Macでお仕事?
Mac歴22年。独立して15年。日に日に減っていく仕事……。そんな売れないデザイナーのひとりごとです。
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私の気になること
各地で安保強行採決に反対デモが沸き起こったのは、60年安保(死語!)にも70年安保(死語?)にも間に合わなかったオジさんには、興味深いことだった。

いくつかのメディアは、「反戦デモ」などというピントの外れた漫画的な表現をしていたのが興ざめだったが、私は基本的に「権力に楯突く人」が好きなので、その現象は心地よく受け入れた。

権力に楯突く人、といえばテレビ朝日の「報道ステーション」だ。
ニュースショーを好んで見ることはないが、報道ステーションは、年に数回は観ていると思う。

政権に楯突く、ということで保守的な方たちには蛇蝎のごとく嫌われているようだが、私はメディアが権力に批判的なのは当然のことだと思っている。

私も含めて、政治に無知な人間に警鐘を鳴らす勇気は、メディアにこそあってしかるべきものだ。

読売新聞社や産経新聞社のように、「俺は体制派だから、国のことばかり考えてるんだよね」という政権に対して生ぬるい、あるいは擦り寄るようなような勘違いメディアよりは、報道ステーションのスタンスは「反権力」という点で、私には頼もしく思えるのだ。

ただ、保守一辺倒のフジテレビや日本テレビが、街頭インタビューなどで、安保強行採決に関して「是」と「否」半々に報道していたのは評価できる。

安保強行採決に関して、保守寄りの評論家が言っていた「テレビでは否定意見ばかりを取り上げる」という主張は、完全にお門違いの意見で、各局は公平に意見を分配していたと思う。

自民党側に立っている人としては、「否定意見ばかり」と印象操作をしたいのだろうが、メディアの世論の扱い自体は公平だった。
そのことに関しては、拍手を送りたいと思う。

ただ、日本テレビの報道は、まるで冷静に事実を伝えることがマスメディアの仕事である、と突然目覚めたかの如く「安保強行採決」に関して、公平ではあったが客観的で冷淡だった。
しかし、この場合の「客観的」は、自民党の政策に対して消極的に賛同する意味での「客観的」だった。

要するに、それほど露骨ではないにしても「俺は体制派なんだよね」の意識を隠せない報道だったと言える。

それとは対照的に、報道ステーションは、あくまでも「反体制派」だった。

そのことで、古舘伊知郎氏は、どんな些細なことでも物議を醸すのだが、その言動は、いつも腰砕けのマスメディアの中では異質であると私は好意的に見ているのである。

腰砕けといえば、公明党だ。

「平和の党」の看板は、最近では完全に色あせて、「平和の看板を下ろした権力にしがみつく党」のイメージが、私の中では出来上がりつつある。

連立与党というのは、連立相手の是非を吟味しつつつ、「受け入れないところは断固として拒否する」のが、連立の理想だと私は思っていたのだが、いまの公明党は「受け入れないものも受け入れ、連立の旨みだけ享受する親自民党」の位置に甘んじているように私には思えるのだ。

彼らを支持する「世界平和を願う人々」に、政権に擦り寄った政治家は、どんな言い訳をして支持者たちを宗教的な言葉で説こうとするのだろうか。

信者たちに祭り上げられた政治家たちは、「世界平和のためなら、武器を敵に向けるのもありですよ」と説くつもりか。


世界のあらゆる宗教の歴史をみれば、宗教的なブラックジョークとしてなら、それもありかもしれないが。


もちろん、安保法案が強行採決されたからといって、すぐに戦争になるわけではないだろう。

だが、いつか「世界の戦い」の中に日本が巻き込まれたとき、憲法改正もできない脆弱な政治家(安倍晋三氏)の弱腰が、禍根を残すことがあるのではないか、と私は危惧するのだ。

国にとっての将来を左右する現実があるとき、「有能な政治家」は、国民に辛い選択を求めることがあっていいと私は思っている。

それは、つまり「憲法改正」という国にとっての一大事だ。

それを避けて、「国はおのれの国を作ることができない」。

その一大事を、なぜ安倍晋三氏は、怖がるのだ。

今の日本国を変えたいなら、真っ当な政治家なら、安保法案などという瑣末なことにはこだわらずに、憲法改正を国民に問うべきではないのか。

なぜ、彼はそれができないのか。
何を怖がっているのか。

とはいうものの、民主的な選挙で、過半数以上の議席を手にしたのは自民党であり、選挙民の多くが支持した政党も自民党である。

たとえ、小選挙区で全有権者の30パーセントに満たず、比例区で20パーセント程度の投票しか得られなくても、自民党が第一党であることは疑う余地がない。
今の選挙制度の仕組みがそうなっているのだから、それを否定するのは現実的ではない。

