権利が欲しいだろうが、私はアベ氏にはその手法は取らないで欲しい、と願っている。

なぜなら、政権を利するだけの会見は、フェアではないからだ。
あれは「報道」ではなく「宣伝」に過ぎない。

前任者は、「ぶら下がり記者会見」の恩恵を最大限受けて、政権を維持した。
実態の伴わない、勢いだけのフレーズを散りばめて、自己PRの種とした。
毎日、内容のない「ひとりごと」を電波に乗せて、支持率アップの材料とした。

それをメディアは、「ソーリの声」として、まるで大切な宝物のように、金の台座に押し上げるがごとく扱っていた。
その「お言葉」を崇(あが)める姿は、とても民主国家のメディアのものではない。
なぜ、ここまで無批判になれるのか、私には到底理解できない光景だった。

アベ氏がソーリを継ぐに当たってのメディアの予測記事にしても、いつもながらではあるが、単なるリポートに終始している。

海外メディアがどう思っているか、を伝える記事でお茶を濁している。
諸外国メディアの論調を伝えるだけで、他人の意見を書き写す作業しかしない。
あるいは、国内の有力者の論評を伝えるだけという、いつもながらの芸のない報道方法も。

立候補者3氏の政策を伝えることは、当然のこと。
誰がどういう政策をとっていて、その違いはどこにあるかを伝えることも、メディアとしては当然のことだ。
しかし、メディアにはそこから先の「論」がない。
「アソウ氏の政策には日本の未来像が見えない」と○○氏が批判した、というのは「論」ではなく、ただの「記事」である。
また、支持者に判断させて、○×で判定させるだけ、という思考能力ゼロの記事もあった。
もうそろそろ、メディアは人の意見の陰に隠れるのをやめたらどうか。

権力に阿(おもね)ることだけ覚えて、自らの言葉を使うことを忘れたメディアは末期的だ。

コイズミ氏は、政権初期から人気取りの道具として「会見」を利用していた。そして、任期が切れる寸前に、「もうお役ご免」と言って、会見の回数を削減した。
こんなことをされたら普通は「虚仮(コケ)にされた」と憤るはずなのだが、メディアは回数を減らされたことに、ただうろたえるだけだった。

コイズミ氏は、「同じ質問ばかりだから、2回は無意味じゃないかと思った」と、今さら言っているが、それがあったからこそ、彼は高い支持率をキープできた。
もしこの「(言い訳と強弁のための)会見」がなければ、歴代のソーリと同じ末路をたどったに違いない、と私は思っている。
コイズミ内閣に限っては、メディアは「会見」の中で、内閣の「弁護士」の役目を担っていた。

しかし、任期切れの段階になってしまえば、「会見」を辞めたとしても支持率に影響を及ぼすことはない。
コイズミ氏にとって、「会見」を義務化する必要は、もはやない。

つまり、メディアは、捨てられたわけだ。

「思い人」に捨てられたのに、気付かないメディアこそ、「あはれ」である。

そして、新しい「思い人」をアベ氏と定めたメディアは、「ぶら下がり記者会見」にすべてを託すだろうし、アベ氏は今の人気を維持するために、それを受け入れるかもしれない。

ただ、アベ氏が骨の髄まで「超タカ派」であるなら、こんな軟弱なメディアは相手にしないで欲しい。
前任者のように、まるでお調子者のプレイボーイ(死語?)のごとく、メディアを弄(もてあそ)ぶことはやめてほしい。
言葉だけでなく、筋の通った行動でこの国をリードして欲しい。

中身のないメッセージを毎日電波にのせることなどせずに、政策の魅力で無党派層を引きつけて、掲げた政策から逃げないでほしいものだ。

「私は何としても8月15日に、靖国神社に参拝する!」
そう言いながら、4年間公約を守らなかった男がいる。
そして、任期が切れる寸前に、厚顔にも「公約はまだ生きている」と宣言して、胸を張って参拝した男がいる。

年金問題で追求されたとき「人生いろいろ」と言って世間をバカにした男がいる。
「大きな問題を処理するためには、この程度の約束を守れなかったというのは大したことではない」と開き直った男がいる。

