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反省のない押尾学被告
2009年10月30日 11:20:45 [評論]

「酒井法子事件」の初公判が本日(10月26日)行われた。マスコミ、社会の関心は、先日行われた「押尾学事件」よりもこちらのほうが高いようだが、筆者は前者のほうに関心を持っている。このことは、前に当コラムで書いたとおり、芸能界薬物汚染事件として同時期に起こった「酒井法子事件」よりも、死者が出ている点で深刻である、と筆者は受け止めている。

さて、麻薬取締法違反の罪で起訴された元俳優押尾学被告(31)の初公判は、10月23日午後1時半から東京地裁425法廷で開かれた。

起訴状によると、押尾被告は8月2日、東京・六本木のマンションで知人女性(30)と一緒に合成麻薬MDMAを服用。翌3日、警視庁麻布署に逮捕された。女性は服用後に死亡。警視庁は、現場に駆けつけた知人男性が119番通報するまでの「空白の3時間」について、保護責任者遺棄致死容疑などで捜査しているというが、公判では、この点に関してはまったく触れられていない。

報道では、異変が起きてから押尾被告が最初に連絡を入れたのは当時のマネジャー。続いて友人、マネジャーの上司、知人男性と計4人が現場に駆けつけてから通報。救急隊員が急行した時、押尾被告は別のフロアの部屋へ逃げていた。その後、マネジャーらが麻布署に事情を聴かれている中、都内のラブホテルへ雲隠れ。薬物使用の証拠を消すため朝まで生理食塩水の点滴をしてから出頭したという。

報道のとおりであれば、容態異変の女性を放置して、当事者、マネジャー、マネジャー友人、マネジャーの上司、知人男性の5人が現場にいたにもかかわらず、誰一人として、救急車を呼ぼうとしなかったことになるわけで、当事者はもちろんのこと、居合わせた4人についても、人道上、問題があることは明白である。

公判で押尾被告は、MDMAを所持していたのは女性のほうであると証言しているようだ。ところが、同被告が捨て、マンションの植え込みの中から発見されたという女性の携帯電話の記録を常識的に解釈すると、MDMAを所持していたのは女性ではない。

このことから推定できることは、「空白の3時間」のあいだに、押尾被告及びマネジャー等の5人は、(一)MDMAを所持していたのは女性のほうであると、口裏あわせをしたこと、(二)女性の携帯電話を捨てて、通話記録の隠蔽を図ろうとしたこと、(三)女性にMDMA所持の罪をきせるため、「死人に口なし」、容態異変の女性を共謀して放置し、死に至らしめたこと――を否定できないのではないか。

筆者がこのように推理する根拠は、押尾被告がMDMAを所持していたのは「女性のほうだ」という証言をしたと報道されているからである。つまり、同被告は、MDMAの入手経路に関しては、一切口をつぐむつもりのようなのである。同被告が、MDMAを海外で使用したことは、多くの証言がある。

MDMAの入手経路については口を割らず、すべて亡くなった女性のせいにしようと、苦しんでいる女性を3時間も放置していたのだとしたら、それが<罪>でなくてなんであろう。

それだけではない。不思議なのは「酒井法子事件」では、同被告の逃亡を助けた人物がテレビ等に登場しているのだが、「押尾学事件」では「空白の3時間」に居合わせたマネジャー等4名が一切、マスコミに登場しないのだ。

MDMAの入手経路を明らかにしない押尾被告は、反省をしているとは思えないし、それだけに再犯の恐れも高い。しかも、最も重要なのは、同被告及び関係者が人の道から外れていることである。そこに居合わせた4人の関係者も、真実を明らかにしようとしないという意味で、押尾被告と同罪である。このような人倫にもとる行為が許されるのならば、世も末である。

民主党議員の政治資金の細かな記載事項を洗う暇と人員が当局にあるくらいならば、それを割いてでも、押尾事件の「空白の3時間」の捜査に力を入れて、真実を明らかにするよう努めるべきではないか。不幸にも亡くなった女性は、薬物汚染の危険について、身をもって証してくれた。「空白の3時間」に係る真実究明こそが、その死に報いる唯一つの道ではないか。


現代の「兵馬俑」に眠るのはだれか
2009年10月20日 15:28:25 [評論]
先日、あるCSTV局が、兵馬俑の特集番組を放映した。兵馬俑とは言うまでもなく、紀元前221年、中国を統一した第一代皇帝である始皇帝の墓「秦の始皇帝陵」である。現在の西安市郊外に作られ、周囲約6.2キロ、高さ76メートルと巨大な規模を誇っている。37年(38年という説もある)の歳月と70万人の人々が動員された。始皇帝は、生前に自分の墓を作らせたと言われている。