国民に選挙で選ばれたわけでもない北朝鮮や中国の指導者のように、民主的には「資格のない人」が国を操っているわけではないのだ。

憲政史上突出した超タカ派一家の「安倍家」の政治家をトップに選んだのも国民だし、民主主義を自党に都合よく解釈する傲慢な谷垣禎一氏や高村正彦氏を選んだのも国民である。

タカ派である彼らが、最近とみに力の弱った米国に「軍事力で貸しを作る」ことは、国民が自民党と公明党に絶対多数を与えた時点で決まっていたことなのかもしれない。

不条理だと思うことでも、国民が民主的に選んだ結果なら、それは「道理」になる。


願わくば、戦前のナチスドイツのように、「憲法停止」などという暴挙に出ないことを祈るばかりだ。


憲法改正に臆病な安倍氏は、アドルフ・ヒトラーには似ても似つかないが、歴史はときに予測のつかないことをするものだ。

そんなときでも、自民党を選んだ選挙民と自民党に寄り添う公明党は、彼についていくのだろうか。


私は、そのことが、とても気になっている。



2015/07/19 AM 06:27:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | [メディア論]

自己責任ヒステリー
2週間以上前のことだが、シリアで日本人が拉致された。

解放されたという情報は、まだ聞いていない。


10年以上前には、イラクで日本人が人質になった事件があった。

政府関係者の一部やマスメディアが、人質になった人に対して「自己責任」と断罪した事件だ。
インターネット・メディアは、今ほど傍若無人ではない時代だったが、やはり「自己責任」を大合唱していた。

週刊誌やニュースショーなども、コメンテーターが、「自己責任」を唱えていた。
私の友人たちも、その流れに乗り遅れるのが怖かったからか、「自己責任」を口パクしていた。

しかし、私は抵抗した。

いかに紛争地域とはいえ、合法的に入国した非政府組織の人が強引に拉致されたとき、なぜ人質側が責められなければならないのか、と。

それに対する反論の中では、「危険な地域だというのはわかっているのだから、捕まったって自業自得じゃないか」というのが、「自己責任論」の核になっていた。

友人たちからは、論理のすり替えだと言われたが、刑事犯の基本は、加害者と被害者を分けるところから始まる、と私は反論した。
誘拐犯は加害者、人質になった人は被害者。

被害者の行動を自業自得と決めつけたら、加害者側に無用な「情状酌量の余地」を与えることになる。
合法的に入国した人は、その国で犯罪を犯さない限り、「善良な外国人」だ。
その「善良な外国人」を拉致する方が、明らかに悪いのではないか。

「いや、合法的に入国したとしても、そこは紛争地域だ。平時の解釈は通用しない」

それに対して、私は、わかった、と了解した。
紛争地域では、国際法が的確に執行されることがないことは、紛争の性質上あり得るだろうと推測したからだ。

ただ、入国した非政府組織の人の心構えも、根本的な考えはお前たちと同じだと思う、と私は言った。
彼らも、危険なことを承知で行ったと私は思っている。

彼らは、「自己責任」を体全体、心全体に貼り付けて、覚悟して紛争地域に足を踏み入れたと思うのだ。

どこからも泥がかかってこない場所で、「自己責任」を合唱する人たちよりも、遥かに強い意志で、彼らは「自己責任」を背負って出かけたと私は思っている。

誰から言われたわけでもなく、自らの意志と責任で社会活動、人道支援に携わろうとした人の行動が持つ意義と、他人が遠くから吠える「自己責任」の本質は、明らかに違う。

海外で社会活動をする人には、当然のことながら、リスクが伴う。
そして、そのことを彼らが、知らないわけがない。

「自己責任」という言葉は、彼らの行動の中に、迷うことなく真っ先に埋め込まれた覚悟ではないか、と私は思っている。

その自己責任という重い荷物を持って他国に渉った人に対して、まるで「人質になった方が悪い」というような皮相的で画一的な批判は、平和日本に住む私には、気恥ずかしくてできない。

紛争地域で、中立的な立場で人道支援をしようとした人たちに、筋違いの「自己責任論」という批判を浴びせかけたら、紛争地域で働く、他の国の非政府組織の人たちさえも同列に批判することになる。