特殊法人や財政投融資制度を骨抜きにして、史上に名を残すために「郵政改革」をひたすら主張した男がいる。

そして、改革をただ「言葉だけのレベル」に落とし込めた男がいる。

そんな男を模することは、「超タカ派」の名折れである、とアベ氏には思って欲しい。
そうでなければ、彼の同郷の先達「吉田松陰」に笑われるだろう。

鷹は鷹らしく…、私はそう願っている。(私自身、タカ派とは肌が合わないが…)



2006/09/19 AM 06:27:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

ジャブだけでKOされるメディア
形ばかりの「自民党総裁選」が始まった。

アベ氏に決まっているのに、何を無駄なことを…、と言ってはいけないのか。
総裁選前のアベ雪崩現象は、マスコミの事前の「人気投票」も手伝って、予想通りの展開になった。
議員先生方とメディアは、アベ氏をどうしても総裁にしなければ気が済まないようだ。

議員は大臣のポストが欲しい。
メディアは、「ぶら下がり記者会見」の権利が欲しい。
新総裁には、へそを曲げられては困る。だから、「仲良し関係」を築きたい。
政策などは、どうでもいい。
彼らが心配しているのは、いかに時流に取り残されないようにするか、だけ。

私の知る限りのアベ氏は、明瞭な意思表示をしない男に見える。
靖国参拝などに関しても、逃げている印象がある。
そのくせ、アジア外交に関しては、表面上は強面(こわもて)ぶりを演じている。

都知事イシハラと似ている、と言ったら意外に思うかもしれないが、私の感覚ではそれに近い。
イシハラ氏はボクシングで言えば、ジャブが得意だ。
威勢のいい言葉を最初に投げつけて、相手を立ち止まらせる。

日本のメディアは、イシハラ氏のジャブに怯(ひる)んで、シッポを巻く。
小心さを隠す(反論されるのが怖い)ためのジャブに過ぎないのだが、国内では有効だ。
しかし、国際的にはジャブだけではダメだ。
ストレートやフック、アッパー、ボディとパンチが繋がらなくては、相手にしてくれない。
それが「外交のテクニック」というものだ。

イシハラ氏が政治家として何もなし得ていないのは、ジャブしか打てないからである。
言葉だけで、実力が伴わないことを、諸外国に見透かされている。
アベ氏もそのあたりが似ている、と私は思うのだ。

アジア、特に北朝鮮に対して、ジャブは放つが、それだけだ。
有効打が続かない。
イシハラ氏と同じように、言葉だけだから、諸外国にとっては与(くみ)しやすい。

そのことはメディアも薄々気付いているだろうが、彼らは強面に弱い人種だから、首をすくめるだけである。
そして、新しい総裁に対し、すり寄っていく。
その結果、彼の威勢のいい言葉だけを伝える。

まるで、ジャブだけは一級品の亀田興毅を「大スター」扱いしたときのように、遠巻きにしながら、ご機嫌を取る。
そして、ひとたび墜ちれば、完膚無きまでに叩く。
ただし、政治家に関しては、彼らが腰縄をかけられるまでは、メディアは寛大で辛抱強い。

まだ反撃する力が相手に残っている間は、じっと様子を見る。
報復が怖いから…………。

アベ氏を見ていると、政治家としての資質はあるように思える。
彼は、人に言葉尻を捉えられないように、曖昧な発言しかしない。
経済に関しては、踏み込んだ発言をしない。
意味のない笑顔で、好感度アップを狙う。
他人の意見は聞いているふりをして、実は聞いていない。

さすが政治家の家系で育っただけのことはある。
しかし、政治家としての資質は、それだけだとも言える。

彼がもし本当の政治家としての気概を持っているなら、コイズミこそ斬るべきだ。
その上で、アベ流を創生するなら、政治家らしくない政治家として、歴史に名を残すだろう。

しかし、前任者に「いいとこどり」だけされて、政権をぶっ壊されたら、ピエロである。
ただ、ピエロは可笑しくも悲しい役どころだから、あれはあれでけっこう難しい。

前任者は「大根役者」。
そして後継者は、ピエロ。
いずれにしても、三文芝居はまだまだ続くのか。


2006/09/12 AM 06:25:16 | Comment(0) | TrackBack(1) | [メディア論]