さて、問題の八ッ場ダムである。民主党政権になって、建設中止が決定され、一部の地域住民、関連する都県知事、市町村等が中止反対を叫んでいる。

ここで、八ッ場ダムについて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を使って、
簡単に振り返っておこう。このダムはそもそも、水害から首都・東京及び利根川流域を守るため1952年(昭和27年)に計画発表されたものだが、土壌等の関係で計画は凍結された。その後、現在の地点にダム建設が決定されたのは1967年(昭和42年)のことである。

この間、首都圏の水需要増大に対応するため、計画規模を拡大し、1億トン級のダムとして事業が発表された。それ以降、1986年(昭和61年)、「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が2000年(平成12年)の事業工期として策定された。

更に、2001年(平成13年)の第1回変更で工期が2010年(平成22年)に延長され、2004年(平成16年)の第2回変更で建設目的に流水の正常な機能維持が新たに追加されると同時に総事業費が2,110億円から4,600億円に増額修正された。

2008年(平成20年)の第3回変更では建設目的に発電が追加されると同時に工期が2015年(平成27年)に再延長された。

当初計画の1952年から延長工期の2015年までを数えると63年間(予定)、基本計画(1986年)からカウントしても29年間(予定)となる。その間、建設目的は3回変更されている。今後も変更されないとは限らない。完成する気があるのだろうか。

前出の兵馬俑の工期が38年間であったから、八ッ場ダムのほうが10年以上も長い。そればかりではない。古代の巨大建築物を代表するエジプトのピラミッドと比較すると、もっと長い。ピラミッドは20年程度で完成したと考えられている。

なお、クフ王の大ピラミッドについて、1978年に大林組が「現代の技術を用いるなら、どのように建設するか」を研究する企画を実行した。それによると、総工費1,250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3,500人という数字が弾き出されたという。八ッ場ダムの延長工期による総事業費は4,600億円であるから、乱暴に言えば、ギザのピラミッドが4基程度、工期にすれば6基程度がつくれることになる。

八ッ場ダムに限らないが、大型公共工事というのは、30年を超える長い予定工期の間、地元の建設業者に仕事を保証するようなものだ。地元業者は、営業努力なしで、ほぼ一世代、仕事が確保できる。事業目的は、理屈をつけて、いくらでも変更できる。治水、利水・・・そうして工期はどんどん長くなるのである。

工事中(ダム完成前)に台風や大雨がくるだろう。だが、その間、ダムがなくて困ったという話は聞かない。おかしいではないか。さらに、人口の増減、産業構造の変化もあるだろう。ダムが完成したころには(建設中も)、ダムの機能と目的が合致しなくなることもある。要するに、いらないものを何千億円という事業費を使って、政府は建設し続けているのである。

巨大ダムは、現代の兵馬俑、もしくは、ピラミッドである。そこに眠るのは、地元の自民党系議員たちである。彼らは、地元建設業者にほぼ一世代にわたる仕事を保証し、その見返りとして、票をいただく。計画に参与した議員が引退した跡目は、二代目が次ぐ。自民党の世襲政治である。こうして利権が、一世から二世へと引き継がれる。

八ッ場ダム工事を途中で中止するのはおかしい、と自民党系政治家は声高に叫ぶ。そりゃそうだろう、彼らは建設業者に仕事を保証したのだから。政府民主党に工事を中止されれば、約束が反故になる。約束が果たされなければ、政治家は票の見返りを受けられない。つまり、選挙に負ける。だから、彼らは自らの選挙運動の一環として、ダム工事中止に抵抗するのである。マスコミは、確信的なのか勘違いなのかはわからないが、ダム建設中止の「不合理性」や建設続行の「地元の声」を報道する。

日本には100近くの巨大ダム建設のプロジェクトがあるという。現代の、しかも、先進国といわれる日本の、兵馬俑(始皇帝の墓)やクフ王のピラミッドである。それらは、現代日本の始皇帝やクフ王たち――自民党議員たち――の墓である。民主党は、ダムを破壊することで、自民党の集票構造を破壊しようとしている。ダム建設か、ダム建設中止かは、自民党と民主党の代替闘争なのである。


「小さな政府」なら自民党は消滅
2009年09月21日 16:07:31 [評論]
オバマ米国大統領が「思わぬ」抵抗を受けている。オバマが掲げる米国の医療保険制度(皆保険制度への移行)が、共和党はじめ、米国の保守主義者から「社会主義」と批判されているのだ。反対者の論拠は、自分の健康は自分で守るものだ――という自己責任論に基づいている。反対者側の強力な援軍は民間の保険業界で、彼らも保険料売上を奪う国家による保険制度の法制化に反対している。