誰もがわかっていると思うが、悪いのは、「誘拐した方」だ。

私の思い込みかもしれないが、「自己責任」と断罪したら、事態には関係なく、きっと何かの溜飲を下げることができる、と勘違いしている人が多くいるのかもしれない。

しかし、少なくとも、私と紛争地域で社会活動をしている人とでは、人としての質が明らかに違う。
「自己責任」を肝に銘じている人に、「自己責任」を説く勇気は、私にはない。


10年前の総理大臣は、小泉純一郎氏だったと記憶している。

そのとき、政府と外交官の方たち、現地の関係者の尽力があって、人質は無事解放された。
彼らは、歴史的な偉業を成し遂げたと思う。

しかし、解放された後も「自己責任ヒステリー」というパラノイアは、日本国内に、しばらく蔓延していたことも私は記憶している。


今回、シリアで人質となった日本人に対して、世間はまた、「自己責任ヒステリー」を発症させたのだろうか。

最近の私は、新聞は読まないし、テレビのニュースショーも見ない。
インターネット・ニュースも見出ししか読まないという「世捨て人」の日常を過ごしているので、詳しいことはわからない。

何でもセンセーショナルに受け止める性癖のある大学時代の友人に聞いてみたら、「俺のまわりには自己責任だろってやつが多いな」と毒を吐くような言い方をしていた。

そうか。
そこで、ひとつ聞きたいのだが………彼を拉致した誘拐犯は、おまえたちにとって、英雄なのか勇者なのか?
それとも、彼らだけに通じる法で守られた合法的な誘拐犯なのか?
そして、紛争地域では、「善良な外国人」は、人権を捨てるのがルールなのか?

俺は、彼らを自動小銃と爆弾だけがたよりの「快楽的殺人鬼」だと思っているのだが、おまえらの考えは違うということかな?

・・・・・・・・・・・・・・・。

私の質問の仕方が悪かったのだろう。
意味が伝わらなかったようだ。


私はただ、「自己責任ヒステリー」は、銃を持つ軍隊の論理であって、丸腰の平民(戦闘的弱者)に向けるものではない、ということを言いたかっただけなんですがね。


これは、ヒステリーと決めつけるわけではないが、「アイス・バスケット・チャレンジ」は、難病を抱える方には頼もしいエールになるが、ただ表層的なブームをなぞるだけの人の行動には、ヒステリーの要素が入り込むこともあり得る、と私は考えている。

平民は、ただ見守るのみ。




さて、平民の私が、最近、ヨメに言われたこと。
「今年の夏は、何もなかったわねえ」

どこにも連れて行ってもらえなかった、と言いたいらしいのだ。
息子も、その意見に同調していた。

むかしのことを言うのはフェアではないかもしれないが、あえて言わせてもらう。
今年の3月には、娘の高校卒業祝いを兼ねて、ディズニーの豪華オフィシャルホテルに泊まって、ランドとシーを満喫した。
6月の初めには、日帰りバス旅行だったが、伊豆半島で楽しいときを過ごした。
家族サービスをしなかったわけではないのだ。

あの記憶は、皆の脳からリセットされてしまったのだろうか。


ここから先は、言い訳。

今年の夏は、仕事が忙しかった。
そして、すこぶる私の体調が悪かった(人生2度目の検査漬け)。

だから、どこかへ行きたいのなら3人でどうぞ、と私は提案したのである。
だが、「別に、そこまでは」と言って遠慮したのは、誰だ?

それに、小金井公園で一度、バーベキューをしたではないか。
そのあと、スーパー銭湯にも行ったぞ。

あれは、「何もなかった」うちに入るのか。
クソ暑い猛暑日に、4人で2万円近い出費だったが…(みみっちい?)

まあ、それもこれも、すべて含めて私の「自己責任」。

そこで、自己責任で、私は、久しぶりのオフ日の今日、武蔵野のホテルのデイユースを利用する予定を入れた。
12時から19時までの7時間。
おそらく、ほとんど眠りコケてしまうだろうが、今の私に、7時間の休養は大きい。


だから、今から楽しみでしょうがな〜い ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪





2014/08/30 AM 06:25:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | [メディア論]