モザイクの世界
事件の被害者というのは、死に損である。
自分の意思にかかわらず、その人の時が突然に止まる。いや、停止させられる。
昨日から今日へ、当然のように流れる時の流れが、その人だけ遮断されるのだ。

理不尽としか言いようがない。

犯罪者にも事情はある。
だからこそ、弁護士という職業が儲かっている。
その道理はわかる。
やむを得ない犯罪というものがあるのかもしれない、という想像力を働かせることはできる。
その人たちの言い分を聞くことは、決して無駄ではないだろう。

しかし、そんな現実を差し引いても、被害者は、無惨だ。
未成年者の場合は、特にそれを強く感じる。

犯罪者は未成年の場合、顔も名前も出ないのに、被害者は出てしまうのだ。
名前と顔を晒(さら)され、近所の風景も晒され、友人知人や恩師の他に、野次馬的な第三者までもが登場人物に加えられる。
彼らは好むと好まざるとに関わらず、犯罪劇の登場人物にさせられるのだ。(中には、積極的に登場したがる人もいるようだが)

未成年の被害者は、過去の写真を探し出され、衆目のもとに晒される。
映像があれば、その映像も晒される。
晴れやかな笑顔で日常を飾る彼らの姿と、いったいその犯罪とどんな関係があるのか。

こんなにも罪のない彼らの日常を壊した犯人が憎い。
犯罪に巻き込まれなければ、彼らはこの先もこの笑顔を人に見せることができただろう。
犯罪者は彼らからその機会を奪ってしまった。何と痛ましいことか…。
メディアは、この映像を使って、そう訴えたいのだろう。

だが、そんな映像などなくても、犯罪の酷(むご)さを伝えることは可能なはずだ。
被害者の日常を晒すより他に、手法を持たないニュースメディアというのは、確実に凶器である。
刃を被害者の方に向けている。

他の局と少しでも違う映像こそ特ダネである。
まるで、被害者にプライバシーなどない、と言わんばかりだ。

被害者たちは、関係者たちへのインタビューの中で、彼(彼女)の日常生活を暴かれ、たった数人の評価で、その人格を特定される。

明るい人だった。
優しい人だった。
礼儀正しい人だった。
取っつきにくい人だった。
派手な人だった。
トラブルをいつも抱えた人だった。

被害にさえ遭わなければ、彼らはそんな風に片方の視点だけで人格を定義されることなど、なかったに違いない。
たった数人の声が、彼らの人格を決定づける。

そして、未成年の犯罪者は、モザイクの向こうでどんな顔をしていても、晒し者にはならない。
たった数人の評価で人格を特定されるのは、被害者と一緒だが、奇妙なことに、彼らはモザイクの世界で完全に守られている。

被害者には未来がない。
しかし、犯罪者には未来がある。
未成年者なら尚更だ。
その未来を、モザイクで守ろうということなのだろう。

しかし、被害者に未来がないからといって、被害者の過去を晒し者にするという手法が、平然と常態化するというのが、私には理解できない。
だから、私はこう思う。

被害者は、二度殺される。

そして、犯罪者は、モザイクの世界で、たやすく未来を手に入れる。
さらに、メディアは報道しっぱなしで、終わる。



2006/09/02 AM 06:27:02 | Comment(1) | TrackBack(0) | [メディア論]

大根役者の三文芝居
俺は、現職で21年ぶりに終戦記念日に参拝した総理大臣として、歴史に永久に名を残すだろう。
誰も俺の邪魔をすることはできない。いや、させない。

しばらくの間、メディアは他国の反応を気にして、騒ぎ立てるだろうが、あいつらはいつも最初だけだ。
こちらが論点をはぐらかせば、いつの間にか鳴くのをやめる。こちらが拍子抜けするほど、骨がない奴らだ。

俺に対する批判は、他国やメディアを悪人扱いすることで、すり替えることができる。
有権者は、言葉の裏を読まないから、威勢のいい謳い文句を言っておけば、細かい説明はしなくてもいい。
俺はこの方法で今まで支持率を上げてきた。だから、今回も上がるはずだ。
俺の計算が狂うことはない。