米国の伝統的保守主義はリバータリアニズム(Libertarianism)と呼ばれ、原理主義的保守主義者のことをリバータリアンという。この思想は、とにかくあらゆる分野における連邦政府の介入を阻止しようとするもの。たとえば、国家による人種差別廃止、女性差別廃止の法制化も阻止する。リバータリアンに言わせれば、社会、そして、市場競争は自由であるから、人種差別、女性差別という概念は存在しない、だから、人種差別・女性差別を連邦政府が法制化する必要がないというわけだ。教育、文化、スポーツに国家が介入することも嫌う。国家運営のすべてを民間が担うことが理想で、連邦政府の権限拡大をとにかく嫌うのである。米国映画では、地方の町で起きた凶悪犯罪の捜査にFBI捜査官が介入しようとすると、地元の警察、地元民等が捜査協力を拒否する場面がでてくる。FBIというのはいうまでもなく、連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation)である。

「小さな政府」というのは、国家予算(=財政規模)が小さいという意味も含まれるが、むしろ、国家権限が小さいことを意味している。小泉政権が「小さな政府」を掲げながら大失敗したのは、米国の保守主義者のような覚悟をもたず、政府の財政を縮小しようとしながら権限を中央に集中しようとしたからである。つまり、中央政府(霞ヶ関)の立法権限を拡大し、経済(市場)の規制緩和を進め、財政規模を縮小しようとした。滅茶苦茶である。

さて、日本では、法は国会の承認においてつくられる(立法)と教えられる。そして、行政がそれを施行すると。ここで、ディヴィッド・ボウツの『リバータリアニズム入門』に基づき、米国保守主義の法概念=国家概念を探ってみよう。同書では、リバータリアンを代表する、フリードリッヒ・ハイエクの法の支配から話が進められる。
1 法はすべての人に適用されねばならず、支配者といえども例外ではない。
2 誰も法の上に立つことはできない。
3 度重なる権力の偏向を抑制するために、権力は分割されねばならない。
4 法は独立した組織によって立法され、他の組織によって執行されねばならない。
5 法の公平な執行を確かにするために、独立した司法制度が不可欠である。
6 法を執行する人たちに自由裁量があってはならない、なぜなら、権力による自由裁量は、法のルールを妨げる害悪だからである。
 
以上の6項目は当たりまえで、日本国民ならだれもが知っている三権分立の理念に近い。だが、ハイエクは、法というのは、いかなる立法機関よりもずっと、古いものだと説明する。ハイエクは、「共通するルールを遵守することだけが、社会において諸個人が平和のうちに生きることを可能にする」とのべた。法は、争いが一つ一つ解決決着するごとに、その都度築かれたものだと。ハイエクは、「歴史上の偉大な法律制定者たち、たとえばハムラビ、ソロン、リクロゴロスといった人たちといえども、新しい法律を創り出すようなことはなかった。彼らは単に法とは何であり、何であったのかを語っただけである」という。これらが慣習法の根拠とも言うべきものである。言ってみれば、慣習法の下、個人の裁量で自由に活動を行えば、社会は良くなるということがリバータリアニズムの根源である。連邦政府が法律を乱発するような(=規制を強化する)米国であってはならない、というのである。それが、米国の保守主義者の「小さな政府」なのである。

さて、総選挙惨敗後、自民党の総裁選に立候補したKは、「保守主義」と「小さな政府」を新生自民党の綱領に掲げようとしている。よほどの覚悟のうえであろうか。「小さな政府」を日本に定着させるということは、個人が、慣習法の下で政府の関与(政府と国家による立法)を拒否しつつ、分割された権限の中、国民が自由に(勝手に)経済活動を行い、その結果において富を築くことをよしとする国家をつくろうということである。リバータリアンの一人・サラ・グリムケは次のように言っている。「すべての個人は、そして個人だけが、自分の行為の責任を取ることができるのであり、また、取らねばならないのだ」。

自民党の再生のためには、民主党と対立する軸をつくる必要がある、とよく言われる。自民党総裁に立候補したKが「小さな政府」を標榜するのも、おそらく、民主党の社会民主主義路線と対立する軸を明確にしたい、と思うからだろう。しかし、再生自民党がハイエクに戻り、自己責任を掲げ、規制緩和を進め、政府の権限及び財政規模を縮小する「小さな政府」を目指せるのか、それだけの覚悟があるのか、筆者は問いたい。

二大政党制の雛形として、米国の民主党−共和党をイメージすると誤る。米国は、世界の中でも例外的な国家であり、ユーラシア規模におけるスタンダードにはなりにくい。米国の共和党支持者には、無数のリバータリアンがいる。彼らは、国家に支払った健康保険料が、貧者や弱者の病者の医療費に使用されることを拒否する輩である。自分たちが、いつ、敗者、弱者になるとも限らないのに。国民皆保険制度を法制化しようとするオバマを、「社会主義者」と糾弾するような人々が、日本の有権者のなかに存在するだろうか。