大量の打ちまちがい
すぐ辞める。
すぐ辞めさせる。
すぐ辞めたがる。

乱暴な言い方だが、日本国籍を持たない人から年間5万円献金を受けただけで、何の大騒ぎ? という話だ。

野党が怒るのは国会運営上の戦略として理解できるが、本当に、その程度のことで、みなさん憤っていたのか。
世の中の人は、そんなに真面目な人ばかりなのか。

真面目すぎてメディアの言うことは正義だと、義務的に鵜呑みにしているとか・・・。

ニュースのインタビューで、「5万円の違反をしているんだから、陰でもっと違反してますよ」というのがあった。
その生真面目な言い分には、頭が下がる。
不正は許さない、という毅然とした態度は、まるで法の番人のごとし、だ。


唐突な話だが、私は民主党の支持者ではない。
あるいは、ネットの世界に凄まじいほどの「アンチの暴風」を吹き荒らす民主党嫌いでもない。
そして、他の党の支持者でもない。

人格破壊寸前のひねくれもの。
腰の定まらない無党派である。

ただ、無党派ではあるが、風は読まない。
メディアの作り話を素直に聞く度量もない。

自分の性格を冷静に評するなら、骨の髄まで卑怯で臆病な「ひねくれもの」。
それに尽きる。

たとえば、実績を上げていないのに、人気取りだけに労力を注いだコイズミ元首相が、私は大嫌いだった。
功績といえば、拉致被害者を数人引き上げたことだけで、経済的には格差社会を作って「失われた10年」を「失われた20年」にした。

たとえば、メディアは何の実績もないのに、ある人物を「剛腕」と言っておだて、闇の実力者にした。

たとえば、メディアは、アソウ前総理の言い間違い、読み間違いをあげつらって、支持率を大きく落とし退陣に追い込むお先棒を担いだ。


聞くところによると、歴代のアメリカ大統領は、原稿の言い間違い、読み間違い、読み落としを頻繁にしたという。
しかし、メディアは、そんなときも「からかう」だけで、大統領の息の根を止めるようなことはしなかったらしい。
つまり、言い間違いと政権担当能力は関係ないという「大人の対応」をしたのだ。

ひるがえって、日本のメディアは、日本語の言い間違いだけで大騒ぎをした。
政権担当能力と日本語能力は、イコールだというスタンスだった。

アソウ氏は、外務大臣時代、仕事をした人だったと私は思っている。
各国に「物申せる」人だったと、私は記憶している。
彼は、コイズミ氏よりできる人だったと思う。
ただ、彼にはマスコミをコントロールする能力だけがなかった。

そして、総理大臣になると、政権担当能力以外のことで「言葉の闇討ち」にあって、仕事をさせてもらえなかった。

一国の責任者の言葉の言い間違いなど、酒の席での話題にするだけで充分だろう。
だから、私も、そんな彼の言い間違いをからかった。
しかし、その「愛敬ある言い間違い」を、私はむしろ楽しんでもいた。

一国の責任者が、重要な政策や外交場面で言い間違いをしたら取り返しがつかないが、そうでなければ、普通は「愛敬」として受け止める。
その程度で、政権に致命傷を負わせることはない。

相手が総理大臣であろうが、知人であろうが、偉い大学教授であろうが、宇宙人であろうが、私だったら「ハハハ、間違えてやんの!」で済ます。

そこまで、生真面目になることはなかろう。

そんな生真面目さに、意味があるのか。


今回のマエハラ氏の場合は、言い間違いではない。
政治資金規正法違反である。

だから、弁解の余地がない。

そして、献金のことを「知らなかった」という政治家特有の小賢しいセリフに、私は反吐が出そうになった。
そんな言い訳が通用すると思った典型的な政治家的体質に、虫唾が走った。

ただ、マエハラ氏もアソウ氏と同じように、諸外国に「物申せる」政治家だと私は思っている。
無理を貫き通す中国・ロシア・北朝鮮に「物申せる」政治家は、それほど数多くはいない。
彼は、そのうちの一人だ。

たとえ、政治資金規正法で罰を受けたとしても、辞めさせることはない、と私は思う。

政治家の個々の資質を見抜いて、「辞めさせない」というキャンペーンも必要ではないか、とさえ私は思うのである。
ひと仕事させて、本当に彼が不必要だということがわかったら、選挙で落とせばいい。
それが、民主主義の根本的なルールだ。


メディアは、闇の権力者を作る手助けをするだけでなく、本物の政治家を育てることを考えたほうがいい。



近本的に木真面目ではない渡しは、そんなことを孝えたのであゐ。
(討ち間違いが大漁にありましたこと、お詫び申し上げ鱒。すべては催眠不足のせいで茣蓙います)




2011/03/10 AM 06:26:03 | Comment(3) | TrackBack(0) | [メディア論]