中韓は、文句を言ってくるだろうが、文句だけだ。
もはや俺の政策に影響を及ぼすことはない。
米国も多少は過剰に反応するかもしれないが、表立って批判することはないだろう。
そのために、今までしっぽを振ってやったんだから。

たとえまわりが騒いでも、支持率が上がれば、みんな何も言わなくなるはずだ。
支持率こそが、正義のものさしだ。政治の世界にこれ以上のものはない。
今までも、それですべてを封じ込めてきた。

支持率が高いまま退陣したら、俺は伝説の総理大臣になるはずだ。
あとは俺がキングメーカーとして、どれだけ長くこの国を操ることができるかが重要だ。
おぼっちゃま揃いのこの党で、俺に本気で楯突くやつはいない。
もしそんなやつがいたら、次の選挙で追い出せばいい。
俺の言うことだけを聞くやつを候補に立てれば、この党は俺の思いのままになる。

あるいは、もし次の選挙で党が過半数を割ったとしても、俺の知ったことではない。
俺が新党を作って、党首になれば良い。
政権参加によだれを垂らしている党を連立相手に選べば、簡単に政権は取れる。
そこで、また俺の時代が来る。

そうすれば、自民党をぶっ壊す、といった俺の言葉も、真実になる。


【私見】
政教分離など、肝腎な論点を隅に押しやって、「参拝」だけをショー化する小泉もそうだが、それを「小泉劇場」などと言ってはやし立てるメディア、そして、すべてを日本の「軍国主義化」に結びつけて自国民の不満を逸らそうとする中韓政府の態度も、きな臭い。
国家間の交渉で、それぞれの国家が国益を優先するのは当然だが、「醜いショー」のなれの果てに、国民に真実を覆い隠すことは許されない。
大根役者の三文芝居の続きは見たくない。



2006/08/15 AM 06:33:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

靖国 亀田
公約は生きているんだそうである。
では、その生きた公約を過去4年間守らなかったのは、一体誰なのだろう。

彼は、靖国神社にはいつ行ってもいいんです、とも言っていた。
それなら、なぜ公約通り、8月15日に参拝しなかったんだろうか。
いつ行ってもいいのなら、公約は守れたろうに。

それをなぜ、今さら開き直る?
なぜ、メディアのせいにする?

「いつ行っても批判してんじゃないですか」

ソーリは、メディアに当たり散らしているが、幼児性丸出しである。
自己の言葉を省みて恥じるという明晰さがない。

もし、8月15日に参拝したら、
「公約を守れというから、参拝したんです! 公約を守ったじゃないですか!」
と強弁するんでしょうね。
そして、またしても支持率は上がる(不思議な世論だ)。

ベネズエラのランダエタが、試合前に亀田興毅におむつとおしゃぶりをプレゼントしたように、私もソーリにおむつとおしゃぶりを進呈したい気分だ。

子どもだ!

そもそも、この国のメディアは、時の政権を批判したりはしない。
ソーリがイスラエルやモンゴルではしゃぎ回っていても、それを伝えるだけである。
それらの訪問がどんな意味を持つのか、あるいは持たないのか、伝えようとしない。
その報道は、まるで夏休みの絵日記のように、無邪気で緊迫感がない。
メディアはいつも及び腰である。政権に気を遣う様は、独裁政権下のメディアに似ている。
しなくてもいい自己規制で、腰砕けの報道しかしない。

旧聞だが、731部隊のニュースで安部晋三のポスターが映ったといって大騒ぎをしていた。
そのニュースを見ていないので無責任な感想になるが、それが意図的にしろ、サブリミナルを狙ったにしろ、テレビ局が自己のポリシーに沿って作ったものなら、私はかまわないと思う。
国民の不利益にならない限り、報道は原則自由だ。規制すべきではない。自己規制などもってのほかだ。

安部晋三に対するネガティブ・キャンペーンを確信犯的にしたのなら、TBSもあっぱれと言っていい。
骨太な報道だと感心してもいい。

ソーリが開き直るように、メディアも開き直ればいい。
ただ、その後のTBSの言い訳を見ると、見事に腰が砕けている。
いつもながらの弱腰メディア丸出しになっている。
メディアは、実力者に対して喧嘩を売らない。
弱者に対しては、徹底的に叩き、根こそぎ人格を喪失させる。
そして、実力者が怒ると震え上がる。実にみっともない集団である。

