今回の震災にて被災された皆様、
ならびにご家族の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。
また犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみ申し上げます。
まだ保育園にも通っていなかった小さな頃、
家に居る時に地震が起こり、お袋がめちゃうろたえ、
ふとんを頭から被され、大人しくしてる様押さえつけられた。
それが自分の中で一番最初の地震の記憶。
揺れていた記憶は無いが、
それまで見た事のなかった、大人がうろたえる姿にびびった。
小学校に上がる頃になり、新潟地震の写真を見た。
橋が落ちてたりする様子が怖くて怖くて、
戦争や幽霊も怖かったけど、自分の一番怖いものはその頃から「地震」になった。
日本沈没なんて映画やTVドラマが流行った頃で、
幼い心には、フィクションとノンフィクションの境が理解できず、
それはいつか本当に起きる事なんだと、怖くて怖くてたまらなかった。
どうして自分は日本に生まれてしまったのかと、運命を恨んだ。
東海地震が近く必ず発生するとの学説が発表されたのも小学生の頃。
それは静岡県の話だと他人事のように思っていたのが、
中学の時に、阿寺断層上に位置する中津川市の危険性も発見され、
その後中津川市は岐阜県で唯一「地震防災対策地域」に指定された。
本当に怖い地震だったけど、
だからと言って生まれ育った町から逃げ出す訳には行かない。
その頃から地震を怖がってるだけじゃだめだという意識が生まれた。
日本で、世界で大地震が起きるたび、
明日は我が身と、覚悟を持って暮らしてきた。
王滝村の地震に、阪神淡路大震災。
その瞬間「とうとう来たか」と何度思った事か。
中津川市を始め、東海地震の指定地域の人間は、
いつでも「次は自分たちの番だ」と、きっと何らかの覚悟を持って生きているはず。
だからどこでどんな地震が起きようと、決して他人事とは思えない。
「明日は我が身」と心得て暮らしている。
今回の地震の起きた時間、俺は同僚とオフィスに居た。
オフィスなんて言っても、築40年以上のボロい建物の2階。
大きな地震が起きたら、間違い無く倒壊する。
仕事に集中してた為、最初は気付かなかった。
今までに経験した事が無い程、長い時間横に揺れていて、
いつ「ドーン」と大きな揺れが来るのかと身構えていた。
しかし結局そのまま揺れは収まった。
2度目の揺れの時には、車で営業に出ていて気付かなかった。
そんなに大変な事が起きているとは思っても見なかった。
行きつけの写真屋さんに寄った時に、東北に津波が襲っている映像を見た。
ひどくショックを受け、戻ってオフィスでパソコンから、USTREAM経由の中継を見た。
もの凄い地震が起きた事は分かったし、地域によっては壊滅的な状況は理解できたが、
まだその日には、被害者は数百人と発表されていた。
TVは同じロングショットの映像を繰り返すだけで、何も事実は分からなかった。
明くる日は会社の慰安旅行だった。
まだそれほど悲観的状況とは考えていなかったから、予定通り決行された。
飛行場まで行き、津波の影響で飛行機が飛ばなければ中止になるだけだと思っていた。
朝9時に飛行機は何事も無かった様に飛び、福岡空港に降り立つ。
九州の様子も、いつもと変わった事はまるで無かった。
太宰府天満宮〜別府温泉への観光を済ませてホテルに入り、そこでやっとTVで
至近距離から撮影された、生々しい津波の状況を伝える映像を見た。
これで被害が数百人で済むはずがないと、初めて状況が理解出来た。
その後の原発事故の状況は、旅行の移動の関係で、
Twitterなどからしか断片的にしか入手出来ず、
帰るまで、爆発があった事さえ知らなかった。
旅行2日目になると、福岡の街の中でもコンビニの看板が消えていたり、
天神の駅前でコーラスグループが歌って募金を呼びかけていたり、
震災の影響が少し感じられた。
一日に何度も携帯に入る、地元での地震発生を知らせるメール。
この地震に誘発されて東海地震がいつ起きるのかと、遠く九州の地で戦々恐々としていた。
どうせ発生するなら、家族の近くに帰るまで待っててくれと。