リバータリアンは、個人の成功が社会の関与によって成し遂げられたという解釈を拒否する。すべてが、個人の成功も失敗も、個人に還元される。リーバタリアンは、個人といえども、社会的存在であることを否定する。筆者に言わせれば、米国とは、真から病んだ国家(国民の半分がリバータリアンという)だと思う。自民党が、病んだ米国のような日本をつくる、と、不況にあえぐ有権者の前で公言したとしたら、おそらく来年の参院選でも惨敗するだろう。

筆者の想像では、総裁選候補者のKに、「小さな政府」を進める覚悟と勇気があるとはとても思えない。観念論として、民主党との対立軸として、「小さな政府」を持ち出すのは、日本と米国の国の成り立ち(=歴史)の違いを思料しない浅はかな考えというほかない。

近代の日本は、明治維新から「大きな政府」を目指し、アジア太平洋戦争の最中、1940年代に構築された国家非常体制(=1940年体制)の完成において、最大化した「大きな政府」を確立した。戦後は、55年体制から小泉政権誕生前まで、一貫して「大きな政府」の維持を目指してきた。自民党=保守本流の国家像は、「大きな政府」である。だから、自・社・さきがけの連立が可能だった。そしていま、日本のみならず先進国は、「小さな政府」では国民を幸せにできないことを学び、社民主義に舵を切ったばかりだ。唯一、「小さな政府」を目指しているのが、米国の共和党とその支持者という現状にある。

繰り返すが、「小さな政府」という言葉を安易に使用してはならないし、それを自民党再生のキーワードにすれば、来年の参院選で惨敗し、自民党は消滅する。


民主党女性新人議員に期待する
2009年09月20日 10:33:47 [評論]
このたびの総選挙の結果、民主党から多数の女性議員(「小沢ガールズ」)が当選した。彼女たちは自民党の「大物議員」と呼ばれる候補者と小選挙区で戦い、勝ち抜いた者が多い。その存在は、「郵政選挙」のときの自民党の新人当選者である「小泉チルドレン」と比較される存在となっている。

筆者は、「小沢ガールズ」と「小泉チルドレン」との間には、大きな隔たりがあると思っている。「小沢ガールズ」はエリート臭がなく生活者として、いろいろな職業を選択し、自己を鍛え、このたび国政に向かったような感じがする。立候補する前の立場や職業はいろいろのようだが、新市場主義における「勝ち組」とは趣が違う。彼女たちは、図らずも余儀なくされ、派遣社員、フリーターといった立場に追いやられた、現代の若者たちの厳しい現実を、直裁に理解できるように見える。

女優であった新人議員のキャリアを揶揄するマスコミがあるが、マスコミの思い違いである。俳優という職業において、どのような役柄につこうが、俳優自身とはいささかも関係がない。役者がどのような人物を演じようが、俳優自身の人間性、思想性、政治性、倫理性とは一切関係がない。

「小泉チルドレン」の代表・K(落選/元財務官僚)、S(落選/元外資系銀行アナリスト)、I(立候補せず/元大学教授)・・・らはどちらかというと、コンサーバティブ・エリートの女性のような感じを受けた。当時の新自由主義(新市場主義)における「勝ち組」に近い。

しかし、昨年秋のリーマン・ショックを境に、新市場主義も、それを体現したエリートたちも、一気に色あせた。元財務官僚出身――エリート中のエリートといわれている――Kが、選挙戦の最中、演説会に集まった後援者(有権者)に土下座するシーンが印象的であった。そのシーンは、選挙戦というよりも、借金の返済ができなくなって、債権者に詫びる債務者のように見えた。

サルは木から落ちてもサルだが、政治家は選挙に落ちれば「ただの人」といわれるらしい。現実は確かにそのとおりなのだろうけれども、当選しても落選しても、政治家は政治家である。選挙では有権者に投票をしてもらわねば困るのは当たり前だが、人間としての矜持を失ってはならない。政治家であれば、ときには、有権者を啓蒙しなければならないこともあるだろう。大衆に敵対する必要はないけれど、立場が違う者同士の、つまり、人間と人間の関係性における適正な距離感を保つ必要がある。ましてや、総選挙は国政であって、国のために地域が犠牲を強いられる場合だってある。選挙戦で土下座してしまったら、当選しても、地域の有権者の利益代表として、全存在が地元に拘束されてしまう危険性を否定できない。土下座は、自己を地域の利益代表以外の何者でもないと規定してしまう可能性を否定できない。政治家として地域密着の姿勢は重要であるけれど、立場の違いを織り込んだ、適正な距離感だけは失わないでほしい。



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