まえがき
日本における保守とはどういうものなのかと思い、政治史を紐解いてみた。それが思ったより大変で、そしてなぜだか疲れやすくもなっているようで、なかなか書き上げられなかった。
書いている途中で、冷戦の事を書いた方が現代における日本の保守というものがくっきり浮かび上がるのではないのかという気がした。機会があれば、いずれ冷戦の事を書いてみようと思う。
1、日ソ国交回復〜当時の反共意識〜
日本においていつ頃から明確に保守主義というのが意識されるようになったか解らないが、戦後初期の政治において、保守主義は反共産主義の方向であったようである。保守主義が反共産主義であるのは当然といえば当然であろうが、これから語る後々に意味合いを帯びてくる。
昭和三十(1955)年、鳩山一郎総理が日ソ国交回復の際、ソ連在日代表部のドムニツキーに「共産主義は大嫌いだから、日本に共産主義を宣伝する企てがあるなら、同意しない」などと言ったという。日ソ国交における交渉において反共意識が見られる。また、その交渉において、「択捉、国後の二島の北方領土返還に応じなければ、日ソ国交回復すべきではない」という意見があったというから、現代の日中・日朝においていくらか関連する事柄でもあるかもしれない。ともかく、そうした反共意識が政治の潮流として流れていたのである。
そして昭和三十年のこの時期あたりに保守合同で今の自由民主党が誕生。昭和三十一年にモスクワで日ソ国交回復を果たす。
2、六十年安保〜その過激な闘争〜
昭和三十五(1960)年、左翼が国会周辺で反安保闘争が繰り広げられる。著書「戦争論2(小林よしのり P148)」によれば、「日米安保は戦争勢力の加担であるから、安保を粉砕し、日本を平和勢力の陣営に参加させた方がいい」と本気で信じていたものが多いが、アメリカ追従の戦後体制への反発から参加するものもいたという。
また、デモを抑えるために自衛隊出動をさせようとする話もあったという。デモの勢いは増していき、当時の総理、岸信介は首相官邸に閉じこもり、死をも覚悟したという。
ただ実際は自衛隊も出動される事はなく、岸信介総理も殺される事はなかった。新安保条約が自然承認となり成立すると、デモの勢いは失われていった。そして岸信介は総理を辞職する。
こうして見ると反安保闘争はすさまじいものであったと思える。その目的や動機といったものは不純なるものであったという気はする。ただ誉められた事ではないけれど、そうした「熱狂」には「活力」はあったか。そう考えれば現代においては「活力」というよりも「無気力」の方が大きく作用しているように見えて、その点では昔の方が良かったのかもしれない。
ただこの過激な闘争といったものが、後々の政治に影響していく。また現代における保守主義者もこうした動きを見るにつれ、左翼に対しての悪感情や危機感などといったものが成熟されていったのではあるまいか。
3、吉田ドクトリン〜経済的繁栄と利己主義の迷路〜
昭和六十年(1985)年に出版された永井陽之助氏の著書「現代と戦略」で書かれてあった「吉田ドクトリン」という言葉が広まっていった。この吉田ドクトリンの意味するのは、単純に言えば「再軍備反対・経済重視」とする考え方である。そして永井陽之助氏が吉田ドクトリン正統派に属する人としたのが、大平正芳、鈴木善之、宮沢喜一氏などだという。ただ吉田茂の考え方は誤解されたようで、「軍事には巨額の費用がかかるので、敗戦後の日本ではやらない方がいい」といったような意味で吉田茂は考えていたという。しかし、こうした吉田茂の状況判断に基づく考えは「吉田ドクトリン」には含まれず、流通していったようである。
岸信介の後任となった池田勇人は、昭和三十五(1960)年に「所得倍増計画」を打ち出す。また、池田内閣のキャッチフレーズは「寛容と忍耐」であった。このキャッチフレーズは、池田勇人と、池田側近の大平正芳と宮沢喜一らが相談して決めたそうである。
「吉田ドクトリン」は戦後復興初期においては有効な考え方であったとは思う。また、軍事力を増強するのは費用がかかるという事であるなら、経済と軍事に関わりを示唆しているものというふうに考えてもよいかと思う。例えば、外敵に備えるために軍事力を増強すると、財政負担と国民の経済負担が重なり、国家が内部から崩壊する危険性があるという意味を「吉田ドクトリン」は内包しているというわけだ。しかし、そうした意味を内包して流通したというわけではなく、察するところ、左翼による闘争や批判といったものを恐れたという事、つまりはそうしたものによって再軍備反対・経済重視という「吉田ドクトリン」が生じた。そしてそれが実際に流通した「吉田ドクトリン」の精神であろう。
こうした経緯で日本は高度経済成長へと歩みを進め、経済的には繁栄を遂げた。しかし同時に、失うものもあった。
オルテガは著書「大衆の反逆」において、「利己主義は迷路である。それはもっともな事だ。生きるとは、なにかに向かって放たれることであり、ある目標に向かって進むことである」と述べた。思うに、経済的繁栄は結局のところ「利己主義の迷路」に誘うものではなかっただろうか。ある目標に進むどころか、むしろ目標から遠ざかっていったのではあるまいか。
4、総論〜六十年安保の呪縛〜
戦後初期において、保守派は反左翼であることに努めてきた。率直に言って、反左翼である事が独立という観点に当時は深く関わっていたものであり、またGHQの傀儡という意味で政治的妥協から生じたものでもあるだろう。
昭和二十五(1950)年、吉田茂総理が在任の時に警察予備隊が発足したが、それはマッカーサーの指令であり、また吉田茂も国内の共産党の動きが気になり治安に不安を喜んだそうだ。しかし、再軍備には巨額の費用がかかるため、積極的な再軍備は嫌がったようである。
つまり、第一に経済、第二に軍備とでもいうところであり、そして反左翼であった。そうした三者の絡みにおいて独立を志向していったわけだ。
現代において、不安は残るものの経済的自立は達成したものとしてもよいかと思う。しかし、軍備と左翼における課題が残っているというわけだ。
そして軍備における思想潮流が、保守において親米と反米とに見解がわかれた。軍事において日米同盟に関しての考え方に齟齬が生じたのである。
私の考えを述べれば、日米同盟はあったほうがいいとは思うが、だからといってアメリカに判断の全てを依存すべきではない、という事である。というより、それは別にどうということはない普通の同盟であるかと思う。またイラク戦争には米国の大義に不純を見るので、積極的に支持できるものではないのである。
西部邁氏が文藝春秋から発行された「日本の論点 2005」において「戦後日本では、親米が保守であることの、そして反左翼であることの印とされてきた」と記した。つまり、「親米=反左翼」の図式が親米保守に成立しているというわけだ。
ただこの図式にはいくらか疑問がある。というのは、親米保守は実際、著書を見る限りではアメリカ批判を行っているという事である。でもそれもまた奇妙なのである。どういうわけかそのアメリカ批判には、彼らが見なしていると思われる左翼(親中・反戦・平和といったもの)とは縁の遠いところで行われているという事だ。つまりは親米・反中イデオロギーを奉じている事に終始してしまっている事である。同時に、今月号は買っていないが雑誌「正論」においては盛んに中国が取り沙汰されている。中国においては血気盛んな者たち、どうもこれが親米保守の生態のようである。
六十年安保のイデオロギー対立の構図に親米保守は嵌っているとしか思えない。
2004/11/25 02:15:56
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