こんな震災の中、心配が大きく心も沈みがちだったが、
九州の地には、いつもと変わらぬ日常が有った。
彼の地の事を心配しながらも、目の前の現実を必死に生きる姿が有った。
そんな状況下で旅行を楽しんでいる事に後ろめたさも感じた。
しかし、帰りのバスの中で添乗員さんがこう漏らした。
「旅行社も、沢山のキャンセルが入り、明日からの仕事が不安です」と。
その時に感じた。こうした災害が起こると、必ず高まる「自粛ムード」。
もちろんそれが、被災地の人を救う事に繋がる自粛であるならいい。
しかし大部分は、自分の体裁を気にする事から生まれる「自分の為の自粛」。
それで経済を停滞させてはいけない。
元気で無事な人が、一生懸命働いて物を作り、物流を動かして後方支援をしなきゃならない。
自粛ムードで仕事を失う人が出来てはならない。
寝る所と食べる物に困らない人が、募金をしたり物資を送らなきゃいけない。
そう考えると、自分が旅行をしていた事も肯定的に考えられた。
色々おみやげを買い求めた事も、絶対に意味のある事だと感じた。
携帯からSNSをチェックすると、土曜にブレスで「the night」というイベントがあり、
そこで募金箱を設置して、いち早く4万円を越える募金を行った事実も知った。
歌う事で、ライブをすることで被災地の人を救う力になれる事に気付いた。
人が集まる事、それはすなわちパワーであり、それが個人を越える大きな力となる。
俺も自分のイベントを予定通り行う事で、大きな力を集められる可能性がある事に気付いた。
家に到着する時には迷いは消えていた。
自分はユンボもブルドーザーも運転出来ない。家を建てられる様な技術も無い。
ヒロイズムで被災地に乗り込んでも、食い扶持が増えるだけで却って足手まといになる。
俺には俺のやり方で、東北の人たちを助ける力になれる事が必ずあるはず。
その日のうちに次回のHRNでは、経費を越える利益が出たら全額寄付する事にした。
黒字にならなくても、身を切って最低3万円は募金する事に決めた。
口だけじゃない所を示すため、明くる日すぐに、前回のHRNの売り上げから、
次回の仕入れに使おうと避けてあった1万円をヤフーボランティアに募金した。
俺は自分のイベントで、社会貢献が出来ると信じている。
こうして宣言する事で、退路を断つ覚悟もしている。
誰かに何かを言われても、信念と使命感を持って遂行しようと思う。
俺が日本人の持つ、もの凄い復興のパワーを感じたのは、
高校生の時に研修旅行で行った広島での事だった。
原爆で壊滅させられた街。深い絶望感の中から、見事に復興を遂げた広島の街。
その地に立つだけで、ふつふつと湧き上がる勇気を感じた。
だから阪神淡路大震災の時も、それまで経験した事のない大きな災害だったが、
神戸は、日本は、絶対に復興出来るはずだと信じていた。
もちろん空襲の焼け野原から復興して世界一の都市になった東京も同様。
日本人は神から選ばれて、人類の手本となる様な復興の試練を与えられている様に感じる。
今回もM9.0という未曽有の規模の大地震。
映画を遥かに越える様な、物凄い大きさと破壊力を持った津波。
加えて原発の放射能漏れ事故といった試練を与えられ、正に瀕死の状態。
しかし東北の人達は、また我々日本人は、知恵と力を結集し、
恐らく新たな自然エネルギーの開発と共に復興する事だろう。
そのプロセスは、きっと地球全体をも救う力となるはず。
そしてその次の試練を与えられるのが、我々東海地方の人間なのだろう。
一説によると、今回の20倍の規模の地震となるとの説もある。
情けは人の為ならず。いま被災地の人を助ける事は、いつか自分たちに返って来るはず。
我々は覚悟をしなくてはならない。次は自分たちだと。
ウチも耐震工事をしようかと調べていたが、今回の震災を見て止めた。
対策したところでどうせ倒壊する。絶対に無駄になる。
だったらその後に生き抜くために蓄えておいた方がいい。
ただ願わくば、それが起きるならば、
東北地方が完全に復興した後になればいいと切に思う。
いまはただ、被災地の一日も早い復興と原発事故の収束。
そして被災した子供達のもとに笑顔が戻る事。
それだけを願って止みません。