靖国参拝にしても、批判はしていない。
ただ、周辺諸国の反応を伝えているだけである。
ソーリはそれを「批判されている」と勘違いしている。
どっちもどっちだ。

一頭のライオンがいる。
ライオンは本来は、王のようにゆったりとしているものだが、このライオンは些細な音にも敏感に反応する。しかも、意味もなく吠えることだけは忘れない。
格好の餌であるシマウマの群を見るときも、神経質な視線でしか見られない。
シマウマもライオンが臆病なのがわかっているのだが、力では明らかに分が悪い。
誰もが逃げ腰で、遠巻きに見つめるだけである。

ライオンは近々リーダーの座を降りる。
ライオンは、その前に伝説のライオンの墓に行きたいのだが、それをするには、シマウマの群を通っていかなければならない。

俺は強いんだ。俺は百獣の王だ。
ライオンは虚勢を張るが、シマウマの大群の反応も気にかかる。
だが、シマウマたちもこう思っている。
あのライオンはただ吠えるだけで、王としての力はない。
しかし、ライオンはライオンだ。
怖い。
だから、他のグループのライオンを連れてきて喧嘩をさせようか。

このように、シマウマはどんなときも自分で戦おうとしない、卑劣で臆病な集団である。

  。+゚゚+。。+゚゚+。。+゚゚+。。+゚゚+。。+゚゚+。。+゚゚+。。+゚゚+。

続いて、亀田興毅。

戦う前、私は彼の負けを予想していた。また、たとえ負けるにしても、多少はまともに戦ってくれると思っていた。
しかし、予想に反して、亀田は防御が8回戦ボーイ並みにお粗末だったが、それなのに勝った。

試合後、色々言われているようだが、亀田は悪くない。
彼は、力を尽くして闘ったのである。
判定を下したのは、彼ではない。ジャッジだ。
だから、判定に文句があるなら、ジャッジを叩くべきで、亀田が叩かれるのは筋違いだ。

将来有望な選手を、筋違いのバッシングで消耗させてしまっていいのか。
メディアの役割は、バッシングに荷担することだけなのか。

以前私は、「亀田興毅は美しくない」と、このブログに書いた。
その考えは今も変わらない。
あのパフォーマンスは、王者に相応しくない。
父親も含めて、幼稚で、醜い。

だが、リング上の亀田は、悪くない。
美しくはないが、才能を感じさせる。
今回、その才能にも若干疑問符がついたが、最後まで立っていた精神力は認める(ランダエタに勝つ気がなかったという見方もできるが)。
だから、それから先のことは、亀田の責任ではない。

「ボクシングでは、あの判定は当たり前ですよ。それがボクシングというものです」
したり顔で言う、元王者。あるいは、ボクシング関係者。

つまり、あなたたちの過去の栄光も、それがダーティだったことを認めたわけだ。
ボクシングをスポーツと呼ばせたいなら、そろそろ判定のシステムを変えるべきではないだろうか。
判定の基準は、単純に有効打の優劣だけにした方が判りやすいかもしれない。
アマチュアボクシングのように、ダウンが判定基準にならないというのは問題だが、ダウンの評価基準を大きくすれば、今回のような矛盾点はなくなる。

今回はジャッジが亀田の有効打を、ランダエタの手数より評価した、などと言っている人もいるが、それは単に推測だろう。
ジャッジは何も言っていないのだ。
都合のいい解釈は、話をわかりにくくする。

今回、亀田は王者にはなったが、真の実力をさらけ出した。
亀田にとっては、負けた方が得るものが大きかったのではないか。
勝利に疑惑をもたれ、亀田フリークはさらに、感情的に亀田一家を弁護しなければいけなくなった。
どちらも惨めで、見苦しい。

ボクシングジムに通った経験があるものにとって、12ラウンド戦った選手の尊厳が失われるのを見るのはつらい。

ボクシングを、本来の意味のスポーツに戻して欲しいと思う。



2006/08/14 AM 06:33:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

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